第一話 欠陥品の令嬢
春の光が差し込む朝、エルカリナ伯爵邸の書斎には魔法陣の設計図が山と積まれていた。
「ルミナ、今日は国家式典です。準備をなさい」
侍女のマリアが声をかけると、窓辺に立っていた令嬢がゆっくりと振り返った。艶のある深紅の髪と、落ち着いた翡翠色の瞳。ルミナ・エルカリナは二十歳の春を、この書斎で迎えていた。
「わかっています」
短く答え、彼女は手にしていた羊皮紙を静かに机に置いた。父の研究ノートの写しだ。エルカリナ家は百年以上にわたり王国の魔法研究を支えてきた名門であり、ルミナはその血を受け継いで生まれた。
ただ、その受け継ぎ方が――少々、世間の期待とは異なっていた。
「また魔法陣の研究ですか」とマリアが苦い顔をする。「式典には殿下もいらっしゃいます。婚約者として恥ずかしくないよう、今日こそ魔法の一つでも――」
「無理です」
ルミナは静かに、しかし明確に遮った。
魔力を制御する力。それがルミナの持つ才だった。発動しようとする魔法を、意図せず抑制してしまう。炎を起こそうとすれば消え、水を操ろうとすれば止まる。自分の魔力だけでなく、周囲の魔力の流れを無意識に整えてしまうのだ。
エルカリナ家の先代当主――ルミナの祖父にあたる人物は、この才を「制御の恩寵」と呼んでいた。魔法研究者にとって、魔力の流れを制御する能力は理論の根幹に関わる希少なものだと。しかし祖父が逝って久しい今、その評価を引き継ぐ者は家の中にもほとんどいなかった。
社交界での評価は単純だった。
魔法が使えない令嬢。
エルカリナ家の欠陥品。
それがルミナ・エルカリナに貼り付けられたもうひとつの名前だった。
第二王子テオ・マルコシアンとの婚約が成立したのは、ルミナが十五歳のときのことだ。当時の国王が魔法研究の名門との縁組を望んだ政略的な側面が大きかったと、ルミナ自身もわかっていた。それでも彼女は誠実に婚約者としての役割を果たしてきた。社交の場では笑顔を絶やさず、王家の行事には欠かさず出席し、テオの隣で静かに立ち続けた。
テオがルミナを「役に立たない」と感じていることは、とうの昔に気づいていた。
それでも、この婚約が国のためになるなら。
エルカリナ家の名に泥を塗らないためなら。
ルミナはそう言い聞かせて、五年を過ごしてきた。
「お嬢様」
マリアの声のトーンが変わった。
「今日の式典には隣国の使節団もいらっしゃるそうです。ヴェルナード侯爵家の……あの、大魔導士様も」
ルミナは小さく目を細めた。
ザイル・ヴェルナード。隣国アルテミア王国で筆頭魔導士の地位にある人物で、その魔力の規模は王国でも噂になっていた。強大すぎる魔力が制御しきれず、意図せず周囲に影響を与えてしまうという話が、研究者の間では密かに語られていた。
「魔導士が外交に同行するのは珍しいですね」
「護衛も兼ねているとか。……お嬢様、本当に式典のご準備を」
「今行きます」
ルミナは鏡の前に立ち、深呼吸をした。
今日が何でもない一日であればいい。そう、ただそれだけを願いながら。




