第9話
試合が終わってしばらくしても、群衆の興奮は冷めやらなかった。ざわざわといつまでたってもどよめきは消える気配を見せない。
殿下の騎士たちはどこか呆気にとられたような目で僕を見ていたし、グウェンドリン卿は高台から身を乗り出していつもより十倍増しほどのキラキラとした視線を送っていた。
パトリシア殿下が立ち上がり一歩前に進み出ると、次第に話し声は落ち着いていった。
人々はパトリシア殿下の言葉を一言一句たりとも聞き漏らさないように耳をそばだてる。僕は近づいてきた同僚の騎士に馬の手綱を預け、高台の前に跪いた。
「騎士ショルツ卿よ、見事な腕前だった。この試合は後世の語り草となろうよ。」
パトリシア殿下が興奮して弾んだ声で僕に語りかける。
「はっ、身に過ぎたるお言葉、このショルツ、光栄でございます。」
僕はぎゅっと拳を握りしめた。ここからが本番だ、なんとかして剣の指導の話は断らなければ。
「オルドラン卿もよくやった。ショルツ卿に敗れたとはいえ、オルドラン卿の武勇は冴え渡っていたぞ。」
「…勿体ないお言葉、丁重にお受けいたします。」
隣で僕と同じように跪いたオルドラン卿が意気消沈したように小声で返答する。僕はオルドラン卿をすこし気の毒に思った。
いくら真剣勝負の結果とはいえ、こんな人数の前で僕みたいな田舎騎士に負けたのはそうとう堪えるだろう。
「それで、だ。勝者であるショルツ卿への褒美だが、この私のもう一人の剣術指南役として…。」
「お待ちください、パトリシア殿下。」
喜びを隠しきれていない声でパトリシア殿下が話そうとするのを遮った。
先程までとは違う意味を持ったどよめきが走る。副団長が腰を持ち上げたのが見えた。
王族の話を途中で遮るというのはその場で打ち首になってもおかしくない大罪だ。しかし、パトリシア殿下は試合の興奮で機嫌がよいようだった。
「よい、他の誰でもない勝者の言葉だ。ショルツ卿、口を開くことを許す。」
上機嫌なパトリシア殿下の声が聞こえる。僕は手に汗がにじんでいるのを感じた。
これからだ、ここで言葉選びを失敗するとまたパトリシア殿下の機嫌を損ねてしまう。
「誠に失礼とは存じ上げますが、このショルツへの褒美は辞退させていただきたい。」
ついに言った、言ってしまった。群衆が大騒ぎするのが聞こえる。
「…今、何と申した?」
パトリシア殿下が眉をひそめた。僕の額を冷たい汗が流れ落ちていく。
「この試合は単にオルドラン卿との技量比べに過ぎませぬ。居並ぶ敵を薙ぎ倒したわけでも、怪物を討伐したわけでもありませんのに褒美は受け取れません。
褒美を賜るというのならば、常日頃森の獣を撃退し続けた北方騎士団の同胞に賜るのが道理かと存じ上げます。」
これが、僕が昨日一日をかけて考え出した断り文句だった。
この試合自体を単なる鍛錬の一環と言い張り、論点を北方騎士団の日頃の勤めにずらす。
随分と穴だらけの論理だが、今の僕は周囲には日頃の騎士団の働きを訴えかける仲間思いの騎士と映っているはずだ。
いくらパトリシア殿下でも、そんな僕の申し出を断ることは出来まい。
「パトリシア殿下、ショルツ卿の仰ることもまた然り、でございます。
ここは北方騎士団に血と魂を捧げる騎士たちの働きに報い、ショルツ卿への労いはまた別の機会になさるのがよろしいかと……。」
パトリシア殿下の隣にそっと寄り添った副団長がわざと周囲に聞こえる声で僕の申し出を受けるよう勧める。
パトリシア殿下も周囲の群衆の期待に満ちた目に、ようやく僕の企みを悟ったようだった。一瞬僕をとんでもない目で睨みつける。
しかし、なかなか返事をしないパトリシア殿下を訝しむ民衆のひそひそとした声に渋々《しぶしぶ》口を開いた。
「……よろしい、ショルツ卿。お前の願い、聞き入れよう。此度のショルツ卿の褒美に代え、北方騎士団の勇猛な騎士たちに賞与を与える。それでよいな?」
「はっ、不肖このショルツの申し出をお聞き入れくださり比類なき幸せ。」
僕は再び深々と跪いた。よかった、なんとか剣の指導の話だけは先延ばしにすることができた。
そう僕が胸を撫でおろしていると、隣のオルドラン卿が口を開いた。
「パトリシア殿下の騎士でありながら敗北を喫したこと、許されることではございません。このオルドラン、身をもって償いたいと存じます。」
思い詰めたようなオルドラン卿の声色に僕はなぜか嫌な胸騒ぎがした。
大丈夫、オルドラン卿も僕が殿下に剣を教えることには大反対だったはずだ。そう自分に言い聞かせる。
「オルドラン卿、そう気に病むな。何をするつもりなのか知らんが、お前の見事な武の腕前もしかと見届けていたぞ。」
パトリシア殿下が慰めの言葉をかけるも、オルドラン卿は固い表情を崩すことはなかった。
「いえ、敗北の失態はなにも変わりはいたしませぬ。故に、このオルドラン、
……殿下の剣術指南役から身を引きとうございます。」
!? 僕はオルドラン卿がいったいどうしてそんなことを言いだしたのか、まったく理解ができなかった。
別にオルドラン卿は勝とうが負けようがパトリシア殿下に剣を教えることになっていたはずだ。それが、いったい何故…?
驚いたのはパトリシア殿下も同じだったようで、間髪入れずに動揺で震えた言葉をオルドラン卿に投げかけた。
「どうしたというのだ、オルドラン卿?」
「このオルドラン、愚かなことにショルツ卿を侮っておりました。田舎の片隅でほらを吹いているだけの、騎士の風上にも置けぬ匹夫だと。
しかし、この試合の顛末をご覧ください。何よりも強くあらねばならない殿下の指南役があまつさえ鎧も槍も馬も有利な状態でぐうの音も出ぬ大敗を喫した現実。
何より、このオルドランはショルツ卿の変幻自在の流麗で見事な剣裁きに見惚れてしまった。
このような未熟者に殿下の剣術指南役は務まりませぬ。」
オルドラン卿は覚悟を決めた目で大地を睨みつけていた。
しかし、現実問題誰かがパトリシア殿下に剣を教えなければならないわけで、それが出来るのはオルドラン卿をおいて他には…。
僕は実に嫌な予感がしてきた。今までの経験則からいって、オルドラン卿の話はろくなことにならない気がする。
「しかしだな、お主以外の誰に指南役が務まるというのだ。」
「おるではございませぬか、素晴らしい騎士が殿下の御前に。
このオルドランが手も足も出なかった、王国内でも並ぶ者は限られるであろう剣技を修めた騎士が。」
パトリシア殿下がその視線をゆっくりとオルドラン卿の横に移した。喜びの笑顔をこらえるように口の端がピクピクと震えている。
僕は無性にこの場から逃げ出したくなった。が、パトリシア殿下と目があう。まるで逃がしはしないという風な、猛禽の類の目だった。
「ほう、すまないがオルドラン卿、その者の名を教えてくれるかな?」
オルドラン卿、後生だ、頼むっ……! 僕は心の中で必死に祈った。
マルグレット卿でも、グウェンドリン卿でも、副団長でもいい、他の騎士の名を呼んでくれたら足を毎日舐めたってかまわない!
しかし、そんな僕の祈りは無情にも裏切られた。
「北方騎士団の誇り高き騎士、ショルツ・ド・バイヨン卿その人でございます。」