122話
翌朝から、またあづさ達は元気に進軍していった。
人間の国の中であれば、そう問題も起こらない。道中で一度、盗賊の類が出はしたが、30人余りの傭兵やその他に武器を構えられてはすごすごと退散していくしかない。
そんなこんなで何事もなく、あづさ達は魔物の国との境界までやってきたのである。
「これが人間の国との境にある結界、よね……」
あづさは結界を眺めて、ほう、とため息を吐く。
あづさにとっては二度目の目撃だが、人間の国の人間達にとっては初めて見る結界であるはずだ。彼らの反応は緊張に満ちていて、あづさにはそれが新鮮に思える。
「この結界が、伝説の……実際に見るのは初めてですが……」
シャナンが結界の前で唸る。決して結界に触れようとはしないところを見ると、人間達の間にこの結界のことが何か、とてつもなく危険なように伝わっているのかもしれない。
あづさ達は結界の前で休憩することにした。これからいよいよ魔物の国に入る、というタイミングであるので、不自然ではない。
だが、ここで休憩するのには、意図がある。
それは……。
「なっ、なんだ!?」
「水の……馬!?」
結界から飛び出してきたのは、水の馬の騎士。
そう。あづさはルカの登場を待っていたのである。
昨夜の内にスライムを通して打ち合わせてあった通り、ルカが出てきてすぐの位置にはミラリアが座り込んでいる。そしてラギトもフォグも、離れた場所に居た。
ミラリアがはっとした表情を浮かべてルカを見上げるも、遅い。
ラギトやフォグが反応し、傭兵達が反応するよりも先に、ルカはケルピーに乗ったまま、さっとミラリアの横へと着地した。
ケルピーは水でできているという特性を生かして、そのまま体高を限りなく低くする。いっそただの水溜りのようになってしまえば、ルカはそう身を屈めずともミラリアに手が届く。
ルカはミラリアの細い腰にさっと腕を回すと、ミラリアを抱き寄せ、そのままケルピーの上に乗せてしまった。
「なっ、何をするのですか!」
ミラリアは声を上げたが、ケルピーはすぐに馬の姿に戻り、そして背中の翼で羽ばたいて上空へと飛んでしまっている。
ラギトとフォグが動こうとし、傭兵達やシャナンも武器を構えてルカを見上げたが、ルカはすかさず、槍の先をミラリアの胸へと向けて構えた。
「動くな。下手な動きを見せたら、この女の心臓は貫かせてもらう」
ルカの言葉に、全員が動きを止めざるを得ない。
全員が動きを止め、ルカを睨むばかりとなったのを見下ろして、ルカは口元を歪めた。あづさはそれを見て、『ああ、悪役っぽいわ』と妙に感心してしまう。
「お前達が妙なことをしなければ、この女の命は保障する。俺達も、殺すことは望んでいない」
ルカの声が涼やかに凛として通ると、どういうことだ、と、皆が訝しむ。
「この女は預からせてもらう。お前達が逃げることなく、城へ来るように。……要は、人質だ。本意ではないが、お前達を確実に話の席に着けるためだ」
そう言って、ルカはケルピーに指示を出す。するとケルピーはふわり、と一段高く、空へと昇った。
「では、数日後。また城で会えることを楽しみにしている」
「お姉様!」
あづさの叫びも空しく、ケルピーは空へ羽ばたいていく。そして結界を抜けると、彼らの姿は見えなくなってしまったのだった。
「な……なんということだ……」
シャナンが愕然として、そう呟いた。この場に居る者のほとんどは皆、同じ思いであっただろう。
「マリー嬢が、魔物に攫われてしまうとは……!おのれ!」
そしてシャナンは激高したようにそう叫ぶと、結界に向かって行ってしまう。
「ま、待って!駄目!結界がどんなのか、分からないわ!」
結界へ突っ込んでいこうとしたシャナンを引き留めて、あづさは必死に訴える。
「お姉様は大丈夫!大丈夫だから、落ち着いて……」
人間は時に、一周回って正反対の事をすることがある。喜びのあまり涙を流し、怒りのあまり笑みを浮かべ、そして混乱のあまり冷静になってしまう。
あづさは一周回って冷静になったようなふりをする、という二周回った演技をしつつ、シャナンを引き留めることで自分自身をもまた、引き留めた。
……そうしてシャナンががっくりと崩れ落ちて膝をつくのに縋りつくように支えながら、あづさは考える。
この結界はそもそも、一体何のためにあるものなのだろう、と。
この結界は、先代の魔王が張ったもので間違いないらしい。となれば、全くの無意味な代物、というわけはないだろう。
『結界があるように見えて実際は特に何もない』という壮大な猫騙しの可能性も無くはないが、それもどうにもしっくりこない。
そして何より……この結界は、長らく魔物の国と人間の国とを隔ててきたのだ。魔物の側としては人間の国に用事など無かったから当然であろうが、人間の国にとっては……侵略したくてたまらない敵国を侵略しようとしなかったわけはない。
この100年、誰1人として試さなかった、とは思えないのだ。
ならば。
「ねえ、シャナンさん。この結界が何か、知ってる?」
あづさが尋ねると、シャナンは少し頭を冷やしたらしく、数度呼吸した後に努めて冷静に答えた。
「ええ……100年前、悪しき魔王が最後の悪あがきとしてこの結界を残し、これにより人間の国は魔物の国からこれ以上の大地を取り戻すことができなくなった、と伝えられています」
「この結界って、通り抜けできないのかしら?」
「ええ。通り抜けようとしても阻まれて、向こう側へは行けないそうですよ。なんでも、結界の中で消滅してしまうとか。……しかし、先ほどの魔物はマリー嬢を攫って、通り抜けていましたが……」
シャナンの言葉を聞き、あづさは確信する。
つまり、この結界は誰にでも通り抜けられるわけではないのだ。
「なあなあ、もう通ってもいいか?いいよなァ?」
「あなた、シャナンさんの話を聞いていなかったの?この結界を通ろうとしても、結界の中で消滅してしまうかもしれないのよ?」
やがて、焦れたラギトが声を上げ始めるとあづさはラギトを止める。だが、それより先に、ラギトは結界の中へ飛び込んでしまった。
そして、何事もなく戻ってくると、「な?大丈夫じゃねェか」と自慢げに胸を張る。
それを見た傭兵の1人が恐る恐る結界に手を差し入れてみるが、特にどうということもないらしい。
遂には傭兵の1人が結界の向こうへ行き、また戻ってきて大丈夫だと言う。
あづさは首を傾げつつ、しかしこの結界がやはり機能しないことは確からしく……あづさも結界を通り抜けようとした、その時だった。
「っ……!」
小さく押し殺した声が聞こえた。
あづさがそちらを見ると……そこには、指先を失ったフォグの姿があった。
「だ、大丈夫!?」
あづさが駆け寄ってフォグの手を見ると、文字通り、指先が消えていた。削り取ってしまったかのように指先が消え、そこからとめどなく血が流れている。
ざわめく傭兵達を制して、あづさはすぐ、回復の魔法を使う。
幸いにも魔法は間に合い、フォグの指先は再生する。フォグはそれを不思議そうに見つめつつ、少々戸惑ったように結界を見つめた。
「……通れないのは、俺だけか?」
「う、うーんと……他に、まだ通ってない人はいる?」
あづさが尋ねてみると、傭兵の数人とシャナンが手を上げる。だが、彼らも順繰りに試す中で、結界に阻まれないことが判明した。
「これは……どういうことかしら」
これにはあづさも、いよいよ頭を悩ませる。
この面子の中で唯一、フォグだけが通れない結界。あづさ達には何事もなく通り抜けできるが、フォグに対してはきちんと『結界の中に入ったものを消滅させる』という作用を見せている。
……否。フォグだけではない。
魔物の国からこちら側へ来るときに、結界に向かって石を投げた。あの石も、消えている。だが、差し入れた枝は、消えていない。
あづさは先ほどの枝を拾い上げて、もう一度結界に差し入れる。引き戻すが、何もない。
それを確認してから……あづさは、結界の中へ差し入れた枝から、手を離した。
「ああ、そういうこと」
あづさは落ちた枝を拾い上げて、この結界の仕組みを理解した。
半ばまで結界に差し入れてから手を離した枝は、丁度結界に入っていた分だけ消滅している。
「フォグさん。手、貸して」
あづさはフォグの返事も聞かずにフォグの手を握ると、そのまま彼の手を、結界へと引き込んだ。
フォグは驚いて手を引っ込めようとしたが……途中で動きを止める。
あづさに握られて引き込まれたフォグの手は、今度は何事もなくそこにあった。




