116話
その日の夜、あづさの部屋にミラリアが訪ねてきた。これも織り込み済みのことであるので、あづさは驚いた顔をしつつも全く驚かずにミラリアを部屋へ招き入れる。
そして雑談している間に、ラギトが部屋にやってきた。これもやはり織り込み済みのことである。
……そうしてラギトが楽しく騒がしくしていると、その騒がしさに気づいたシャナンがやはり、部屋にやってきた。あづさはそれを喜んで迎え入れて、あづさの客室は随分と賑やかになる。
その時だった。
窓の外に、咆哮が響く。竜の嘶きは空気を震わせ、城を震わせた。確実にアーリエス4世にも届いたであろう声は、次第に王城へと迫ってきて……客室の窓と壁とを割り破って、止まった。
「きゃっ!?な、何!?」
あづさ他全員が困惑する中、窓の外には、漆黒の竜が居る。
……漆黒の竜は琥珀色の瞳をあづさに向けて、笑うように目を細めた。
あづさは漆黒の竜……ギルヴァスに、そっと、ウインクを返すのだった。
王城の敷地内へ侵入し、空に留まりながら『勇者』の居る客室に顔を向けている竜の姿は、多くの人々にとって、災厄である。
百年以上前の伝記か御伽噺でしか知らない存在が居る、ともなれば、城の兵士達も、そしてアーリエス4世もまた、咄嗟に動くことなどできやしない。
そんな人間たちを睥睨して、ギルヴァスは悠々と言葉を発する。
「異世界の者よ。聞こえているか」
竜の姿で発声することはできないはずなので、これも1種の魔法、ということになるのだろう。もしかしたら、ネフワやシルビア達、雷光隊の助けを借りたのかもしれない。
「あ、あなた、誰?」
あづさ達は身構えつつも、そう竜に問う。
すると……ギルヴァスは一瞬目を閉じて逡巡した後……言った。
「……我は魔王。魔の国を統治する者だ」
ギルヴァスの一言は王城に大きなざわめきをもたらした。外を警邏していた兵士達、夜遅くまで働いていた召使い達……そして、アーリエス4世もまた、この尋常ではない事態に少なからず怯え、そして絶望した。
「ま、魔王ですって!?」
「わ、私達を殺すつもりなの?」
あづさとミラリアが互いに互いを庇うように立ちつつそう問えば、ギルヴァスは喉の奥で笑う。……如何にも魔王らしい振舞いであったが、その実は演技をしつつもギルヴァスが『魔王』を演じていることを可笑しく思って笑いを堪えているあづさとミラリア、そしてボロを出さない内に、とミラリアの魔法で口に水の猿轡を嵌められつつも妙にきりりとした表情であづさとミラリアよりさらに前に立つラギトを見て笑いを堪えているだけのようだった。
「今はまだ、殺すつもりはない。……無論、今後のお前達の行動次第ではそうせざるを得ないかもしれないが」
威嚇するように、ギルヴァスは琥珀色の瞳を細める。そこに鋭い光が走るのを見れば、彼が強大な力を持つ生き物であると、誰でも否応無しに理解するだろう。
「だがまずは一度、話そうではないか、異世界の勇者よ。会っていきなり殺し合うのも品が無い」
「魔物と話すなんて……」
「記憶を取り戻したくはないか?」
あづさはそれに答えない。ただ、言葉を失って立ち尽くす。そういう振る舞いをする。
「話すつもりがあるなら、魔物の国へ来い。人間の国から最も近い城、地の四天王城で待っているぞ」
そして最後にギルヴァスはそう言うと、翼をはためかせて空へと戻ろうとする。
その時だった。
「怯むな!撃て!」
アーリエス4世の声が、響く。
そしてそれと同時、幾本もの矢が、ギルヴァス目がけて放たれた。
「……愚かな」
ギルヴァスはそれらを心底うんざりしたような、或いは悲しむような呟きを零し、そしてそんな色を目に過ぎらせたが。
……次の瞬間、ギルヴァスの尾の一振りで城の一部は呆気なく崩れ、そして矢はギルヴァスの鱗を破ることもできずに弾き飛ばされる。
崩されたのは、アーリエス4世の部屋だった。部屋の壁が崩れて、そこから部屋の中が覗く。バルコニーに出ていたアーリエス4世は自分がたった今、魔王の情けによってのみ死なずに済んだのだ、ということを知る。
ギルヴァスはそんなアーリエス4世を一瞥すると、そんなものに興味はない、とばかりに、再びあづさ達へのみ、語り掛けた。
「では、待っているぞ、勇者とその一行よ」
いっそ優しさすら感じさせる声でそう言って(実際に優しいのだが)、ギルヴァスは今度こそ何にも邪魔されず、空へとはばたいて魔物の国へと帰っていった。
「な……なんだったんだ、今のは……」
床にへたり込んだシャナンが、そう嘆く。
「魔王、だって?まさか、そんなことが……」
シャナンにとって、あまりにも非現実的で絶望的な光景であったのだ。生まれてこの方、竜はおろかスライム1匹すらまともに見たことがなかったシャナンにとって、間近で見るギルヴァスの姿はあまりにも恐ろしかったのである。
「でも確かに、竜だったわ……魔王もまた、レイスを見て異世界の勇者だと、言ったわね……」
「それから記憶を知りたければ、っつってたな!よし!行こうぜ!俺も気になる!な!な!出発は明日か!?」
さっきまで強制的に黙らされていたラギトも魔法を解除されると、元気に喋り出す。翼代わりに腕をバタバタさせつつ、シャナンから見ればあまりにも無謀で無鉄砲、そして愚かな意見を発するのだ。
「ば……馬鹿なことを言うんじゃない!相手は魔王だぞ!?」
「その魔王が『話に来い』っつったんだろうがよォ。じゃあいいだろ別に。遠慮しなくても多分怒られねえって」
そしてシャナンの抗議は、ラギトのずれた回答によって撃沈した。
「そう、ね……記憶、について、魔王が知ってるなら……きっと私、行かなきゃいけないんだわ」
更にあづさがそう言えば、最早、一行の方針は決まったようなものである。
「王様に、許しを貰いましょう。魔物の国に行く許しを」
夜ではあったが、流石に『魔王』が直々に現れた直後である。人々は起きだして、不安そうなざわめきを発しながらそこかしこに居た。
あづさ達は不安のざわめきの満ちた城の中を進み、アーリエス4世の居室へと向かう。
果たして、この時刻、かつ王の私室における謁見、という例外中の例外はあっさりと許可されたのだった。
「入れ」
アーリエス4世の声に従って部屋の中へ入ると、部屋には妙にさわやかに風が吹き渡っていた。ギルヴァスが先ほど崩した壁から風が入り込んでいるのである。
隙間風だらけの城が馴染みのあづさにとっては特に何かを思うものでもないのだが、アーリエス4世にとっては忌々しさ以外の何物でもないのだろう。苛立ちと不安と混乱とをない交ぜにして、落ち着かなげに室内を歩き回っていた。
「……先ほどのあれを、見たか」
「ええ。魔王は私に話しかけてきました」
あづさが特に何ということもない返答をすると、アーリエス4世は、そうか、そうであろうな、などとやはり特に何ということもない言葉を発しつつ、落ち着かなげに次を問う。
「魔王、と名乗ったあの竜も、お前を勇者だと呼んでいたな?」
「そう、ですね。私にその自覚はありませんが……記憶を取り戻したければ、魔物の国へ来い、とも、言われました。ならば私は、行くべきなのではないかと、思っています」
意思を込めてあづさがアーリエス4世を見上げれば、王は只々困惑を湛えて、唸る。
「……明朝、答えを出す。今日はもう遅い。下がって休め」
「……はい」
結局、考える時間が欲しいらしい王はそう言って、あづさ達に退室を促した。
特に何の意味もなかった謁見に終わったが、ひとまず、王が混乱し、参っている様子は見て取れたのでよしとすることにしたあづさであった。
その日、あづさとミラリアはミラリアの部屋、1つのベッドの中で眠ることになった。あづさの客室はギルヴァスが窓と壁を割っており、休める状態ではなかったためである。
これについてシャナンが、女2人きりで休むのは危険ではないか、と主張したが、ラギトが「じゃあ俺が部屋に居てやるぜ!」と買って出てしまったため、有耶無耶にあづさとミラリアは2人きりになることに決まった。
「……いろんなことがある日だったわ」
「そうですね」
ベッドの中、お互い囁き合うようにして言葉を交わした2人は、当然のようにまだ眠るつもりはない。
あづさはスライムを揉みつつ、ミラリアは室内外に魔法の気配が無いか、意識を研ぎ澄ませ。
……そうして2人とも、互いの作業を済ませると、窓から差し込む月光だけが明りとなる中、じっと見つめ合う。
「……あづさ様」
「何?」
言葉とも吐息ともつかない囁き声で、ミラリアは話す。
「応接間の花瓶の中に、水の魔法がありました。恐らく一方的に音を拾うだけの通信の魔法で……それなりに高度なものでした」
あづさが黙って聞けば、ミラリアはその目を細めて、また囁いた。
「人間の国にあるにしては、不自然です」




