人民のために新しいてがらをたてよう 一九六七年四月一二日
一九六七年四月一二日、軍事委員会拡大会議での講話江青
わたしはごくふつうの共産党員で、長年、主席の秘書をつとめ、国際問題を主として少しばかり研究してきました。文教部門では、わたしは移動歩哨兵というところです。つまり、いくつかの出版物や新聞・雑誌を、こうやってパラパラとみて、かなり注意をひくと思われるものはみな、正面の資料・反面の資料をふくめて、主席の参考にまわします。わたしの長年にわたる仕事は、だいたいこうしたものでした。去年から、わたしの仕事が一つふえました。それは常務委員会の秘書をかねたことです。わたしたち、中央文革小組は、中央常務委員会の秘書グループです。これもやはり歩哨兵の仕事であり、参謀の仕事です。すなわち、意見を提出し、主席、林副主席、周総理、中央常務委員会の参考に供します。やっている仕事とは、こうしたことです。軍隊について、わたしはくわしくありませんし、知っていることも少ないのですが、きょうたまたまみなさんとお話ができることになりました。わたしの意見がもしまちがっていたら、どうか批判してください。わたしたちの小組は、かなり民主的で、ときにはけんかさえします。みなさん何か意見があったら、どうかどしどし出してください。
わたしに対して主席はたいへん厳格です。主席はわたしにとって、まず厳しい先生です。もちろん、主席は、 一部の人のように手をとって戦えるようなことはしません。主席について、わたしはあまり多くのことを知りません。主席の人となりについては、あなたがたのほうがわたしよりよく知っていると思います。わたしたちはいっしょにくらしていますが、かれは口数が少なく、あまり話しません。ときに話しだすと、だいたいがみな政治・ 経済・文化・国際・国内にかんする大きな話題ばかりです。世間のうわさ話も少しはしますが、まずめずらしいことです。もし、たまたまだれか幹部のことに話がおよぶと、主席は、いつでも、あの人は大きな功績がある、 この人はこんなに立派だといって、決して人の悪口をいいません。主席は幹部を愛し、幹部に対して寛大です。 わたし自身も党の規律を守ります。世間のうわさ話をきくのはきらいです。ですから、ときとしてわたしはたいへん無知です。しかし、とりとめもないうわさ話を知っても、何のとりえもなく、精力を浪費するだけです。昔から、毎日山ほどの参考資料や電報をみなくてはならないのですから、うわさ話をきいてまわって、世間づきあいなどする時間がないのです。
学習についても、わたしは、みなさんほどしていません。まだまだ学習がたりない、とくに系統的でないと自分で思っています。もし、わたしに何か長所があるとしたら、それは、学んで理解した点をしっかりまもり、実際にすぐやってみることでしょう。
延安で、文芸座談会における主席の話をききました。 あの話のなかで理解できたものを、わたしは実際にやりました。もちろん、あの講話を、わたしがすっかり理解したのではありません。ここ数年、あらためてよみかえしてみると、わたしにとってやはり当時と同じく新鮮でした。この講話は、文芸が労働者・農民・兵士に奉仕し、 プロレタリア階級に奉仕することを強く指摘していますが、それをわたしは理解しました。そして多年、主席の教えをまもり、わたしの力のおよぶ範囲内でやりました。わたしとはこんな人間です。みなさんとくらべたら、 わたしは小学生で、みなさんにまなばなければなりません。というのは、みなさんは歴史のうえで、十年の内戦期、抗日戦争期、解放戦争期、抗米援朝等々のこれら戦争の時期を通じて、人民のために偉大な功績をたてました。このことは、国内・国外の敵もひとしくみとめるところです。
わたしはむかしから赤軍をひじょうに尊敬していました。延安のころ、こんなおもしろい話があります。ある人がわたしの帽子に赤い星をつけてくれたことがありましたが、のちに星をとれといわれました。結局わたしは、わずか数日間赤い星の帽子をかぶっただけでしたが、このために口論したのです。当時わたしは、なぜこの赤い星をとらねばならないのかわからなくて、けんかしたのです。中国人民解放軍にわたしは心を寄せており、今でも自分は軍隊の人間だと思っています。都市にはいってからも、軍籍をぬかないようずっと要求しました。わたしが軍隊で仕事したのはほんの短い期間だけです。それは、胡宗南が陝北に攻めこんできたとき、中央直属大隊で、政治協理員をしていたときです。都市にはいってからも、軍籍をぬかないように、除隊させないでほしいと、 ずっと要求してきました。わたしの心は、いつも軍隊をむいているのです。
現在、毛主席と中央のよびかけのもとに、みなさんは今まさに人民のために新しい功績をあげています。主席は以前いいました。「もとでをくいつぶしてはならない! 新しいてがらをたてなくてはならない!」このことばを述べたある中央会議での席上、主席は一つの物語を話しました。
戦国時代、趙の国の太后が政権をとっていたとき、かの女は息子の長安君を溺愛しました。そのころ素が趙に攻撃をかけ、趙はあやうくなったので、かの女は斉に出兵し包囲網をといてくれるよう要請しました。斉は条件をつけました。「おまえの息子の長安君を人質にわたせば援軍を出す」。かの女は承知しませんでした。かの女は幼い息子を人質にするのにしのびなかったのです。多くの大臣がいさめて、長安君を出すようにいうと、かの女は激怒して「人質に出せといってきてみよ。そいつの顔にツバをはきかけてやる」といいました。
当時、左師(官名)の触響という者がいて、太后におめどおりを願いました。太后は腹をにえたぎらせたまま、かれを待ちました。かれは足がわるかったのですが、 その上にわざとゆっくり歩いていきました。それからかれは時候のあいさつなどして、最初から政治のことは口にしませんでした。かれはいいました。「わたしはもう行き先長くありませんが、十五歳になる息子が気がかりです。太后、ロすぎできるだけの職にとりたてていただけますか。そうしないと安心して死ねません」。「男親も末のむすこがかわいいか」と太后はたずねました。「それはもう、女親よりも」とかれはいいました。こうした話をしているうちに、太后の怒りもおさまり、かの女は触讐のことばをうけていいました。「そうとは限らないだろう。わたしは下の息子がかわいくてしかたない。やはり男親より女親のほうが子どもがかわいいものだ」左師は反駁しました。「おみうけするところ、あなたは長安君よりも燕后をかわいがっておいでのようです(燕后は、燕の国王の妻。趙の太后の娘で、長安君の姉にあたる)」。「なぜだ」。「燕后様のお嫁いりのとき、あなたは別れをおしんで、燕后様をだいて泣かれました。とつがれてからも、祭りにはいつも、不縁にならぬように、と祈っておいでです。燕の国で子供を生み、育て、やがては王位を継ぐようにと、長い目でご案じです。ところが、 長安君にたいしては、そうではありません」。太后は「ちがう」と答えましたが、左師はたずねました。「わたしたち趙国で、かつて名のある世襲の領主、またその子供、 その子孫が、現在でも世襲をつづけているでしょうか」 「いない」「趙国ばかりでなく、その他の国で、子孫が諸候に封ぜられたでしょうか」「まだ聞いたことがない」「ともに、ないのです。その原因はなんでしょう。「功績もないのに位ばかり高く、功労もないのに俸禄ばかり多く、たくさんの重器をたずさえている」ところにあるのではないでしょうか」。「重器」とは、古代、国家権力を象徴する宝器であり、現在のことばに翻訳すれば、権力です。左師はいいました。「あなたは長安君に高い地位と、広大肥沃な土地と、大きな権力をあたえ、やがては国のためにてがらをたてることを期待しておいでです。 ところが、あなたにもしものことがあれば、長安君は趙でやっていけるでしょうか。わたしが思うには、あなたが長安君の心配をするのは近視眼的です。ですから姉姫の燕后のほうをよけいかわいがっていると申しあげたのです」。左師の触響がそのようにいうと、趙の太后は、 ただちに命令をくだし、百台の車を用意させ、長安君を斉の国に送りとどけました。斉はすぐに兵を出して、秦の包囲網を解きました。
主席はいいました。
「この文章は、封建制が奴隷制にとってかわる初期の、 地主階級内部における財産と権力の再分配を反映している。こうした再分配は、たえまなくおこなわれており、 いわゆる「君子の沢も五世にして斬ゆ』「『孟子」離樓下〕 とはこの意味である。われわれは搾取階級を代表するのではなく、プロレタリア階級と勤労人民を代表する。けれども、もしわれわれがわれわれの子弟に厳格に要求するのをおこたるなら、かれらは変質し、ブルジョア階級の復活がおこなわれ、プロレタリア階級の財産と権力は、 ブルジョア階級によって奪いかえされるかもしれない」。
ここにいるみなさんは、おおかた権力をもっている人です。陳伯達同志は、つねに「わたしは一介の庶民だ」 といっています。わたしはそれ以下です。だけど、この権力は容易に使うことができません。人民がわたしたちにこんなに高い職位をくれ、厚い待遇と大きな権力を授けています。もしわたしたちが新しいてがらをたてなかったら、人民に対し申しわけがたつでしょうか。年月がたっても、人民はなおわたしたちを必要としているでしょうか。この物語を、主席は何度も話しました。わたしたちの子供にも今までに何度となく話しました。だけどどうしてもかれらは理解できないのです。長年、わたしはずっとこの「戦国策』の話が好きで、何度もよみました。
古文はむずかしいので字引をひきながら。 だからこそ、解放軍は、新しいてがらをたてなければならないのです。
解放軍は、地方の文化大革命・左派支持,農業支援・ 工業支援・軍事管制・軍政訓練に積極的に介入しなければならないと主席がかたっていらい、すでに多くの工作をおこないました。解放軍の工作成績は、工農業生産のうえに、とくにきわだってあらわれています。比較的困難なのは、左派支持の問題です。いささか複雑で、うまくしないと支持しそこないます。この問題について、わたしたち自身の思想を明確にし、毛主席をはじめとする党中央のプロレタリア革命路線にしっかりと立ちさえすれば、何もおそれることはありません。たとえ、まちがえても心配はいりません。わたしたちはかれらを支持せず、もう一度調査研究し、ほんとうの左派をさがしだせます。悪い人間にあやつられている組織に対しては、かれらのなかの一つまみを孤立させ、かれらをばらばらに瓦解させ、かれらを教育します。この点で、みなさんはすでに多くの経験をもっており、そのなかには、多くのよい経験があります。わたしは二つの小組に参加しました。中南では、かなりの困難にぶつかりましたが、黄永勝同志のところでは、うまく処理しました。かれは人を殺さず、発砲せず、広州市での逮捕者も、そう多くはなかったでしょう。かれらはよい経験をもったのです。つまり、悪い人間にあやつられている組織に対し、かるがるしく反動組織だと宣言せずに、その責任者と、確実な証拠のある者だけを逮捕したり、あるいは、その組織の大衆自身に、その指導者をかえさせました。このやりかたは、よいと思います。
同志のみなさん。文化大革命の前段に対して、何も卑下することはありません。以前、不介入といっても、その実、この不介入は多くの単位についていえばあたっていません。主席はいち早く次のように述べていました。
「いわゆる「不介入』というのは偽りで、とっくに介入している。問題は介入するか介入しないかではなく、 どちら側に立つか、革命派を支持するか、それとも保守派、ひいては右派を支持するかにある」
事実、あるところは左から介入し、あるところは右から介入しました。たとえば、左からの介入についていえ。 ば、去年の二月、林彪同志に委託されて部隊で文芸座談会をひらきました。この文芸座談会の記要が、あなたたち「神様」、プロレタリア独裁の「神様」においでをねがって、かれら、あれら党内にまぎれこんだブルジョア階級の代表的人物を攻撃すると、あれらブルジョア階級の反動的「権威」は、腰をぬかして投降しました。なぜ、 このように威力があるのでしょうか。ほかでもない、軍隊の支持があり、かれらは人民解放軍をおそれたからです。これは左からの介入です。
ここ数カ月来、全軍はよい経験を数多くつみました。 ハルピンの同志によると、そこの軍隊は、去年の夏、左から介入しました。右から介入して、あやまちをおかしたのもありました。あやまちをおかした大多数の同志も、 きっと目がさめると思います。世の中が黒一色だとは、 わたしは信じません。一部の人がこの黒い風を吹かせているのです。あるいはわたしの自信が強すぎるのかもしれませんが、どうしてもそうとは思えないのです。
ごらんなさい、農業生産についても、夏の収穫は悪くないようですし、秋の収穫も、よいようにみえます。なぜなら、革命が広汎な人民の革命的情熱をうながし、軍隊がこのように力いっぱい先頭にたって模範的役割をはたしているからです。わたしがみるところ、これは解放以来、十数年間なかったことです。都市にはいってから、 わたしたちの軍隊は兵営に住んで、勤労人民とたしかにへだたりができてしまいました。それではいけません。 そこで、兵営から出、機関から出、もとの伝統にかえり、 大衆と一つに結びつきました。すると、ある地方では「おいらの八路がまたやってきた」と歓迎しました。してみると、わたしたちは、昔は大衆といっしょにいることが多かったのに、都市にはいってからは、へだたっていたことがわかります。こんどの文化大革命の期間に、軍隊はよいことをたくさんしました。最初から、林彪同志を代表として、左の面から介入したのです。
そのほか、あなたがたに文芸戦線の重要性に注目してくれるよう呼びかけます。この問題について、わたしたちは今まで認識がたりませんでした。問題があり、たいして能力のない幹部は、みな文教戦線にもってこさせられました。そのほかに何百万ものブルジョア知識分子をかかえこんでいました。
こうして、かれらの、ブルジョア的封建主義的なものが、大量にはんらんしました。この面の情況は、わたしたちははっきりしてませんし、そのすさまじさもよくわかりませんでした。毛主席みずからの指導のもとに、かれらと何度か剣をたたかわせたけれども、しかし、いずれも個別的戦役で、こんどのように深い認識がなかったのです。イデオロギー―文教戦線というものは、はげしいものです。プロレタリア階級であれ、ブルジョア階級であれ、いかなる階級も政権を奪取しようとするからには、かならず、まず世論の準備をするのです。この点について、今までわたしは十分重視してきませんでした。 軍隊の責任ある地位にある人は、こんどこそ、ほんとうに真剣に、しっかりとつかんでくれるようのぞみます。
十七年来、文芸の面で、労農兵を反映したよい作品、 まあよい作品もありました。しかし、大部分は、名〔有名人の大家ばかり]、洋〔外国の直輸入〕、古〔古いものにたより、今日的視点に欠ける」のものか、あるいは、 労・農・兵がゆがめられて形象化されるかでした。教育にいたっては、ほとんどかれらに牛耳られていて、そこヘソ連式が加わったのです。ですから、わたしたちは、文学芸術界でスケールの小さな「熟練技能家」を養成し、教育の面では、労・農・兵からまったく離れた、プロレタリア階級の政治から離れ生産から離れた知識分子を養成することが、以前より多くなったのです。もしもこんどの文化大革命がなかったら、だれが改革できたでしょうか。 攻撃をかけても、びくともしなかったでしょう。
わたし個人が、この問題について気がついたのは、ずっと以前です。都市にはいってからまもなく、総理がわたしに何度か仕事につくようにしてくれたので、およその事情には触れました。のち、それを辞職しました。わたしの思想上、ただある一点だけについていうと、この問題を解決しました。そのころ、あれら香港の映画が、 わたしたちのところに流れこんでいるのを、何とも奇妙に感じました。わたしは、ありったけの力をだして、それを追いだそうとしました。ところがかれらは、民族ブルジョア階級は、めんどうをみなければならないといいました。そのころ、わたしたちは、たしかに孤立していました。
思想の領域で、平和共存はありえません。平和共存すれば、腐蝕される。おそらく総理はまだおぼえているでしょう。そのときかれらにいいました。制作方針を華僑にむけつつ、反共映画をとらないかぎり、わたしたちは、 あなたたちに代金を支払いましょう、と。むこうは金がほしかったのでしょうか。そのころ、むこうが投資しようとしているのに気づいただけで、われわれを毒そうとしているのに気がつきませんでした。のちに追いはらいました。きっぱりとことわりました。
そのうち、数年間病気になり、健康を回復するために、 医者はわたしに、文化面の生活に参加し、聴覚と視覚をきたえるよう要求しました。こうして、わたしはかなり系統的に、文学芸術の一部の問題にふれました。ふれてみて、その問題の重大さにびっくりしました。舞台で、 スクリーンで上演上映されているものは、大部分がブルジョア的な、封建主義のものであるか、さもなくばゆがめられた労・農・兵の形象でした。上部構造は経済的土台の反映であり、それはまた逆に、経済の基礎を擁護したり破壊したりするものです。もしこんなならば、わが社会主義の経済的基礎は破壊されるでしょう。一九六二年ころ、香港映画、アメリカ・イギリス・フランス・イタリー ………………等々帝国主義諸国の映画、修正主義国家の映画が、 山をなしてあらわれました。それらの劇団もなんと多かったことでしょう! たとえば京劇は、わたしもしょっちゅう見にいきましたが、すたれることがわかっていました。ところがはからずも、京劇がわが文化部を利用して、全国いたるところに足をのばして、福建省にさえ十九の京劇団ができるありさまでした。その結果、いたるところで帝王宰相・才子佳人が上演されました。わたしの故郷の山東省でも、こどものころ、河北梆子〔地方劇の一種〕を大戯とよんでいましたが、数年前調査したところでは、京劇が主要な大戯になっていました。山東には黒い劇団や業余劇団は別にして四五もの京劇団がありました。
上海の越劇も全国にひろがりました。ところが奇妙なことがあるのです。それは、われわれの労・農・兵がこれほど偉大な功績をたてても、かれらは舞台でとりあげないことです。われわれの長征、二万五千里を走破した赤軍も、抗日戦争もかれらは舞台にのせません。どれだけ多くの英雄があらわれたことでしょう。なのにかれらはとりあげないのです。映画にもこうした問題があります。わたしもこの問題について、だんだんとわかってきました。一九六二年、わたしは、党中央宣伝部と文化部の四名の部長・副部長に話をしましたが、かれらは聞く耳をもちませんでした。あの「鬼がいても害にならない論」に対して、真に問題を解決する戦闘的文章は、上海で柯慶施同志にたのんで準備を整えてもらったものです。かれは、わたしたちを支持してくれました。当時、 北京では攻撃の火ぶたをきれませんでした。「海瑞の免官」批判も柯慶施同志が支持してくれました。張春橋・ 姚文元同志は、この大きな危険にのぞむために、秘密を保ちました。
わたしは革命的現代京劇コンクール以前に、調査研究し、芸術実践にも参加して、文芸評論にも問題があると感じていました。わたしのところには、いくらか資料がありましたが、つかれすぎるのを心配して、主席には見せませんでした。ある日、一人の人が、呉晗の「朱元璋伝」を主席に見せにきました。わたしはいいました。
「やめておいて。主席はすごくつかれているから。呉哈はただ、原稿料や名声がほしいだけでしょう。出版させてやって、そのあとで批判したら。わたしも、かれの「海瑞の免官』は批判しなければと思ってるんですよ」。
主席はその場でわたしに反論して、わたしはみたいといい、さらに歴史学者数人は保護しなければならないといいました。あとになってからこれは彭真がもちだしたものとわかりましたが、彭真は、わたしが、歴史学界全体をまったくの暗黒で、正しいところは一つもないとみなしているといいました。わたしにとって、このことばは心外でした。意見を保留してかまわないかときくと、主席は、「意見を保留してよい」とのことでした。当時、 彭真はけんめいになって呉晗をかばっていました。主席はちゃんとわかっていましたが、口にははっきりだしませんでした。主席がわたしの意見保留を許してくれたので、敢然とその文章を準備し、外部には七、八ヵ月間秘密にしました。その間、何度改訂したかわかりません。 春橋同志が北京にくるたびにある反革命分子が、かならず呉晗批判と関連があると判断しました。たしかに関連はありましたが、演劇をやり、 演劇をやり、テープレコーダーをきき、 音楽を直したりしていました。しかし、「海瑞の免官」 を批判する文章は、ひそかにかくしていました。
彼らに知られたら、たちどころに原稿が扼殺されるからです。
みなさんが、これらのことを知ったら、腹をたてたにちがいありません。この国はプロレタリア独裁なのに、 わたしたち自身が一篇の評論をかくことすら、かれらは許さないのです。腹をたてないでいられましょうか。わたしたちが書きあげた文章は、上海で発表されてからのち、北京ではなんと十九日も新聞雑誌にのりませんでしつりませんでした。主席は腹をたてパンフレットとして出すといいました。パンフレットができあがっても、北京では発行されませんでした。当時わたしはけしからんと思いました。 呉晗ひとりをひっぱりだして批判するのは、まったくなんでもないことではないの。ところがのちに、総理があとで教えてくれたので、はじめてわかったのですが、呉哈ひとりをほじくりだすと、ぞろぞろついてくるのです。 とてもむずかしいことがわかりました。
むこうが文教部門をにぎって放さないということは、 かれらがわれわれに対し独裁をおこなっているというこここなっているということです。将軍のみなさん、それは文教部門だから自分たちと関係ないと考えてはなりません。われわれが握らなければ、かれらが握るのです。われわれがしっかりと握っても、かれらはなおも何とかして握ろうとしているのです。ですから、われわれは真に掌握しなければならないのです。もしあなたたちが、掌握していれば、こうした局面にはならなかったでしょう。物きわまればかならず反すで、こんどの文化大革命は、おこるべくしておこったのです。かれらときたら、まさに面従腹背の徒です。ふたまたこうやく的に人をだまします。演劇を、主席は武装闘争を主とするように改めようとしましたが、 かれらは承知しませんでした。このために、長い間たたかわなければなりませんでした。いったい、もし武装闘争がなかったら、中国革命は成功することができたでしょうか。わたしたちが、いまここにすわって会議をひらけるでしょうか。とても考えられないと思います。この点では、わたしよりみなさんのほうが、深く感じとっているでしょう。ですから、この文教戦線は、今後、しっかりとわたしたち自身の手中につかまなければなりません。大胆に革命的小勇将〔紅衛兵など若い革命造反派】 を用いなければなりません。そうでしょう?もし、かれらがいなかったら、どうしてあの裏切り者集団をつまみだせたでしょうか。六十数人もいたのです。かれらがみな重要な指導的地位を占拠していたのです。小勇将たちのこの功績はすばらしいものです。
主席はまだ健在ですのに、一部の人は主席のことばをきこうとしません。上海にいたとき、華東局・上海市委員のなかは、かなり微妙でした。主席のことばをきかず、
わたしのことばはなおさらきかないのに、あるだれかのことばだと、まったくバイブルでもささげもつようなのです。当時わたしは奇妙なことだと思いましたが、いま考えれば、少しもふしぎではありません。旧市委員会の指導者は、かつての紅小鬼〔赤軍の少年」だったのに、 はからずもこんなふうにかわってしまうとは、まったく思いもよりませんでした。前回の会議のとき、わたしは誠心誠意、かれが工作をしっかりやるよう希望しました。 このことは、葉群同志も証明できますし、伯達同志も知っていますし、春橋同志、文元同志も知っています。しかし、かれは、どうしても反省しませんでした。別のある一人は、転向し自首してでた裏切り者で、つまみだされました。もともと、「『海瑞の免官」を評す」や、「三家村」を評す」といった論文は、姚文元同志(それにかれが組織した執筆グループ)が書いたものです。一部の人は、自分たちが書いたのだといって、功績を横どりしています。
わたしの認識過程を少しばかりお話しました。文教面について、あなたがたが考えるきっかけになってくれたらと思います。わたしはかさねてみなさんにむかって強調します。党・政・軍・経済のほかに、この「文」もしんけんにつかまなくてはなりません。もちろん、調査研究もしなければなりませんが、そのうえ努力して学習しなければなりません。各部門ごとに独自の法則や特徴があるからです。しかし、これは別にむずかしいことではなく、プロレタリア階級の政治優先をおこないさえすれば、とりではかならず攻め破ることができます。いくつかのとりではすでに攻めおとしたではありませんか。京劇、世界の人々が高貴なものだとしているバレー、それに交響曲、みな初歩的には攻めおとしました。別にむずかしいことはありません。これは全世界に影響をあたえるものです。ブルジョア階級は瀕死の階級です。かれらは赤裸々に、くさりはて堕落したものでもって人民を麻痺させ、腐蝕させて、現代生活を表現しています。修正主義のほうは変装してやってきて、いやらしかったのですが、ここ数年は、すっかりむきだしになり、ベールなどかなぐり捨てて、肌ぬぎになって押しかけてきました。
ここにわたしの認識過程と実践過程をお話しましたが、 あなたがたが今後文教系統をしっかりつかむうえで、多少なりともお役にたてばと思います。
大学・中学は、教育制度・教育内容を改革しなければならず、闘争・批判・改革をすすめなければなりません。
この大きな任務は、たいへんに困難です。今のところ、 わたしたちはこの面でまだ経験をつんでいません。文学芸術も改革しなければなりません。一九六四年に、わたしは文芸界の一部の人々に、いったことがあります。あなたたちは農民がつくった食物をたべ、労働者が織った服を着、労働者がたてた家に住み、人民解放軍が国防前線を守ってくれているのに、あなたたちは労・農・兵をえがこうとしない。芸術家としての良心は、いったいどこにあるのです、と。映画『南征北戦』はわたしが指導しました。粟裕同志があのとき、服装がどうあるべきかについて、あなたと話しあったと記憶します。陳毅元帥、 あなたおぼえていますか。あの劇は欠点もありましたが、 基本的にはよい劇です。あの劇は、わたしが直接指導し、 あなたが創作を準備し、改めました。忘れましたか? (陳毅同志「おぼえていますよ」)ああ、おぼえてましたか。
最後に、子弟の教育問題について、かんたんに話そうと思います。子弟を、自分の私有財産のようにみなしてはなりません。かれらを人民の財産とみ、人民のあとつぎとみなさなければなりません。もしも、自分の子弟は宝物のようにだいじにし、人の子弟、勤労人民の子弟はふりむきもしないならば、それはあやまりです。しかし、 こうしたひとはほんの一部で、大部分はちがいます。大多数の同志は、自分たちの子弟に正しく対することができます。陳士榘同志は、肉親のきずなよりも、社会正義の道をとりました。もちろん、子どもをどうかしようというのではなく、学習し、よく考え、教育をうけるように子供をしつけようというのです。陳士榘同志、あなたはあの子をよくしつけましたか。(陳士集同志「しつけました」)。この問題について、一部の人は、少数ですが、 たいへんに分不相応なことをしています。それは、あの 「長安君」の問題です。その「重器」とは何でしょうか。「功績もないのに位ばかり高く、功労もないのに俸禄ばかり多く、たくさんの重器をたずさえている」。かれらの「重器」とは何でしょうか。自転車・カメラ・ラジオ、人によっては乗用車さえのりまわします。かれらの間でもっとも重要なのは父母の地位の級別です。ある人は、子どもを愛しているからだといいますが、実は子どもをそこなっているのです。わたしたち自身の子どもを、真の革命の後継者に教育しあげるのは、あまり容易ではありません。というのは、一つには、わたしたち自身の教育に問題がありますが、また一つには、社会の影響もあります。わたしたちの家の子どもは、別にそんなに優秀でもなく、かれらはみな大食堂でめしをくうのに、自分では大したものだと思いこむには、やはり社会の影響があります。わたしたちはきびしくかれらを教育しなければなりません。もしも、しっかりとつかめば、こんごかれらもずっとよくなるでしょう。社会の影響という面で、わたしたちの娘についていえば、小学生のころある先生が 『ドンドンなる静河』とかいう本があるといった、と娘がいうのです。これは「静かなるドン」をまちがえて教えたものです。わたしが、その本を読みたいか、ときくと、娘は、はい、と答えました。この本は、ソ連の歴史資料として、ソ連の戦争史としてでなければ読んではいけない。大裏切者、大反革命分子が主人公になっていて、 その本はよくないのだ、と娘にいいました。「おかあさん、どうしてそんなことがいえるの。みんな、すばらしいっていっているわよ」と娘はわたしを責めるのです。 当時、この本に対して、まだ批判できなかったからです。 わたしはいいました。「おまえ、よそでいっちゃいけないよ。これはおかあさんの個人的意見だから。おかあさんは研究したことがあるんだよ」。その後、かの女がどう考えたかしりませんが、どのみち子弟のために、政治上・ 思想上から奉仕しなければなりません。たとえば「赤と黒」ですが、フランスの修正主義分子は、この小説の政治的経済的内容を捨象し、エロ映画にしたてあげました。わたしたちは、あらゆる資料をもって研究し、身近の青年、身近の活動家に話さなければなりません。わたし自身の仕事は、あなたがたにくらべれば少なく、重要でもありませんが、それでも、毎日の仕事の量は、そうとうなもので、からだもあまりよくないし、これ以上子弟の教育に時間をさけません。しかし、わたしが気がついた点は何でもよく研究し、かれらにいくらかでも思想工作をしようと思っています。同時に、父母はかれらに対して平等でなければなりません。「おれはおやじだ」 とばかり、封建的家長制を実行してはなりません。この点は、主席にまなばねばなりません。わが家はかなり民主的で、子どもが父親を反駁してもかまいません。時には、わざとかれらに反駁させます。かれらが反駁したのち、もちろんかれらに道理をいいきかせなければなりません。だけど多くの場合、子どもは反駁しないで、両親を尊敬しています。かれらが反駁するのはいいことではありませんか。かれらが少しばかり造反したとて、どこが悪いでしょう。いつでも「はい、ママ」「はい、パパ」 では、どうにもなりません。自分の子どもに対してきびしく要求することは、かれらを愛し守ることです。
わたしのこの二つの意見は、以前述べたことがありますが、みなさんのご参考までに話しました。まちがいがありましたら、どうかご批判ください。では、これで終ります。




