毛遠新との談話 (一九六六年二月一八日)
[訳注] 新島淳良編『毛沢東最高指示』七二頁によれば、一九六六年二月一八日の毛遠新との談話は、「ふたたび、少なくてよいものを教えること、新生の事物に対して、経験を総括する問題、[党の] 旧北京市委員会が革命的教師・学生・ 職員・労働者に対して〔毛主席の指示を〕まったく伝達していないこと、などを語った」といわれる。とすれば、本談話は当日の談話の一部ということになる。
理工系は、もっと自分〔自身〕の言語を持たなければならない。六年のうち、はじめの三年、ためしにやってみることだ。必ずしもあせって二年でやらなくてもよい。先端科学をやる学科を三年でやるのも、焦点さえあればうまくいくかもしれない。三年で足りなければ、将来、いくらか〔時間を〕補充することだ。
焦点があってはじめて少数精鋭になれるのであり、焦点があってはじめて一般と特殊を結びつけることができるのである。六年を三年に改め、こういう風にしてやることに決めて以後は、しっかりした穏当な足どりで、正しい方向をめざして進むことだ。
新しい事物を数年もかけてやるからには、たえず経験を総括するようにしてこそ、やっていける。 理工系には特殊性があり、それ自身の言語があるから、いくらかは本を読まなければならない。しかし、共通性もあり、本を読むだけでは十分ではない。黄埔軍官学校では、半年、勉強しただけで、卒業すると、一年兵となったが、 少なからぬ人材を輩出した。陸軍大学と改められてからは、結果的には、養成されたものがことごとくまけ戦さをやり、われわれの捕虜となってしまった。
理工系のことは、私にはわからないが、医学系については、私にもいくらかはわかる。君は眼医者の言うことを聞かなければならないと言われると、不思議に思うだろうが、人は、総じて、まとまった一つの全体物である。
科学の発展は低級なものから高級なものへ、単純なものから複雑なものへと進むが、授業はことごとく発展の順序にしたがって進めるというわけにはいかない。歴史を学ぶには、主として近代史を学ぶことだ。いまは、やっと三千年の歴史だが、もし、一万年にもなったら、どのように講義すべきなのか?
実践を通じて証明された有用な基礎理論を含めて、尖端的な理論からは、実践を通じて有用性のないことが証明された部分および不合理な部分を捨て去らねばならない。
原子物理学については、坂田モデルについてだけいえばよいだろう。デンマーク学派のボール理論から始める必要はない。君達が、そのような学びかたをするなら、十年たっても卒業しきれない。坂田は、すっかり弁証法によって、 [研究を進めて]いるのに、諸君はなぜそれによらないのか?
人の事物認識は総じて具体から抽象に進む。医学は心理学を重んじ、神経系統の抽象的なものを重んじるが、私は、それは正しくないと思う。
まず解剖学を重んじるべきであろう。数学は本来、物理学のモデル中から抽出されたのであるが、現在では、数学を物理学のモデルと結びつけて問題にすることはなく、逆に数学をより一層、抽象化させてしまった。




