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日和見主義の悪気はくずれさり、社会主義の正気たちはのぼる (李貽鉷 一九五五年一〇月七日)

原書編集者前書き ほとんど普遍的に多くの地方に存在しており、広範な貧農および下層中農大衆が協同化の道をすすむのを妨げている党内の右翼日和見主義分子は、社会における資本主義勢力とたがいに呼応しあっている。この文章はこのような状態をうまく描写しているといえる。筆者は、ひじょうに大きな怒りをこめて、日和見主義者を排撃し、貧しい農民を支持している。共産主義者の看板をかけてはいるが、現在しなければならない社会主義事業に対しては、ほとんど興味をしめていないものがいる。これらの人々は、熱意のある大衆を支持しないばかりでなく、反対に、大衆に冷水をあびせている。一九五五年は、中国では、社会主義と資本主義が勝敗を決する年であった。この決戦は、まず第一には、中国共産党中央委員会が召集した五月、七月、一〇月の三回の会議を通じてあらわされた。一九五五年上半期には、あれほどまでに暗黒な悪気が空じゅうをくらくしていた。ところが、一九五五年の下半期にはまったく様子が変わって、別の空模様になり、数千万戸の農民大衆に行動をおこし、党中央委員会のよびかけにこたえて協同化を実行した。編集者が、この文章を書いているときまでに、全国ではすでに六〇〇〇万戸以上の農家が協同組合に加入した。大平の怒濤であり、一切の妖怪どもはおし流されてしまった。社会の各種の人物の目鼻が、はっきりと見わけられるようになった。党内でもそうである。この一年がすぎれば、社会主義の勝利は、ひじょうに大きな見通しをもつことになる。いうまでもなく、まだ努力してたたかわなければならない多くの戦闘が今後にのこされている。


上海市郊外の新涇区における農業生産協同化運動の高まりは、一九五年の秋におこりはじめた。貧農たちは「わたしたちは家が貧しく、協同組合を経営しなければ陽のめをみることができません」といっていた。貧農たちは積極的に率先して組合設立の準備をした。小商売を兼営していたものは商売をやめて、組合への加入を希望し、一部の中農も組合への加入を希望した。棉花や野菜の栽培をもとりいれていた虹南郷でも例外ではなかった。この郷では、秋までにすでに、八つの農業生産協同組合がつくられていた。組合に加入していない大衆は、「互助組をりっぱに経営して協同化を迎える」ことを目標にして、四五の互助組を連合して八つの連合互助組をつくった。文らの連合互助組は、人員も多く土地も広く、多くの共有財産を蓄積していて、一回の夏の収穫期だけにでも四七台の噴霧器を買いいれていた。大衆の言葉によると、互助組はもはや「協同組合に劣らなく」なっており、もう一歩前進すれば、協同組合をつくることができた。一九五四年の秋の収穫が終わると、一〇部落の二〇あまりの互助組が、中国共産党虹南郷支部に、組合設立の要望を提出した。郷支部は、郷の条件や大衆の要望にもとづいて、一九五四年の冬期および一九五五年の春期に、七つの協同組合をつくり、五〇%の農家をこれに加入させる計画をたてた。その当時、区委員会は、協同組合発展計画を縮小せよ、という郊外区工作委員会の指示の影響をうけ、社会主義の道をすすもうとする虹南郷の大衆の決意や熱情にたいして、支持や指導を適時におこなわなかった。そのため、急速にすすもうとする大衆と、保守的で官僚主義である指導者とのあいだに、はげしい闘争が展開された。


虹南郷の大衆は、闘争をはじめるとまず、このひきのばし態度に反対した。「あなたたちが経営を指導してくれなければ、わたしたち自分で経営します」 [原注:訳注] 棉作と稲作を主とする牌楼頭村でまず、最初の協同組合が自然発生的につくられた。区では、これをみて、経営を指導しないわけにはゆかなくなって、個々に文らの組合を承認した。こうなると、組合の設立経営にたいする大衆の積極性はいっそう高まった。貧農と下層中農は、組合の設立についての区や郷の指導部の三条件が苛酷であったのにもかかわらず、組合設立の準備活動を強化しつづけた。貧農や中農たちは、大衆会議をひらき、村の具体的な条件を分析し、組合の設立経営計画研究した。鴨湯浪・桃浪・窖浜浪など六部落では、集団的に蔬菜苗をつくった。許家塘や南沈巷などの部落ではまた、三六四の小豚と四頭の牝豚を集団的に飼育しはじめた。各部落の大衆は、その討論の結果や組合設立計画をくわしく書いて、郷に報告した。文らの報告はいずれも、農民の熱情と組合経営の才能をしめしていた。鴨湯浪村の貧農輩仲零たち三名は、一二月二一日の報告に、つぎのようにのべている。


「郷政府がひらいた人民代表大会拡大会議ののち、わたしたちは、村にかえって大衆大会をひらき宣伝しました。一般大衆の気持はひじょうに高揚し、組合に加入した場合の利点を討論しましたが、大衆はみな一致してこれを支持し、組合への加入を希望しました。わたしたちは、この機会をとらえて、組合加入の申込みをうけつけました。第一回めには八戸が申込みました。そのほかに、一搬の互助組員も家にかえって家庭会議をひらき、家族たちを納得させました。第二回めには一〇戸が申込みました。このようにして、ひきつづき何回か会議をひらき、組合加入の条件を討論し、若干の具体的な問題を討議しました。第一の問題は育苗の問題であります。まずガラスを集めました。一六箱集まりました。第二には苗床について討議しました。四日からつくりはじめ、現在までに一床分は直播します。唐ガラシの種子は一・二四斤あり、四つの苗床にまきます。来年の春にはトマトを二五華畝前後と唐ガラシを一〇華畝前後つくる準備をしており、早生インゲンもしつくる準備をしており、早生山イモ六華畝と晩生山イモ二二華畝、レタスとキャベツを四五華畝つくり、採種用にレタスとキャベツを三二〇株のこします。そのほかの種子などいずれも準備しています。当面の任務についても討論し、国家への統一販売については二六日には達成することを保証します。秋の農業税納付は、現在、大部分達成しており、単独経営農家も基本的に終っています。現在、組合加入農家は二戸ふえて、合計二〇戸、人員は九〇名で、男子労働力は二七名、婦人労働力は三三名、男女の子供たちは合計四〇名で、労働力のないものが二名います。土地は小さい土地もふくめて、合計一六三・二五二華畝であります。一九五五年の春に協同組合をつくることを希望しています。組合設立を特別にとりはからってください。」


このように熱意をこめて社会主義の道をすすもうとする虹南郷諸部落の大衆の申請書も、区の指導部をたちなおらせることができなかった。その反対に、時流にしたがって組合に流れこんでいた少数の上層中農がぐずぐずいいだしていたので、区では情勢はよくないと考え、さらに、いわゆる「全力をあげて強固にし、条件があれば発展させる」という誤った退却の方針をとり、新しい組合を発展させる計画を、つづけさまに四―五度も縮小した。一九五四年の秋にはまだ、虹南郷にたいして、一九五五年の春には新しい組合をつくってよいと答えていたが、このころには、きっぱりと「今年の春期には、蔬菜地区では設立しない」というようになった。虹南郷の各部落が前年に提出した組合設立の要望は、一九五五年二月一四日になってようやく、そのうちの二つだけが承認された。しかも、そのうちの鴨湯浪協同組合は、区委員会が承諾したときにはすでにつぶれていた。


まず、ひきのばしておいて、あとでは縮小するという誤ったやりかたは、もともと、資本主義の道をすすもうとする富農の希望にぴったりあっているものである。鴨湯浪協同組合では、区からの承認や支持がぐずつかれて得られなかったため、組合内のしっかりしていなかった上層中農が、組合の経営に反対しはじめた。三戸の上層中農がまず率先して脱退し、つづいてさらに五戸が脱退して、区委員会に承認されたときには一二戸しかのこっていなかった。富農は、この機をとらえてさまざまな方法で活動した。富農は、貧乏をよそおったり、利益で誘惑したり、鬼攀親[原注1]にしたりなどの方法で、貧農や積極分子をひきずりこみ、農業の社会主義的改造事業を破壊した。組合をつくっていた璧上村の富農九戸のうち四戸は、公然と破壊活動をおこなった。富農陳伯余は、「降服した富農」だと自称し、貧乏をよそおってお大衆の同情をあつめた。富農朱進祥は、たべものをおくって、璧上村の組合の副主任趙林根(貧農)の母親をひきずりこんだ。もう一名の富農朱金度は、さらに恥しらずなことには、鬼攀親の方法で、中東協同組合の副主任史林娣をひきずりこみ、朱金度の死んだ娘と史林娣の死んだ兄を結婚させた。組合設立の準備をしていた鴨湯浪村の幹部何基仁(上層中農)の妻は富農の娘であるが、一面では、夫の何基仁に「ほかの人たちはでかけないのに、おまえさんはなぜギリギリまいをして忙しがっているのですか」といい、何基仁が会議に夜でかけると家にかえらせないうえに、分家をするといいはり、他面では、何基仁をむりやりにひっぱっていって、自分の実家の富農の仕事をさせたりした。何基仁とうとう組合設立について消極的になり、そのうえ互助組の活動もやめてしまった。もともと組合の設立を要望していた大衆たちのうちのいく人かの熱意もくじかれてしまった。これらの大衆たちは、「数年も社会主義のことが話されていますが、実際にはその影も形もありません」といっていた。


しかし、虹南郷の絶対多数の貧農や下層中農は、組合設立のための積極的なたたかいをつづけた。許家塘村の貧農許竜青は、組合を設立させないときいて、郷の幹部に「大衆が要望しており、互助組も三年経営してきており、家畜もおたがいに集中して飼育しています。組合を設立することができないのはなぜですか」とつめよった。郷幹部ははじめてのうち「人手が少なく、指導の経験も不十分」だからといっていがれていた。しかし、大衆はけっして手をゆるめはしなかった。「あなたたちが指導しきれないのでしたら、援助していただければ結構です。それもできなければ、わたしたちはほかの郷に指導してもらいます」といった。最後には、郷幹部も「区の承認がない」ということでふせぐよりほかにしかたがなかった。しかし、大衆はこの「承認」を重要視してはいなかった。あるものは「つくってからのことにしましょう。承認は承認とし、つくることはつくることにしましょう」[原注1]といい、あるものは「野合組合ではありますが、土地は統一することにし、そとに対しては組合とはいわず、わたしたちだけで協同組合ということにしましょう」といった。多数の部落では、共有財産はそのままにのぼしていた。許家塘や鴨湯浪では集団養豚をつづけた。許家塘では豚の売上金三五〇元を信用協同組合に預金し、断固として分配しなかった。窖浜浪や高家塘では土地の共同経営をそのままつづけていた。いくつかの部落の大衆は、組合の設立を郷がゆるさないのを心配し、郷政府をいつわって、夜、会議をひらいて討論していた。王家浪の貧農王国香は、「あなたたちが同意さえしなければ、わたしたちは宝北郷に指導してもらいます」といい、数度も宝北郷の小浜浪協同組合にでかけて経験を学び、とうとう「自然発生的な組合」[原注1]をつくった。 虹南郷の党支部も区の影響をうけて、ぐらぐら動揺しつづけ、大衆を支持しようとはしなかった。


もともと、全郷では一〇部落が組合設立を要望していたが、支部は七つだけ設立することを計画し、区に報告したときに二つけずられてしまった。郷の幹部自身も自信がなかったので、指示どおり実行するよりしかたがなかった。「考えがわからなかった」が、郷の幹部自身も自信がなかったので、指示どおり実行するよりしかたがなかった。大衆が、郷の幹部を再三再四批判したため、郷の幹部もあらためて考えなおさないわけにはゆかなくなり、しまいには大衆のがわにたつようになった。一九五五年四月の王家浪のいわゆる「自然発生的な組合」の処置についての区委員会の指示は、「説得できるものは説得してもとにかえらせ、できないものは指導を強加せよ」とのべていた。このようなやりかたに郷の幹部は反対し、王家浪が協同組合をひきつづき経営してゆくことを支持した。区委員会は、どうにもしようがなく、王家浪協同組合に「協同組」という奇妙な名称をつけることに同意した。しかし、「協同組」と公表したその日に、王家浪協同組合の大衆は、その荷箱に「王家浪農業生産協同組合」の一一文字を墨黒々と書きつけていた。


虹南郷の農業協同化運動の大波を、誰もおしとどめることはできなかった。一九五四年の八月から、組合の設立を断固として要望する全郷の大衆は、指導者のがわのためらい、ひきのばし、苛酷な要求、制約というさまざまな障害をつき破って、とうとう三つの協同組合をつくりあげた。一九五五年九月に、農民を積極的に支持し協同化運動の高まりを迎えよという党中央委員会および毛主席の指示が、新涇区にも伝達され、あれこれ見まわしてためらいいちちこまっていた区委員会の指導上の誤ったやりかたは是正された。組合を設立することを積極的に要望していながら、これまでは組合のそとにしめだされていた貧しい農民たちは、たがいにしらせあった。窖浜浪村の貧農朱仁弟は、部落の各戸を順序づけてならべてみて、にこにこ笑いながら、「あまりまだ日はたっていませんが、わたしたちのところでは、邵妙林(上層中農)のほかはみな希望しています。」といった。高家浪村の貧農沈宝兄弟は、畑をみながら、「インゲン豆はもう収穫が終り、大根はまもなく芽が出ます。組合の設立は早くしたほうによいですね」といった。陸家墳山村の全村二〇戸は、待ちきれず、貧農王正華の率先推進によって、自動的に会議を四回ひらき、組合設立の準備を積極的にすすめた。組合を解散してしまっていた鴨湯浪村には、まだ分散していなかった共有財産があったが、これも分配しないことに決定した。大衆の組合設立の高まりがわきあがってきた。虹南郷支部は、党員を組織して全郷協同化の全面的企画を討議した。討議にあたって、党員の気持ちはひじょうに高揚した。田図村の党員潘福弟はつぎのようにいっている。「わたしたちの部落はおくれているといわれています。誰もがみなおくれているのではありません。わたしたちも社会主義にすすむのです。」そして潘福弟は、一九五六年には田図村にも組合をひとつくることを提案した。党内で討議した結果、一九五五年の冬と一九五六年の春の協同組合発展計画は拡大された。一九五六年の春には、全郷の農業協同組合は一組から二五組合に発展し、協同組合加入農家は、全郷の農家総戸数の七二%にたつするであろう。このようにして、虹南郷は、今後の半年間に、半社会主義的協同化を基本的に達成することができるであろう。


原注一 鬼攀親。一種の封建的な古い習慣であって、未婚の男女が死亡したのち、双方の父母が勝手に、死亡したものの棺を一つにして葬り、夫婦だとするもの。


原注二 野合組合。原文は野鶏社。野鶏というのは娼妓。ここでは非合法の意味。


訳注一 自然発生的。指導部の承認をえずに、農民の意志だけによって協同組合を組織することをいう。


訳注二 「自然発生的な組合」。訳注一を参照。

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