prologue 再び神々の島へ
失ったものは、なくなったものではない。
誰かを想い続ける心がある限り、その願いは、いつか誰かへ受け継がれていく。
2022年10月
薄曇りの早朝のシンガポールは、夜の熱気をまだわずかに残しながらも、どこか静謐な空気をまとっていた。
チェック・アウトを済ませ、ホテルの自動ドアが開くと、ひんやりとした外気が頬を撫でる。僕はキャリーケースのハンドルを握り直し、深く息を吸った。仕事を終えた安堵と、これから向かう地へ高揚感、そのどちらともつかない感情が胸の奥でゆっくりと混ざり合っていく。
舗道には出勤前の人々が淡々と歩いている。この街は何度足を運んでも、同じように変わらぬ朝の光景が流れていく。その景色が、あの時の記憶を呼び覚ました。まだ20代。独身で、未来は無限に広がっていると信じていた。その一方で、どうしようもない無力感と絶望を抱えてもいた。
「若かったな」
思わず口の中でつぶやく。
シティホール駅のエスカレーターを降りると、冷房の効いた空気が身体を包む。改札を抜け、東西線のホームへ向かう。MRTが滑り込んでくる音が、妙に懐かしく響いた。
車内は朝の通勤客でほどよく埋まっている。スマートフォンを眺める人、新聞を読む人。あの時と景色は変わっても、朝の空気だけは変わらなかった。運よく座席に座れたので、窓の外を流れる街並みをぼんやりと眺める。
ある言葉が、不意に胸の奥によみがえった。
「失ったものばかり見ていると、今あるものが見えなくなります」
あの島で出会った、一人の女性の声だった。記憶も身体の感覚も、その当時へといざなわれる。
今の僕は、あの時の僕にどう映るだろう。
仕事に追われ、責任ばかりが増え、気づけば人生の折り返しを過ぎていた。それでも、こうしてまた旅に出られる自分がいる。
ターミナルに到着すると、広々とした空間に朝の光が差し込み、ガラス床に反射してきらめいていた。ターミナル中央では巨大な滝が轟音を立てていた。その迫力に、思わず足を止めた。あの時には存在しなかった光景だ。
「時代は変わるなあ」
だが、変わらないものもある。これから向かう地への、この胸の高鳴りは昔のままだ。
チェック・インを済ませ、まだ時間があったのでフードコートへ向かった。
カヤトーストの店に並び、セットを注文する。サクッと焼かれたトーストに甘いカヤジャムと濃いコーヒー。口に運ぶとバターの塩気とカヤジャムの甘さが口の中でほどけ、身体の奥にじんわりと染み込んでいく。
「これも以前から変わらない味だ」
そう思うと、胸の奥が少し温かくなった。
搭乗ゲートへ向かう途中、免税店の香水の匂いが漂ってくる。その香りがまた、あの時の記憶を呼び起こす。若さゆえにすれ違い、別れた恋。あの頃の僕は、仕事も恋愛のどちらも中途半端だった。今、そう思えるのは、歳を重ねたからだろう。
ゲート前の椅子に腰を下ろし、窓の外に停まるガルーダ航空の機体を眺める。白い胴体に青い尾翼。その姿を見ていると、また新しい旅が始まるのだという実感が湧いてくる。わざわざ、便の少ないガルーダを選んだのも、あの時と同じ感覚を求めたからかもしれない。
2004年の僕は、未来を恐れず、ただ前だけを見ていた。
今の僕は、過去を振り返りながらも、やはり前に進もうとしている。
その違いはあれど、根っこは同じなのかもしれない。
アナウンスが流れ、搭乗が始まる。僕は立ち上がり、キャリーケースを引きながら列に並んだ。
「よし、行くか」
そうつぶやき、ゆっくりとゲートをくぐった。
チャンギからングラ・ライへ向かう機内。機体がゆっくりと滑走路を離れる。眼下にシンガポールの街並みが遠ざかり、やがて窓の外は蒼い海だけになった。イヤホンを耳に当てる。機内オーディオを操作すると、一曲のイントロが流れ始める。
思わず目を閉じた。あの時、この島へ向かう機内でも、同じ曲を聴いていた。
失恋したばかりだった。東の海と西の海を歌うその旋律を胸に抱きながら、僕は神々の島へ向かっていた。
そして数日後、本当に僕は
西の海へ沈む夕陽と
東の空に昇る満月を
神々の島で見上げることになる。




