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聖女の幸せ

 王と大神官の華やかな行列を見て、エステルはモンドールにいたときのことをすべて思い出した。

 冷たかった両親、聖女として迎えられた神殿では聖女の勤めを果たしながら下働きとして追い使われる暮らし、王族・貴族の侮蔑の眼差し、婚約者とされた王太子カルバンの憎しみの果ての公開処刑――。

 レオナールに抱きかかえられていても、恐ろしさからの震えが止まらなかった。

「エステル、思い出してしまったのね」

 アニエスが外から戻って来、エステルをレオナールに代わって抱きしめる。

 そのぬくもりの中で、エステルはようやく安心でき、震えも止まった。

「女神さま、わたし、いっしょうけんめい、おつとめしたのに、みんなにきらわれてしまったのね……」

 泣きべそをかいて、エステルは言った。

「いいえ。あなたは立派に自分の務めを果たしていたわ。悪いのは、王家の人間と大神官たちよ。でも、もう苦しいときは終わったの。シエルが自分の命の一部をあなたに譲り渡し、あなたは蘇った。聖女の務めは終わり、あなたは自由よ」

 アニエスは、五歳の子どもの姿をしているエステルに尋ねた。

「ねえ、エステル。これから、何をしたい?」

 アニエスにぎゅっと抱きついた子どものエステルは、頭を振って、答えなかった。

「では、今はミルクを飲みましょう」

 エステルをだっこしたままアニエスが言うと、レオナールはヤギのミルクを取りに行った。

 食堂へ抱かれながら行き、木の椅子に座らせてもらって、エステルはレオナールが持って来たしぼりたてのヤギのミルクを飲んだ。

(かあさま……)

 木のコップに注がれたミルクを少しずつ飲みながら、エステルはテーブルの向かい側に座って、にこにこしているアニエスをみつめた。

 両親からも婚約者からも愛情はもらえなかった。大神官のフランシスコ様は親切だったけれど、それはエステルが聖女だからだ。処刑されるまでの日々は地獄のようだったが、アニエスを母と慕った時間は温かく、過去は悪夢として、今は記憶にあるだけだった。

(女神さまは、かあさま。では、レオナールは? わたしにとって、なに?)

 ミルクを飲んだあとは、「お昼寝よ」とアニエスに寝かしつけられ、起きたら、犬のトマスと外へ出て家の前の草地で追いかけっこして遊び、家の前のベンチで編み物をするアニエス、遠くで冬用の薪割りをしているレオナールを眺めて、エステルは考えた。

 その日から、エステルの身長が伸び始めた。

「毎日、大きくなっていきますよ。どうしてなんでしょう」

 レオナールがアニエスに尋ねても、女神はにっこりとするだけだ。

 一日が一年。そんな感じで、エステルは成長していった。

 処刑される前は、がりがりに痩せて、髪も肌も色艶が悪かったが、今のエステルは女神アニエスの愛情をいっぱいに受け、世話もされ、艶やかな金茶の髪と輝きのある金色の瞳、バラ色の頬をした美しい少女となっていた。

 成長し出して十一日目、外見も生前と同じ十六歳となった。朝食後、エステルは、改めて話し出した。

「かあさま……アニエスさま。先日の問いかけについて、お答えしたいと思います」

「ええ、聞くわ」

 アニエスがエステルのほうに向きなおって座り、立ち上がりかけていたレオナールも座り直した。

「地位も名誉も、贅沢な暮らしも、なんにもいりません。ただ、愛する人と穏やかに暮らしたい――そう思うのです」

 と言ったあと、ちらりとレオナールに目をやり、赤くなった。

 レオナールも、エステルの視線を受けて、頬を染めている。

「夫と子どもがいる平凡な暮らし。家族が元気で、日々の糧を得られ、そして自分にできることで、他の人の手助けをほんの少しでもできたら……」

「いいことね、かわいいエステル」

 立ち上がったアニエスはテーブルを回り、エステルの横へ行って身をかがめ、額にキスをした。

「あなたの夫については、レオナールってことで、いいかしら?」

 問われて、エステルは真っ赤になって、うなずいた。

「彼が、いいのなら……」

 と、答えるエステルから、アニエスは身体を起こしながら視線をもう一人の愛し子に移した。

「で、レオナール。あなたは?」

 親代わりの女神の問いかけに、レオナールは顔を赤くしたまま答える。

「わ……わたしに、異存はありません。エステルのことは、十歳のとき神殿で初めて会ったときから気にかかっていました。思いもかけず、お世話する立場になり、このままずっと側にいてもいいと思っていましたが、エステルが私を夫に望んでくれるのなら、これはもう、望外の喜びで」

 と、ますます顔を赤くした。

「よろしい。では、テルミナールの女神として、二人の婚儀を執り行います」

 重々しく言ったアニエスが、ぱっと顔を輝かせる。

「この国の女神になって初めての仕事が愛し子同士の結婚なんて、嬉しいわ。ウエディングドレスを作るわね、エステル。レオナールにも晴れ着を。忙しくなるわあ」

 と、手をたたいてアニエスが喜んだとき、ドンドンと扉を乱暴に叩く者がいた。

「まあ、だれかしら。無粋もの」

 アニエスが少し機嫌をそこね、レオナールは暖炉の上にあった剣をとって、扉のところへ行き、脇に立つ。

「だれだ?」

 慎重に外の者に尋ねたレオナールへ、室内から少年の声がした。

「サラザール人のダリオスって男だよ。ぼくの案内で来たんだ。アニエス、会ってやってよ」

 空中に少年が浮いている。サラザール王国を守護する男神・アレスだった。

「アレス、やっかいごとを持ってきたんじゃないでしょうね」

「まっさかあ。純愛ってやつだよ。話を聞いてやってよ」

 と、けらけら笑って、アレス神は姿を消した。

「場所を変えましょう」

 女神アニエスのひと言で、そこは小さな家の食堂兼居間ではなく、草が風になびく平原となった。

 アニエスは女神の姿に戻り、蔓草の玉座に座っている。その右わきに剣を構えたレオナールが立ち、彼の後ろにエステルがいた。

 玉座の前には、巡礼者の粗末な服を着た若い男がひざまずいている。大柄で黒髪の精悍な顔をした男だった。ただ、無精ひげをはやし、やつれていた。

「女神・アニエス……だな?」

 顔を上げた男が、ぎろりと女神を見た。

「礼儀を知らぬ者に用はない。く帰れ」

 アニエスが右手を差し伸ばし、ピンと弾こうとしたとき、アレス神が男の傍らに姿を現して、頭をはたいた。

「この馬鹿者。アニエスは礼儀にうるさいって教えたよね」

 と、叱ってから、少年神も片膝をついた。

「麗しの女神よ、我が民の無礼をお許しください。お怒りをおさめて、ぜひにこの者の話をお聞きください」

「まあ、礼儀知らずのアレスが珍しいこと。どうしたのかしら」

「こいつ、ダリウスの祈りがしつこくて、おもしろくってさあ。特別に神託を下ろして、ここへ来るように導いたんだ」

 笑いながら、再びくだけた口調に戻ったアレス神が言う。

 一方で、ひざまずいた男が語り出した。

「我がサラザールの偉大なる神のお導きによって、まかり越しました。我が名はダリオス。モンドール王国にて、傭兵をしておりましたが、女神・シエルの命によって、巡礼者をモンドール王国の国外に逃がすことをいたしました。その後、わたくしは母国に戻ったのですが、女神シエルの凛々しいお姿が忘れられず、サラザールの民でありますが、女神シエルの守護するモンドールの民になりたいと、我が神に願ったところ『元モンドールの神・アニエスの許しを得れば良い』との神託をいただき、参ったしだいでございます」

 と、述べて、頭を垂れた。

「聖女殺しのモンドールの民になりたいと? しかし、わたくしは今やテルミナールの神。見当違いな願い事です」

 女神アニエスが、アレスに視線をうつす。

 ぷぷっ、と笑いをこらえたアレスが答えた。

「つ・ま・り。ダリウスは人間の身で神のシエルに一目ぼれしたんだ。滅びて民がいなくなり、消滅しようとするシエルを生かそうと、ただ一人でもモンドールの民になりたいと願った。サラザール人の彼は聖女殺しに関係ないからね。純愛だろう?」

 あはははっ、と爆笑したアレス神は、空中に飛び上がって、とんぼ返りした。

「そちらの言い分はわかった。だが、わたくしには何もできない」

「できるさ」

 笑っていたアレス神が、ふわりと地上に降り立った。

「シエルは、アニエスにしか話そうとしない。『また、会おう』って互いに言ったよね。ぼくたちとは、別れの挨拶をした。君たちは再会の約束をした。……これを見なよ」

 パチリ、とアレス神が指を鳴らした。すると彼らの目の前の空間が歪み、ある情景を映し出した。

 モンドール全土が巨大な穴となり、数多くの魔獣を吸い込み続けている。一方、そこから、数えるほどの小さな光の珠が飛び出していく。

「人間は国境までしか、いけねえ。その先は見えない壁があるみたいに先へ進めない。俺は峠まで行って、シエルに叫んだ。『俺をあんたの民にしてくれ』ってさ。あんな潔い覚悟をした女を、一人で逝かせるわけにいかないだろ?」

 かしこまっていたダリウスは、慣れない姿勢と言動に疲れたのか、あぐらをかいて、普段の口調に戻っている。

「五日間、叫び続けて返事がなかったんで、俺は故郷に戻り、神殿にこもって祈り続けた。で、神託が降りた。ここにくれば、シエルに会えると」

 ダリウスに続いて、アレス神が言う。

「念じてよ、アニエス。『シエルに会いたい』って。彼女はモンドールの民と共に黄泉にいる。そこで、罪の有る無し、軽重を調べて選別しているんだ。光の珠は、罪の無かった者が現世に返されているんだ。彼らは他の国で生まれ変わることだろう」

「シエル……」

 アニエスが友の名をつぶやいた。

「かあさま、私からもお願いします。私を殺したのは、王族と隣国の次代の聖女。女神のシエルさまは、何もしてません。何故、女神さまだけが、こんなひどい目に遭うのでしょう」

 エステルも口添えをした。

「シエル……シエル。あなた、今、どうしているの?」

 女神アニエスが友の名を呼びながら、玉座から立ち上がった。

「アニエス」

 凛とした声が返ってき、モンドールの情景が消え、草原の風景の中で人の身長ほどの直径の真っ暗な穴が空中に出現した。そこから、大きなカニのようなものが押し出された。

「アニエスの愛し子よ。これをどう裁く?」

 同じ女性の声がした。

 サラザールのダリウスが立ち上がり、ざっと振り向いて女神を後ろにかばい、腰から短剣をぬいて構える。

 レオナールは踏み込んで、剣の切っ先をその生物の喉元に突きつけた。

「やめろぉ!」

 それは、男の声で叫んだ。

 エステルがよく見れば、ぼろをまとった王太子のカルバンだった。

「おい、おんな。婚約破棄は無しだ。正妃にしてやる。だから、モンドールを元に戻せ!」

「そうよ!」

 カルバン王太子がくるりと後ろを向くと、今度は女が金切声を上げた。

「あんた! モンドールの聖女なんでしょ? 元通りにしなさいよ。あたしは側妃でがまんしてあげるから!」

 ぼろぼろの女は、隣国の聖女・ルイーザだった。

「真実の愛で結ばれた男女であるからな、いっときも離れぬように体をくっつけた。もっとも、正面や横では互いを罵るばかりなので、背面にしたが」

 と、草原の風景を切り取り、真っ暗な円形となった闇の中に、岩の玉座に座った黒衣の女神・シエルがいた。

 カニのように見えたのは、背中がくっついた二人の人間だったのだ。

「趣味が悪くなったな、シエル」

 アレス神の言葉を無視し、女神シエルはエステルに尋ねた。

「どうする? アニエスの愛し子よ、そなたを陥れ、殺したこの者たちを許すか?」

 エステルはレオナールと女神アニエスの後ろから進み出て、静かに答えた。

「いいえ、公正なる女神さま。モンドールの聖女、エステルは死にました。死者は殺した者の行く末など、知るはずもありません」

「なんだと! 王太子の命令がきけないのか!」

 くるりと回って、カルバンが怒鳴る。

「あんた、聖女なんでしょ? 自分の責任を果たしなさいよ!」

 今度はルイーザがこちらを向いて、怒鳴りつける。

「おのれの立場と責任も分からぬ者ども。反省の色もない。地獄の底で、自分たちが何をしたか、よくよく考えるのだな」

 女神シエルが言うと、カルバンとルイーザは悲鳴を上げて、姿を消した。

「女神シエルよ、あなたは、どうなるのか?」

 ダリウスが近寄って訊く。

「愚かな人間よ。おまえが神たる私について思い煩うことはない。故郷へ帰り、おのれのささやかな幸せを求めよ」

 つん、と女神は答えた。

「……いじっぱりね。心配してくれる人間がいて、うれしかったくせに」

 女神アニエスがつぶやいたことを、女神シエルは聞かなかったことにした。

「アニエス、我が友よ。もう一度、あなたに会えて良かった」

「わたくしもよ、シエル。守護する国が無くなっても、あなたが存在しているのは、嬉しいわ」

「そう。主神さまがご意思を示された。私は新たな国を司ることになった。黄泉の国を。ここは今まで主神さまが低級な神を使役して治めておいでだったが、このたび私におまかせくださることになったのだ。魔獣を道づれにして、地上から一掃したのを喜ばれたようだ」

「まあ、シエル。では、また会って、おしゃべりができるわね」

 女神アニエスが微笑むと、ダリウスが叫ぶ。

「じゃあ、俺が悪事をしまくって、死んで地獄へ行けば、またあんたに会えるんだな!」

「おまえなあ」

 アレス神が呆れる。

「愚か者!」

 女神シエルが、ぴしゃりと言った。

「そなたは、私が地上に残したカケラを拾い集めるが良い。邪な考えで、わざと罪など犯したら、黄泉の裁定の場で容赦はせぬ。おぼえておけ」

 と、女神は闇と共に姿を消した。

「なんでだよ、あんたに会いにいっちゃあ、だめなのかよ!」

 ふう、とアニエスが息を吐く。

「ダリウスとやら、不敬が過ぎる。よって、わたくしがおまえに呪いをかけよう。愛する者が見つかるまで、そなたは年もとらず、死にもしない」

「なんだとお! なんで、俺が呪われなきゃならんのだ!」

 いきりたつダリウスに、アレス神がささやいた。

「ばーか。地上のカケラってのは、シエルが分け与えた命のことだ。エステルが将来、産む子どもの中に、もしくは孫の中に、シエルの魂を持った子がいるはずだ。本体のシエルは黄泉にいるが、その子もシエルなんだ。アニエスの呪いは、その子が生まれるまで、待てってことさ。口説き落とせればいいけどね」

 ダリウスが信じられない、といった目で、エステルを見た。

 エステルは恥ずかしがってアニエスの後ろに隠れ、剣をおろしたレオナールは、「娘は、嫁にやらん」と苦い顔をした。

 そこに、「ほほほ」と晴れやかな笑い声が起こった。

「レオナール、父親顔をするのは、まだ早い」

 女神アニエスは、地味な人間の姿に戻り、風景も草原からの狭い居間兼食堂へと変わった。

 アレス神はすでに姿を消し、こぢんまりとした居間兼食堂に、ぼう然として突っ立っていたダリウスをアニエスは追い出し、エステルとレオナールはテーブルの上の食器を片づけて、今日の自分の仕事を始めたのだった。









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