伝説
女神アニエスが織った布で作ったウエディングドレスと晴れ着をきて、エステルとレオナールは、山の家の横に造られた小さな祠の前で結婚式を挙げた。
テルミナールの守護神・アニエスに夫婦の誓いをし、見届け人はヒトの姿をしたアニエスと、犬の姿から人間に戻ったトマスだった。
呼ばれて司祭をつとめた修道院長は、疑問符を頭の片隅に持ちながら、自分の役目を終えた。
二人の結婚を見届けて、アニエスは天界へ戻って行った。トマスは犬の姿に戻って、しばらく二人の手伝いをすることになった。
羊飼いとしてレオナールは生涯を過ごし、エステルとの間に二男三女をもうけた。男の子の一人は大きくなると街の商家に働きに出、やがて独立してテルミナールでも富裕な商人となった。もう一人の男の子は船乗りとなり、経験を積んで自らも船を持つ貿易商となった。女の子二人は近くの農家の息子と恋に落ち、結婚した。女神シエルの名をもらった末っ子の女の子は、サラザールの大富豪・ダリウスの猛烈なプロポーズを受け、父親のレオナールの妨害をものともせず、結局、ダリウスの妻となった。
女神アニエスはエステルが子どもたちを出産する際、産婆役をするために下界へやってきて、エステルにお産についてのさまざまな知識を教えた。
エステルはそれによって娘たちがお産をするときに産婆役をし、また近在の女たちのお産も手伝った。彼女の評判は良く、「難しいお産は、テルミナールのエステルに頼め」と噂が広がり、彼女のもとへ遠くから女たちがやってくるようになった。
そこで二人の息子と婿のダリウスが麓に、女神アニエスの神殿を建てた。すると、井戸に水が湧き出るようになった。
人が住めるようになると、神殿の脇には宿泊所と施療院が建てられ、エステルと彼女からお産についての知識を伝えられた女たちが産婆として、この地を訪れた妊婦たちの出産を手伝った。
神殿は新しい巡礼地となり、女神アニエスはお産と子どもを守護する神として崇められるようになった。
エステルとレオナールは平凡でありながら幸せな生涯を終え、そのひ孫たちの世代になると、モンドール王国の惨劇はすでに昔話となり、国々の興亡もあって、神たちは国を守護するというより、役目によって崇められるようになっていった。
たとえば、アニエスが女性と子どもの護り手、シエルが死後の裁定と黄泉の女王、アレスが旅人の友、または行き先を示唆する神として。
百年が過ぎ、モンドール王国があった場所は海となり、その惨劇は人びとをいましめるおとぎ話となった。テルミナールも王国ではなく、人びとの代表が選ばれて治める国となった頃、テルミナールの国の端の古い女子修道院の廃墟の地下には、幽鬼が封じられているのだと、人びとが噂するようになった。
誰もいないのに、ときおりすすり泣きの声が聞こえるという。
その正体は、テルミナールの最後の聖女にして元王太后のグエン。
「生き永らえたい」と願ったグエンは、次代の聖女を息子である王が隣国に追放し、モンドール王国崩壊の一因を作ったのだが、その罪を女神アニエスに赦され、生きることとなった。自らの行いを反省したグエンは、修道女となって祈りの日々を送っていた。けれども、平民となった息子や孫が穏やかな人生を終えても、子孫が絶えても、彼女には死が訪れなかった。
老いて、飲み食いできず、骨と皮ばかりとなって寝たきりとなっても、彼女は死ななかった。
修道女たちはグエンを世話し続けたが、しだいに気味悪くなり、そのときの修道院長が女神アニエスの神殿の巫女に神託を願った。
アニエスの答えは、「その者は生きることを願ったので、それを許し嘉したまで」というものだった。
「生き永らえたい」と願ったグエンに、女神は「生きよ」と応えた。そこに、死は存在しない。
許しと祝福だと思ったことが、今や神罰となった。
神に呪われた者がいると知って、修道女たちは、その修道院を捨てた。
地下に残されたグエンは、子や孫たちと過ごした日々を思い起こしながら、長い時をそこで生きる屍として存在し続けている。おそらく、この世界が終わるまで。
死んで地獄へ行くのと、知る人もなく身動き出来ぬまま永遠を生きるのは、どちらがつらいことだろうか。
グエンはこの世に存在しながら、伝説となったのだった。
終
お読みくださり、ありがとうございました。
2026年3月9日、みか様よりレヴューいただきました。ありがとうございます!




