蜜酒14
「王妃様、お顔の色が優れないようですが」
「眠りが浅かったから。もう行かなければ、礼拝の時間ね」
セレストに指摘は正しかったと伝えると、探るような眼差しを受ける。
アレックスが待ってくれているのに甘えて振り回していたと知ったイブリンだが、昨夜はいろいろな意味で疲れることばかりだった。
手をつないでほしいと真顔のアレックスに言われた時は、どう捉えるべきかと悩んだ。寝台の端と端では届かないので、お互い中央に近づいて上掛けの下で手を伸ばす。ためらいがちに手を伸ばすと、大きく骨張った手に触れた。さきほど肩にあった手。抱きしめてきた手。
思い出すと躰が汗ばむ。手のひらもそうだろう。そんな手を取られ、つながれた。
熱が伝わり、それはそのままアレックスの存在を強く印象づける。アレックスを意識したまま、芯からは眠れずに朝を迎えた。
「午睡がしたいわ」
「調整いたします」
礼拝のために目を閉じると眠気が押し寄せてきそうで、イブリンはぎゅっと握り合わせた手に力を込める。
いつもは礼拝から神、そしてアレク殿下を思い浮かべるのに、今朝はアレックスの言動がよみがえる。
どちらも祈りの場にはふさわしくない。祈りの文句で無理やり追い出そうとするが、うまくいかない。
集中できないのに後ろめたさを覚える。ただ気が塞ぐ間もない。アレックスがイブリンを待っていたから。
腕を組んで歩き出すとまたアレックスがイブリンの手を挟み込む。非難をこめて軽くにらむが、表情を出さず前を向いているアレックスは意に介さないようだ。
余裕なのかと少し悔しくなる。勝負ではないはずなのに、アレックスが仕掛けてくるのに翻弄されて気持ちが乱される。
陛下はお人が悪い。朝食の間について腕組みがとかれ、イブリンはほっとした。
忙しく公務をこなせばあっという間に午後になる。セレストがギーズに話を通してくれたのか、本当に午後の時間を午睡に当てられる。
「こんな時間から寝台の中、怠惰の極みね」
「お疲れでしょうから、ゆっくりなさってください」
「ありがとう」
寝台でのびのびと手足を伸ばし、気楽に眠れる。やはりアレックスと過ごすのは緊張していたのだと改めて実感して、イブリンはまどろむ。
眠りすぎると夜に目がさえてしまうから、ほどほどにと注意しながら。
アレックスは書類の山を片付け、眉間をもむ。
休憩かたがたアレクサンダーと対面した。
「兄上、お疲れのご様子ですね」
「大したことはない。軍をまとめるお前の方が疲れているのではないか?」
「ええ、でもやりがいがありますから。時に、オーバル聖教国から書簡が届いたとか」
アレクサンダーの問いにアレックスの機嫌は少し損なわれる。すぐ下の弟のせいでやっかいな事態に陥ったのだと、つい苦々しくなる。
黙ってアレクサンダーに書簡を渡して、目を通すのを黙って待った。
「これは……」
「破格の出世を申し出ている。信仰の道は平等ではなかったのか?」
「建前はそうですが。兄上、当然見返りを求めてのことでしょう」
オーバル聖教国にとっては、思いがけずに都合のよい駒が飛び込んできたようなものだ。
身分や出自は関係ないとされながら、厳然と存在する政治的な思惑。アレクシスのように俗世から信仰の道にはいれば、普通なら長い修養を要する。
それを飛び越えてというのは、ラフォレーゼからの援助なり配慮を暗に求めている。
「人質に取られているようなものだ。純粋なのはいいが、利用されてはかなわない」
「兄上は人を疑わない、神の使いのような人でしたから」
つかの間黙り込み、弟であり兄であったアレクシスを思い浮かべる。
「後始末だけでも大変な思いをしているのに。本人はひたすらに信仰の道を歩む、か」
「お気持ち、お察しします。まだ……義姉上とは?」
「言うな」
正式な婚儀の成立は証をもって知らしめられる。蜜月を伸ばしはしたが、未だ成就していない。
自分から決めたこととはいえ、それに縛られて膠着状態に陥っている。アレックスの気分がいいはずがない。
張本人は人の気も知らず、したいことだけに没頭できている。残された自分といえば。
「イディナは喜んでいるだろう」
「アーチボルトの立場が安泰になるからですか?」
「ああ」
国内が乱れているので直接的な干渉の余裕はないが、イディナとしては白い結婚の状態が続くのが好ましい。正式な子がアーチボルトのみなら、次代の国王に影響力を持てる。
アレックスとしてはイディナが安定する前にどうにかしたいのが本音だが。
「王妃は、未だアレクシスに想いを寄せている。――弟に嫉妬する日が来るとは思わなかった」
「兄上……」
年の差や子の存在、前の王妃とその故国との複雑な関係。婚約破棄をした相手の、兄。
どれをとっても引け目を感じざるを得ない。キアーラと国力の差があるから、強引なやり方で収拾を図った面がある。
急すぎる変化に戸惑っているだろうから、落ち着くまで待とうとした。
が、アーチボルトからイブリンがアレクシスを慕っていたらしいのを知らされて、状況は変わった。
待つ意味合いも、変化した。
「このことは誰にも漏らすな」
「は、い」
アレクサンダーが退室し、アレックスも執務に戻る。
時間が過ぎるのは早い。また夜が来る。
イブリンと手だけをつないで過ごす夜が。
「なんという、幼い付き合い方なのだ」
あれ以上近づけばイブリンが危うい。ただ離れているのは、自分が危うい。
アレックスの瞳が陰りを帯びる。張り詰めた糸の上を渡るような夜が、またやってくる。
自分を強く保たなければ。自制心と夜通し戦わなければ。
強い酒がほしいところだが、今の自分には危ない。しかし素面で過ごすにはあまりに夜は長い。
アレックスは再び眉間を揉み込んだ。
寝室には緊張と緊張がぶつかり、渦巻いている。
蜂蜜酒も慰めにはならない。昨夜と同じように、やや近い位置で、しかし距離は保って寝台に横たわる。
「手を」
「は、い」
触れあう手はどちらも熱い。
イブリンは触れているところから伝わる何かを確かめたいが、かなわない。
ただしばらくすると、いくぶん慣れたのか落ち着いてくる。
「陛下」
「なにか」
握る手がほどけそう、と思った瞬間に指が絡められる。
「――陛下のお手は、大きくてお熱いのですね」
「あなたの手はきゃしゃで柔らかいな」
真顔で返され、いたずらに動悸がする。
「そうおっしゃられると、意識してしまうではないですか」
「あなたが私に、何らかの感情を抱いてくれるのは、喜ばしい」
ともすれば声がうわずってしまいそうだ。アレックスはさらりと発しているのに、一言ひとことがイブリンを刺激する。
その刺激はイブリンの奥底に密やかに注がれ、たまっていく。
困惑と、年上で大国の国王に抱くのには不適切かもしれないが、アレックスの言動をかわいらしいと思う気持ちが同時にわく。
イブリンは不可解な気分のまま、早く夜が明けないかと祈る。
「王妃様、またお顔の色が……」
「そう?」
同じような会話が繰り返される。不毛な会話が。