月夜・一
腑に落ちないことばかりながらも瞬く間に時はすぎ、いよいよ任務の決行日を迎えた。鬱蒼とした常盤木の枝の間からは煌々と月明かりが降り注いでいる。
「それでは、指定された場所に向かいましょうか」
開始直前、リツの様子は至極いつもどおりに見えた。しかし、やはり何かを思い詰めていたようにも思える。
「無理もないか……」
椎の蔭に身を潜めながらハクは軽くため息を吐いた。
乳兄弟兼上司が第七支部を去ったのはひと月と少し前の夜明け前。突然の呼び出しに驚いたが当の本人は至って平然としていた。
「おや? なんか腑に落ちない顔だな、ハク」
「それはそうだろう……。お前……、平気なのか……?」
「んー。まあ本部の体質はあんまり好きじゃないけどさ、出世は出世だし。あの兄上ももういないわけだし」
「いや……、そういうことじゃなくて……、副班長を置いていくんだろ……?」
「あー、うん、それね。なら特に問題ないよ。もう話はつけたし。それにいい加減飽きてきてたし」
「飽きたって……」
耳を疑うような言葉を言い放った顔浮かんでいるのは、いつもどおりの笑み。それでも、今までの溺愛ぶりを思えばなにか事情がある可能性も否めない。
「お前……、本当に……」
「ああ、そっか」
真偽を探ろうとした矢先、笑みが毒々しく歪んだ。
「情でも移ったかんじか? まあ、たしかに彼女のほうがマシだろうしな。あやかしのお古、なんかよりは」
「……」
気がつけば、本心を追及するひまもなく拳を繰り出していた。
「……っ、まったく顔を殴るなんてひどいじゃないか。本部に着いたら早々にお偉方との打ち合わせもあるのに」
「黙れ……、二度と俺の前にその面を出すな……」
「……はいはい。心配しなくてもこれが今生の別れになるだろうさ。じゃあな」
憎たらしい捨て台詞を思い出すだけで怒りが込み上げ、右の拳が鈍く痛む。
きっと今頃は書類仕事に追われているのだろう。
本当に大丈夫ですから
どう見ても大丈夫には見えない顔でそう笑ったリツのことなど、考えることもなく。
「……」
やはり全員でもう一発くらい殴っておくべきだ。そのためにも無事に帰らなくては。それに、目殿たちに託してきた妻も……。
「こんばんは、お兄さん。今日はお月様が綺麗だね」
不意に幼い声が耳に届いた。
「……?」
振り返った先にどういうわけか、珍しい衣をきた男児と思しき子供が立っていた。
「最期にはぴったりな夜、そう思わない?」
月明かりに赤銅色の髪と濁った金色の目を輝かせ、手にした緋色の塊を弄びながら。
退治対象にしか見えないそれに、ハクは咄嗟に小刀を抜き応戦を試みた。
「貴さ……──っ!!!??」
しかし、激痛とともに体は膝から崩れ落ちていく。
いつの間にか、脇腹が抉れ装束は金泥の爪が弄ぶ塊と同じ色に染まっていた。この状況をなんとかリツとメイに知らせなくては。
「ごっ……」
しかし、叫び声は喉を遡る血に遮られてしまう。
「うーん。やっぱり、聞いてたとおりあんまりおいしくないな」
赤く汚れた口からつまらなそうな声が漏れる。
「この調子だと、他の二人もそんなに期待はできないかなぁ」
「……」
情報が漏れたのかもとも明かされていたのかまで分はからない。しかし、相手がリツとメイがいることを把握していることは確実だ。それにこの深傷で、否、怪我がなくても到底敵う相手ではない。
ならば、すべきことは一つ。
「うーん。面倒だしもうお城に帰ろうかなぁ。でもメインはけっこう美味しいって言われたし、もう少し付き合ってあげようかな。ね、お兄さん」
「……っ!?」
激痛とともに鋭い枝が突き刺さった手から煙幕が転がり落ちた。
「うん。かくれんぼも楽しいけどさ、そんなに血の匂いをさせてたらお話にならないんじゃない? だいたい、ただでさえ見つけやすくしてもらってるのに」
つまらなそうに溢れる声に、自分たちが売られたと思い知らされる。それでも、絶望している暇などはない。
なんとしても、この状況を伝えせめて二人と囮役だけでも逃さないと。
「……」
「へー? まだ、動けるんだ。お兄さん、あんまり美味しくないけど面白いね。えいっ!!」
「ぐ……」
死力を尽くして這いずる背に鋭い痛みが走る。
「あはは!! すっごく綺麗に刺さった!! 的当てにちょうどいいや!!」
「っ……」
「ほらっ! もっとちゃんと逃げてよ!」
嘲笑とともに鋭い痛みがまた突き刺さる。何度も、何度も。
「えいっ! えいっ!」
「……」
しかし、その痛みすら次第に感じなくなっていった。
「うーん、なんだか反応が悪くなっちゃったなぁ。枝もなくなっちゃったし」
「……」
目の前にはもうなにも見えない。ただ、小さな足音だけが聞こえてくる。
「お疲れ様、お兄さん。そこそこ楽しったけど、飽きちゃったからもういいよ」
「……」
楽しげな声とともに後頭部に圧迫を感じた。
「じゃ、僕はもう行くから」
暗闇のなかに何かが砕ける音がひびく。
「次の子はもう少し楽しいといいな」
「……」
仲間と遺してきた妻のことを思いながらハクの意識は月の光に拡散していった。




