幸せな冬子さん
お父さんと冬子さんの二人暮らしは、けれど、そう静かな日々でもありませんでした。
春香姉さんが、しょっちゅう子どもを連れて遊びに来ます。秋代姉さんも、生まれたばかりの赤ん坊を見せに来ます。夏美姉さんに至っては旦那さんを連れて、家にご飯を食べに来る始末です。
冬子さんは、その度に黙ったり怒ったりしながら暮らしていました。
仕事が遅くなる日もあります。そんな時はお父さんに連絡してお惣菜を買って帰ってもらいました。出来ることはする、出来ないことは頼る。お父さんにそう言われた冬子さんは、ちゃんとそれを守りました。
「板倉さん」
そんな板倉さんちの冬子さんも、年頃です。風変わりな人間であるというのに、世の中は不思議なもので、近づいてくる男の人もいます。
「今度良かったら、一緒に映画に行かない?」
そんな男の人を見上げて、冬子さんは珍しく口を開いてこう聞きました。
「何人兄弟ですか?」
「は? ええと、三人、だけど……兄と妹」
驚きながら男の人は、そう返事をしました。
冬子さんは、その人を前に考え込みます。そして、こう答えました。
「……映画……行きます」
それは、つまらない家族の映画でした。少し古臭くて、優しいばっかりの退屈な映画です。でも、隣で見ている男の人は泣いていました。
ハンカチが足りなくなったようなので、冬子さんは自分のハンカチを貸してあげました。
「俺、こういうの弱くて……恥ずかしいな、はは」
映画の後、真っ赤な鼻の頭で男の人が、恥ずかしそうに笑います。冬子さんは黙って、彼の腕をぽんぽんと叩いてあげました。
冬子さんは、何だか弟が出来た気分でした。いままでずっと一番下の冬子さんは、面倒を見られてきたので、それは不思議な気持ちでした。
でも、その人は弟ではありません。逆に、冬子さんが助けられることも何度もありました。
頼ったり頼られたりしました。
そんなある日、その人は言いました。
「今度良かったら、俺と結婚しない?」
まるで最初に映画に誘った時と同じような言葉に、冬子さんは少し呆れました。そして少し悲しくなりました。
「私、お婿さんが欲しいんです……」
ずっと言えなかったことを、冬子さんは言っていました。このまま冬子さんまでお嫁に行ってしまうと、家でお父さんが一人ぼっちになってしまうからです。
とても複雑な気持ちでした。お嫁に行きたくないのに、この男の人がいなくなってしまうのもいやだったからです。
「……ちょっと待っていて」
そう言って、男の人は帰って行きました。
家に帰ると、お父さんがいました。
「どうした冬子、泣きそうな顔をして」
冬子さんは、そこで気づきました。あの時の春香姉さんもきっと、こんな気持ちだったのだろうと。
秋代姉さんも夏美姉さんも、同じ気持ちだったのだろうと。
その日、冬子さんはご飯も食べずに部屋に戻りました。もう二段ベッドはありません。自分用のベッドの中に潜り、昔のようにみのむしになりました。
こうすると、心の声がもっと聞こえてくるような気がするのです。ほんのわずかに残っているお母さんの記憶が戻ってくるのです。
お母さん、どうしたらいいですかと冬子さんは声をかけました。お母さんは笑っています。
「冬子」
長い間みのむしになっていたら、外からお父さんが声をかけてきました。
「いま、北原さんという方から電話があってね。来週、挨拶に来たいって言っていたよ……お父さん驚いたよ。冬子の口から教えてくれないかな?」
お父さんの言葉に驚いて、冬子さんは布団の中から飛び出してしまいました。いきなりお父さんに電話をかけてくるなんて思いもしなかったからです。
生まれて初めて冬子さんは、お父さんの前でしどろもどろになりながら、仲良くしている男の人について話しました。
お父さんは、笑ったり少し寂しそうにしながら話を聞いていました。
そして。
冬子さんは。
お婿さんをもらいました。
男の人は、お父さんとお母さんを説得してきてくれたのです。
「ありがとう」と冬子さんが言うと、その人は泣きそうになりながら、冬子さんをぎゅうぎゅうに抱きしめてくれました。
大事なお父さんだけでなく、大事なお婿さんが家族として増えました。
冬子さんは、相変わらずだんまりでしたが、お父さんとお婿さんと一緒に暮らすことが出来て、とても幸せだと思いました。
めでたしめでたし。
『終』