第四十二話 前へ行く仕事
夏は、最初に匂いで来た。
雪が消えたとか、泥が乾いたとか、洗濯物が凍らなくなったとか、そういう分かりやすい話ではなかった。
朝、食堂の窓が少し開いていて、そこから入ってきた風に、草の匂いが混じっていた。
青い匂い。
湿った土の匂い。
それから、油の匂い。
ハウンド七の格納庫では、どんな季節でも油の匂いがする。冬はそれが冷たく、春は泥に負け、夏はやけに強くなる。鉄板が熱を持ち始めると、油は少し甘くなる。甘いと言っても菓子の匂いではない。鼻の奥に貼りついて、忘れた頃にまだいる、あまり性格のよくない甘さだった。
カナタは食堂の隅で、椀を両手で持っていた。
豆スープ。
薄い。
相変わらず薄い。
冬の間は、湯気だけで少し許せた。白い湯気が上がっているだけで、味の薄さに言い訳ができた。けれど夏が近づくと、湯気はすぐほどける。すると椀の中身が、ただの薄い液体として正面からこちらを見てくる。
かなりつらい。
「今日の豆、二粒」
ユウトが言った。
覗き込み方が、もう職人だった。
「市民ですね」
タクトが答えた。
「市民生活、長いなあ」
「安定しているとも言えます」
「安定した貧しさ」
「言い方」
リゼが笑った。
彼女は食堂の窓際に座っていた。
手首には赤い布。
旧学校区から戻ってから、その赤は少し意味が変わった。
待つための色ではなくなった。
呼ぶための色になった。
帰ってこい。
帰ろう。
本人はそこまで大げさに考えていないのかもしれない。けれど、赤布を巻き直す時の手つきが前より少し早くなっていた。見せるための位置に結ぶ。振った時に目立つように、結び目を少し外側へずらす。
カナタはそういうところを見る。
見えてしまう。
豆の数より、手首の角度。
椀の湯気より、人の息。
席の空きより、出口までの距離。
癖ではない。
もう仕事だった。
それが少し嫌だった。
その時、食堂の入口にガレスが立った。
火のつかない煙草。
くたびれたコート。
眠そうな目。
いつもの三点セット。
ただし、今日は少しだけ目が起きていた。
「前へ出る」
食堂が、半拍遅れて静かになった。
椀を置く音。
誰かが咳を飲む音。
開いた窓から入る草の匂い。
全部が、その言葉の後ろへ下がった。
「前、ですか」
カナタは訊いた。
「第三方面前線。補給支援と退避路確認。帰還誘導兵も同行する」
「避難列ではなく?」
「前線部隊だ」
前線。
その言葉は、ハウンド七の食堂にはあまり似合わなかった。
ハウンド七にも戦争はある。
レイスも来る。
帰れなくなった列も来る。
負傷者も、泣いている子供も、黙った老人も、火のつかない煙草もある。
でも前線という言葉には、もっと別の重さがある。
砲。
鉄。
土嚢。
そこから下がることを考える前に、まずそこへ立たされる場所。
カナタたちは、これまで帰る列を見てきた。
前線は、その列が始まる前の場所だ。
「前線かあ」
ユウトが椀を持ったまま言った。
「豆二粒で行く場所じゃないですね」
「豆四粒なら行くんですか」
タクトが訊く。
「行きたくはないけど、心構えが違う」
「心構え、豆依存」
リゼが言った。
「だめな思想だね」
「でも分かるでしょ」
「ちょっと分かる」
「分かるんだ」
少しだけ笑いが起きた。
その笑いは、すぐ消えた。
ガレスが言う。
「アイゼン砲撃群、ブルーグラス観測班、グリッド工兵が出てる。こっちは後退路を見る。お前らの仕事だ」
「後退路」
カナタは繰り返した。
前へ出る仕事なのに、見るのは後ろ。
帰還誘導兵らしいと言えば、かなりらしかった。
三号車は東へ走った。
夏前の道は、冬より広く見える。
雪がない。
白い壁もない。
轍も凍っていない。
道端には薄い緑が生え、壊れた防雪柵は季節外れの骨みたいに立っている。空は高いようで、どこか重い。雲の底が低く、日差しだけが中途半端に明るい。
荷台には道具が積まれていた。
白線布。
赤布。
黒札。
確認棒。
携行灯。
医療袋。
拡声器。
静音布。
乾パン。
やけに乾パンが多い。
「乾パン、こんなに要ります?」
マコトが言った。
「前線は腹が減る」
ガレスが答える。
「副長が食べたいだけでは」
ユウトが言う。
「お前の分を減らすぞ」
「必要です。前線は腹が減ります」
「早い」
リゼが笑う。
ハルクは黙って盾の留め具を確かめていた。
帰還誘導兵に配属された、前線経験のある兵。
彼はよく喋る方ではない。
だが、前線という言葉が出てから、背中の空気が少し変わった。
緊張ではない。
懐かしさでもない。
たぶん、戻る場所を間違えそうになっている人の空気だった。
「ハルクさん」
ユウトが声をかけた。
「前線って、どんな感じですか」
ハルクは少し考えた。
「うるさい」
「他には」
「暑い」
「今と同じですね」
「違う暑さだ」
それだけだった。
違う暑さ。
カナタはその言葉を覚えた。
第三方面前線拠点は、低い場所にあった。
地形の話ではない。
空気の話だ。
建物は土に押しつけられるように低く、土嚢は黒く、砲台は泥の中から生えていた。風が吹くと、草ではなく火薬の匂いが来る。油の匂いもある。焼けた鉄の匂いもある。鼻から入って、喉の奥でざらつく。
砲声が鳴った。
地面が揺れた。
ごほっ、ではなかった。
ずん。
腹の底を、内側から叩かれる。
ユウトが肩をすくめた。
「歓迎が重い」
「歓迎ではないと思います」
「じゃあ日常音ですか」
「嫌な日常ですね」
前線兵が近づいてきた。
泥のついた軍服。
片腕だけ袖をまくっている。
顔は疲れている。
でも、目だけがこちらを測っていた。
「ハウンド七か」
ガレスが答える。
「第七混成機動群、帰還誘導兵運用隊だ」
前線兵は一瞬だけ眉を上げた。
「帰す連中か」
「そういうことになった」
「なら、道を見ろ。俺たちは前を見る」
短い。
それだけ。
だが、馬鹿にしてはいなかった。
前線では、余計な言葉が長生きしないのかもしれない。
アイゼンの砲陣地へ案内された。
砲が並んでいる。
大きい。
黒い。
砲身には熱の揺らぎが見えた。
砲兵たちは黙って動く。
弾を運ぶ。
角度を合わせる。
撃つ。
反動。
土が跳ねる。
また弾を運ぶ。
それは戦闘というより、巨大な臓器の運動だった。
鉄と人間でできた、やたら重い心臓。
その横で、帰還誘導兵は灰色になった白線布を抱えている。
場違いだった。
でも、場違いなものほど必要になることがある。
カナタはこの数か月で、それを嫌というほど覚えた。
砲兵長が地図を広げた。
短髪の女性だった。
声が低い。
「後退時、ここが詰まる」
指が地図を叩く。
砲陣地。
弾薬集積所。
救護壕。
旧整備路。
車両待機地。
そこに赤線と青線が重なっている。
避難列より複雑だった。
人だけではない。
砲。
弾薬。
燃料。
担架。
通信線。
故障車。
全部が動く。
全部が詰まる。
カナタは一瞬、地図が大きくなったように感じた。
紙は同じ大きさなのに、そこに描かれたものだけが膨らんで、こちらへ迫ってくる。
「顔」
リゼが小さく言った。
「出てますか」
「地図に負けそうな顔」
「負けそうです」
「全部見る?」
「見たくなります」
「じゃあ、見ない」
リゼは地図を覗き込んだ。
「ヒナセは通信。マコトは手順。タクトは中央の荷物。ユウトは声。ミナは車。ハルクは右。セナは人。私は戻る場所」
赤布を軽く叩く。
「カナタさんは、まだ起きてない詰まりを見る」
簡単に言った。
簡単すぎて、少し腹が立つくらいだった。
でも正しかった。
全部を見るのではない。
まだ起きていない詰まりを見る。
未来の混乱の、輪郭だけを見る。
それが、今のカナタの仕事だった。
「弾薬車がここで止まります」
カナタは指を置いた。
坂の下。
「砲を先に下げると、弾薬車が待ちます。弾薬車が待つと、救護壕からの担架が回り込めない」
砲兵長が目を細める。
「なら?」
「弾薬車二台を先に抜きます。残りは砲の後ろではなく旧整備路へ。泥が深いので、グリッドに板を敷いてもらう必要があります」
近くの工兵が言った。
「板ならある」
「足りますか」
「足らせる」
ミナが小声で言った。
「工兵のそういう言い方、好き」
「分かります」
訓練が始まるはずだった。
いや、始まった。
最初の三分間だけは。
弾薬車が動く。
砲兵が車輪止めを外す。
救護壕から担架役が出る。
リゼが赤布を救護壕の入口に結ぶ。
ユウトが声を出す。
「弾薬車、右!担架は赤布!迷ったら止まらないで声を出してください!」
タクトが荷物の音を確認する。
ヒナセが通信をつなぐ。
マコトが手順を走って伝える。
ハルクが右側の泥濘に立つ。
そこに壁があるだけで、人の流れが少し曲がる。
カナタは地図と現場を見比べた。
まだ詰まっていない。
でも、旧整備路の入口に人が寄りすぎている。
十秒後に、そこで止まる。
「ユウト、旧整備路の入口を開けてください!」
「はい!」
ユウトが叫ぶ。
「入口、詰めない!そこは未来の渋滞です!」
「何だそれ!」
前線兵が怒鳴る。
「十秒後に分かります!」
「分かりたくねえ!」
少し笑いが起きた。
その笑いが消える前に、観測壕から警告が飛んだ。
「バスティオン接近!」
訓練の顔が剥がれた。
遠くの地平が動いた。
違う。
地平ではない。
黒い塊。
大きい。
四足。
前面が異様に厚い。
砲撃痕の重なった外殻が、真夏の空気の中で歪んで見える。
壁が歩いてくる。
ハルクの盾とは違う。
あれは、人を守る壁ではない。
押し潰すための壁だった。
「第二砲列、撃て!」
砲兵長が叫んだ。
砲声。
地面。
腹。
全部が一度に震える。
黒い巨体の前面で爆発が咲く。
煙。
土。
破片。
それでも、バスティオンは止まらない。
止まらないものは怖い。
人間は止まる。
怖ければ止まる。
迷えば止まる。
痛ければ止まる。
だから、止まらないものは人間ではない。
当たり前のことを、カナタはその時、妙にはっきり思った。
「後退路、生かせ!」
ガレスの声が飛ぶ。
カナタは地図を見る。
いや、地図では足りない。
現場を見る。
砲車。
弾薬車。
担架。
工兵。
兵士。
全部が一斉に動こうとしている。
前から押されて、後ろへ逃げる。
その流れは、すぐ壊れる。
速くしようとすると、壊れる。
「速度を上げないでください!」
カナタは叫んだ。
前線兵が振り返る。
「何だと!?」
「間隔を変えます!速度じゃなくて、間隔!」
言ってから、喉がひりついた。
火薬のせいか、声のせいか分からない。
「砲車はそのまま!弾薬車の後続は旧整備路!担架は赤布二番へ!」
「赤布二番!」
リゼが即座に動いた。
救護壕の入口から、旧整備路の角へ走る。
赤布を掲げる。
「こっちも帰れる!担架、こっち!詰めないで、帰ろう!」
帰ろう。
前線の砲声の下で、その言葉は妙に場違いだった。
だからこそ、届いた。
ユウトが叫ぶ。
「弾薬車、旧整備路!板の上!板から落ちたら車も人も負けます!」
ミナが怒鳴る。
「車はまだ負けてない!だから落とすな!」
タクトが中央で手を振る。
「箱は持ち替えて!音は今は気にしない!落とさないこと優先!」
ヒナセの通信。
『グリッド、旧整備路へ板追加!ブルーグラス、バスティオン進路共有!アイゼン、射線注意!』
マコトが走る。
「赤布二番、担架!弾薬車、旧整備路!繰り返します!」
ハルクが右側に立ち、盾で人の流れを止めないように曲げる。
壁が道になる。
前線の列が、壊れかけながら形を変えた。
砲声。
煙。
金属音。
怒鳴り声。
その中で、赤布が二つ揺れている。
戻る場所が二つある。
だから列は詰まらない。
第一砲列が抜けた。
弾薬車も抜けた。
担架も流れた。
バスティオンは、第二砲列の集中射撃で速度を落とした。
倒れてはいない。
だが、止まりかけている。
前線兵たちが叫ぶ。
砲兵長が次の指示を出す。
戦場は終わらない。
でも、後退路は生きていた。
カナタはやっと息を吐いた。
喉の奥に、火薬と鉄と草の味がした。
まずかった。
でも、生きている味だった。
訓練は、もう訓練ではなかった。
前線兵がカナタの横を通る時、短く言った。
「助かった」
それだけ。
前線式の礼。
豆で言えば、たぶん四粒くらいある。
帰りの三号車は、少し静かだった。
ユウトも豆の話をしない。
タクトは缶を押さえている。
ヒナセは通信機を抱えて目を閉じている。
ハルクは盾についた泥を見ている。
リゼは赤布を膝の上で畳んでいた。
煤で少し汚れている。
「前線、うるさいね」
リゼが言った。
「はい」
「でも、声は届いた」
「はい」
「じゃあ、次も届く」
カナタは窓の外を見た。
夏前の道。
草。
乾きかけた泥。
遠くの煙。
帰還誘導兵は、前へ行った。
そして帰ってきた。
ただ、それだけではなかった。
帰ってきた自分たちは、前より少し遠くを見ていた。
ハウンド七に戻ると、食堂の湯気はやはり弱かった。
豆は二粒。
市民。
でも、今日は少し重かった。
カナタは手袋を外した。
湿っている。
初夏なのに。
息を吹きかける。
温かくはならない。
ただ、火薬の匂いがした。
前線の匂いだった。




