表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/43

第四十二話 前へ行く仕事

 夏は、最初に匂いで来た。

 雪が消えたとか、泥が乾いたとか、洗濯物が凍らなくなったとか、そういう分かりやすい話ではなかった。

 朝、食堂の窓が少し開いていて、そこから入ってきた風に、草の匂いが混じっていた。

 青い匂い。

 湿った土の匂い。

 それから、油の匂い。

 ハウンド七の格納庫では、どんな季節でも油の匂いがする。冬はそれが冷たく、春は泥に負け、夏はやけに強くなる。鉄板が熱を持ち始めると、油は少し甘くなる。甘いと言っても菓子の匂いではない。鼻の奥に貼りついて、忘れた頃にまだいる、あまり性格のよくない甘さだった。

 カナタは食堂の隅で、椀を両手で持っていた。

 豆スープ。

 薄い。

 相変わらず薄い。

 冬の間は、湯気だけで少し許せた。白い湯気が上がっているだけで、味の薄さに言い訳ができた。けれど夏が近づくと、湯気はすぐほどける。すると椀の中身が、ただの薄い液体として正面からこちらを見てくる。

 かなりつらい。

「今日の豆、二粒」

 ユウトが言った。

 覗き込み方が、もう職人だった。

「市民ですね」

 タクトが答えた。

「市民生活、長いなあ」

「安定しているとも言えます」

「安定した貧しさ」

「言い方」

 リゼが笑った。

 彼女は食堂の窓際に座っていた。

 手首には赤い布。

 旧学校区から戻ってから、その赤は少し意味が変わった。

 待つための色ではなくなった。

 呼ぶための色になった。

 帰ってこい。

 帰ろう。

 本人はそこまで大げさに考えていないのかもしれない。けれど、赤布を巻き直す時の手つきが前より少し早くなっていた。見せるための位置に結ぶ。振った時に目立つように、結び目を少し外側へずらす。

 カナタはそういうところを見る。

 見えてしまう。

 豆の数より、手首の角度。

 椀の湯気より、人の息。

 席の空きより、出口までの距離。

 癖ではない。

 もう仕事だった。

 それが少し嫌だった。

 その時、食堂の入口にガレスが立った。

 火のつかない煙草。

 くたびれたコート。

 眠そうな目。

 いつもの三点セット。

 ただし、今日は少しだけ目が起きていた。

「前へ出る」

 食堂が、半拍遅れて静かになった。

 椀を置く音。

 誰かが咳を飲む音。

 開いた窓から入る草の匂い。

 全部が、その言葉の後ろへ下がった。

「前、ですか」

 カナタは訊いた。

「第三方面前線。補給支援と退避路確認。帰還誘導兵も同行する」

「避難列ではなく?」

「前線部隊だ」

 前線。

 その言葉は、ハウンド七の食堂にはあまり似合わなかった。

 ハウンド七にも戦争はある。

 レイスも来る。

 帰れなくなった列も来る。

 負傷者も、泣いている子供も、黙った老人も、火のつかない煙草もある。

 でも前線という言葉には、もっと別の重さがある。

 砲。

 鉄。

 土嚢。

 そこから下がることを考える前に、まずそこへ立たされる場所。

 カナタたちは、これまで帰る列を見てきた。

 前線は、その列が始まる前の場所だ。

「前線かあ」

 ユウトが椀を持ったまま言った。

「豆二粒で行く場所じゃないですね」

「豆四粒なら行くんですか」

 タクトが訊く。

「行きたくはないけど、心構えが違う」

「心構え、豆依存」

 リゼが言った。

「だめな思想だね」

「でも分かるでしょ」

「ちょっと分かる」

「分かるんだ」

 少しだけ笑いが起きた。

 その笑いは、すぐ消えた。

 ガレスが言う。

「アイゼン砲撃群、ブルーグラス観測班、グリッド工兵が出てる。こっちは後退路を見る。お前らの仕事だ」

「後退路」

 カナタは繰り返した。

 前へ出る仕事なのに、見るのは後ろ。

 帰還誘導兵らしいと言えば、かなりらしかった。


 三号車は東へ走った。

 夏前の道は、冬より広く見える。

 雪がない。

 白い壁もない。

 轍も凍っていない。

 道端には薄い緑が生え、壊れた防雪柵は季節外れの骨みたいに立っている。空は高いようで、どこか重い。雲の底が低く、日差しだけが中途半端に明るい。

 荷台には道具が積まれていた。

 白線布。

 赤布。

 黒札。

 確認棒。

 携行灯。

 医療袋。

 拡声器。

 静音布。

 乾パン。

 やけに乾パンが多い。

「乾パン、こんなに要ります?」

 マコトが言った。

「前線は腹が減る」

 ガレスが答える。

「副長が食べたいだけでは」

 ユウトが言う。

「お前の分を減らすぞ」

「必要です。前線は腹が減ります」

「早い」

 リゼが笑う。

 ハルクは黙って盾の留め具を確かめていた。

 帰還誘導兵に配属された、前線経験のある兵。

 彼はよく喋る方ではない。

 だが、前線という言葉が出てから、背中の空気が少し変わった。

 緊張ではない。

 懐かしさでもない。

 たぶん、戻る場所を間違えそうになっている人の空気だった。

「ハルクさん」

 ユウトが声をかけた。

「前線って、どんな感じですか」

 ハルクは少し考えた。

「うるさい」

「他には」

「暑い」

「今と同じですね」

「違う暑さだ」

 それだけだった。

 違う暑さ。

 カナタはその言葉を覚えた。


 第三方面前線拠点は、低い場所にあった。

 地形の話ではない。

 空気の話だ。

 建物は土に押しつけられるように低く、土嚢は黒く、砲台は泥の中から生えていた。風が吹くと、草ではなく火薬の匂いが来る。油の匂いもある。焼けた鉄の匂いもある。鼻から入って、喉の奥でざらつく。

 砲声が鳴った。

 地面が揺れた。

 ごほっ、ではなかった。

 ずん。

 腹の底を、内側から叩かれる。

 ユウトが肩をすくめた。

「歓迎が重い」

「歓迎ではないと思います」

「じゃあ日常音ですか」

「嫌な日常ですね」

 前線兵が近づいてきた。

 泥のついた軍服。

 片腕だけ袖をまくっている。

 顔は疲れている。

 でも、目だけがこちらを測っていた。

「ハウンド七か」

 ガレスが答える。

「第七混成機動群、帰還誘導兵運用隊だ」

 前線兵は一瞬だけ眉を上げた。

「帰す連中か」

「そういうことになった」

「なら、道を見ろ。俺たちは前を見る」

 短い。

 それだけ。

 だが、馬鹿にしてはいなかった。

 前線では、余計な言葉が長生きしないのかもしれない。


 アイゼンの砲陣地へ案内された。

 砲が並んでいる。

 大きい。

 黒い。

 砲身には熱の揺らぎが見えた。

 砲兵たちは黙って動く。

 弾を運ぶ。

 角度を合わせる。

 撃つ。

 反動。

 土が跳ねる。

 また弾を運ぶ。

 それは戦闘というより、巨大な臓器の運動だった。

 鉄と人間でできた、やたら重い心臓。

 その横で、帰還誘導兵は灰色になった白線布を抱えている。

 場違いだった。

 でも、場違いなものほど必要になることがある。

 カナタはこの数か月で、それを嫌というほど覚えた。

 砲兵長が地図を広げた。

 短髪の女性だった。

 声が低い。

「後退時、ここが詰まる」

 指が地図を叩く。

 砲陣地。

 弾薬集積所。

 救護壕。

 旧整備路。

 車両待機地。

 そこに赤線と青線が重なっている。

 避難列より複雑だった。

 人だけではない。

 砲。

 弾薬。

 燃料。

 担架。

 通信線。

 故障車。

 全部が動く。

 全部が詰まる。

 カナタは一瞬、地図が大きくなったように感じた。

 紙は同じ大きさなのに、そこに描かれたものだけが膨らんで、こちらへ迫ってくる。

「顔」

 リゼが小さく言った。

「出てますか」

「地図に負けそうな顔」

「負けそうです」

「全部見る?」

「見たくなります」

「じゃあ、見ない」

 リゼは地図を覗き込んだ。

「ヒナセは通信。マコトは手順。タクトは中央の荷物。ユウトは声。ミナは車。ハルクは右。セナは人。私は戻る場所」

 赤布を軽く叩く。

「カナタさんは、まだ起きてない詰まりを見る」

 簡単に言った。

 簡単すぎて、少し腹が立つくらいだった。

 でも正しかった。

 全部を見るのではない。

 まだ起きていない詰まりを見る。

 未来の混乱の、輪郭だけを見る。

 それが、今のカナタの仕事だった。

「弾薬車がここで止まります」

 カナタは指を置いた。

 坂の下。

「砲を先に下げると、弾薬車が待ちます。弾薬車が待つと、救護壕からの担架が回り込めない」

 砲兵長が目を細める。

「なら?」

「弾薬車二台を先に抜きます。残りは砲の後ろではなく旧整備路へ。泥が深いので、グリッドに板を敷いてもらう必要があります」

 近くの工兵が言った。

「板ならある」

「足りますか」

「足らせる」

 ミナが小声で言った。

「工兵のそういう言い方、好き」

「分かります」

 訓練が始まるはずだった。

 いや、始まった。

 最初の三分間だけは。

 弾薬車が動く。

 砲兵が車輪止めを外す。

 救護壕から担架役が出る。

 リゼが赤布を救護壕の入口に結ぶ。

 ユウトが声を出す。

「弾薬車、右!担架は赤布!迷ったら止まらないで声を出してください!」

 タクトが荷物の音を確認する。

 ヒナセが通信をつなぐ。

 マコトが手順を走って伝える。

 ハルクが右側の泥濘に立つ。

 そこに壁があるだけで、人の流れが少し曲がる。

 カナタは地図と現場を見比べた。

 まだ詰まっていない。

 でも、旧整備路の入口に人が寄りすぎている。

 十秒後に、そこで止まる。

「ユウト、旧整備路の入口を開けてください!」

「はい!」

 ユウトが叫ぶ。

「入口、詰めない!そこは未来の渋滞です!」

「何だそれ!」

 前線兵が怒鳴る。

「十秒後に分かります!」

「分かりたくねえ!」

 少し笑いが起きた。

 その笑いが消える前に、観測壕から警告が飛んだ。

「バスティオン接近!」

 訓練の顔が剥がれた。

 遠くの地平が動いた。

 違う。

 地平ではない。

 黒い塊。

 大きい。

 四足。

 前面が異様に厚い。

 砲撃痕の重なった外殻が、真夏の空気の中で歪んで見える。

 壁が歩いてくる。

 ハルクの盾とは違う。

 あれは、人を守る壁ではない。

 押し潰すための壁だった。

「第二砲列、撃て!」

 砲兵長が叫んだ。

 砲声。

 地面。

 腹。

 全部が一度に震える。

 黒い巨体の前面で爆発が咲く。

 煙。

 土。

 破片。

 それでも、バスティオンは止まらない。

 止まらないものは怖い。

 人間は止まる。

 怖ければ止まる。

 迷えば止まる。

 痛ければ止まる。

 だから、止まらないものは人間ではない。

 当たり前のことを、カナタはその時、妙にはっきり思った。

「後退路、生かせ!」

 ガレスの声が飛ぶ。

 カナタは地図を見る。

 いや、地図では足りない。

 現場を見る。

 砲車。

 弾薬車。

 担架。

 工兵。

 兵士。

 全部が一斉に動こうとしている。

 前から押されて、後ろへ逃げる。

 その流れは、すぐ壊れる。

 速くしようとすると、壊れる。

「速度を上げないでください!」

 カナタは叫んだ。

 前線兵が振り返る。

「何だと!?」

「間隔を変えます!速度じゃなくて、間隔!」

 言ってから、喉がひりついた。

 火薬のせいか、声のせいか分からない。

「砲車はそのまま!弾薬車の後続は旧整備路!担架は赤布二番へ!」

「赤布二番!」

 リゼが即座に動いた。

 救護壕の入口から、旧整備路の角へ走る。

 赤布を掲げる。

「こっちも帰れる!担架、こっち!詰めないで、帰ろう!」

 帰ろう。

 前線の砲声の下で、その言葉は妙に場違いだった。

 だからこそ、届いた。

 ユウトが叫ぶ。

「弾薬車、旧整備路!板の上!板から落ちたら車も人も負けます!」

 ミナが怒鳴る。

「車はまだ負けてない!だから落とすな!」

 タクトが中央で手を振る。

「箱は持ち替えて!音は今は気にしない!落とさないこと優先!」

 ヒナセの通信。

『グリッド、旧整備路へ板追加!ブルーグラス、バスティオン進路共有!アイゼン、射線注意!』

 マコトが走る。

「赤布二番、担架!弾薬車、旧整備路!繰り返します!」

 ハルクが右側に立ち、盾で人の流れを止めないように曲げる。

 壁が道になる。

 前線の列が、壊れかけながら形を変えた。

 砲声。

 煙。

 金属音。

 怒鳴り声。

 その中で、赤布が二つ揺れている。

 戻る場所が二つある。

 だから列は詰まらない。

 第一砲列が抜けた。

 弾薬車も抜けた。

 担架も流れた。

 バスティオンは、第二砲列の集中射撃で速度を落とした。

 倒れてはいない。

 だが、止まりかけている。

 前線兵たちが叫ぶ。

 砲兵長が次の指示を出す。

 戦場は終わらない。

 でも、後退路は生きていた。

 カナタはやっと息を吐いた。

 喉の奥に、火薬と鉄と草の味がした。

 まずかった。

 でも、生きている味だった。

 訓練は、もう訓練ではなかった。

 前線兵がカナタの横を通る時、短く言った。

「助かった」

 それだけ。

 前線式の礼。

 豆で言えば、たぶん四粒くらいある。


 帰りの三号車は、少し静かだった。

 ユウトも豆の話をしない。

 タクトは缶を押さえている。

 ヒナセは通信機を抱えて目を閉じている。

 ハルクは盾についた泥を見ている。

 リゼは赤布を膝の上で畳んでいた。

 煤で少し汚れている。

「前線、うるさいね」

 リゼが言った。

「はい」

「でも、声は届いた」

「はい」

「じゃあ、次も届く」

 カナタは窓の外を見た。

 夏前の道。

 草。

 乾きかけた泥。

 遠くの煙。

 帰還誘導兵は、前へ行った。

 そして帰ってきた。

 ただ、それだけではなかった。

 帰ってきた自分たちは、前より少し遠くを見ていた。

 ハウンド七に戻ると、食堂の湯気はやはり弱かった。

 豆は二粒。

 市民。

 でも、今日は少し重かった。

 カナタは手袋を外した。

 湿っている。

 初夏なのに。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 ただ、火薬の匂いがした。

 前線の匂いだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ