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第四十一話 春の終わり

 春の終わりは、はっきりしない。

 雪が消えたら春だと思っていた。

 泥が乾いたら春だと思っていた。

 草が伸びて、洗濯物が凍らなくなって、手袋が少しだけ乾きやすくなったら、春が勝ったのだと思っていた。

 でも実際には、春はいつの間にか薄くなっていく。

 朝の空気が少し重くなる。

 食堂の湯気が前より目立たなくなる。

 泥の匂いの奥に、湿った草の匂いが混ざる。

 昼になると、格納庫の屋根がじんわり熱を持つ。

 そして誰かが、暑い、と言う。

 その時にはもう、春は半分いなくなっている。

 ハウンド七の食堂では、朝から窓が少しだけ開いていた。

 冬の間は考えられなかったことだった。

 開けると寒い。

 開けると雪が入る。

 開けると風が、スープの湯気を持っていく。

 それが、今日は開いている。

 外から湿った草と油の匂いが入ってくる。格納庫ではミナが三号車に説教している。遠くの洗濯ロープには、靴下がちゃんと布らしく揺れている。板みたいに凍っていない。

 それだけで、世界が少しだけ別のものになった気がした。

「春、終わるね」

 リゼが言った。

 帰ってきたもの置き場の前で、短いチョークを見ている。

 旧学校区から持ってきたチョーク。

 白くて、小さくて、少し欠けている。

 その横には、赤い手袋、黒札、優勝豆、紙片かえる、折れた確認棒、焦げた端子の欠片が並んでいる。

 変なものばかりだ。

 でも、全部帰ってきたものだった。

「暦では、まだ春かもしれません」

 カナタは言った。

「暦、ここに来たことある?」

「たぶんないです」

「じゃあ却下」

「強い」

 リゼはチョークを指先で軽く転がした。

 粉が少しつく。

 前なら、その粉を見て痛そうな顔をしたかもしれない。

 今日は、違った。

 懐かしそうで、少しだけ困ったような顔だった。

 戻ってきた顔。

 そう思った。

 全部ではない。

 それでも。

「豆、今日は三粒でした」

 ユウトが椀を持ってやってくる。

「貴族ですね」

 タクトが言う。

「はい。責任が重い」

「豆三粒の責任って何ですか」

 マコトが真面目に訊く。

「味わって飲むことです」

「記録します」

「しないでください」

 ユウトは慌てた。

 マコトは少しだけ笑った。

 以前より、笑うまでの時間が短くなった。

 カナタはそれに気づいて、少し安心した。

 人が回復する速度は、包帯を巻くより分かりにくい。

 笑うまでの間。

 椀を受け取る手の揺れ。

 豆を数える余裕。

 窓の外を見る時間。

 そういうものの中に、少しずつ出る。

 タクトは缶の布を替えていた。

 春用、と本人は言った。

 音が鳴らないことは同じだ。

 布の色が少し明るい。

 誰かの古いシャツを切ったものらしい。

「季節感あるね」

 リゼが言う。

「缶にも季節が必要かと思って」

 タクトは真面目に答えた。

「ミナさんの影響?」

「少し」

「危険だ」

 ミナが格納庫から顔を出した。

「何が危険?」

「機械側へ引き込まれてる」

「いいことじゃん」

「戻れなくなります」

「戻るための部隊で何言ってるの」

 その言葉に、食堂の何人かが笑った。

 ミナは工具箱を抱えたまま、満足そうに三号車の方へ戻っていった。

 今日は大きな任務がない。

 午前中は、帰還誘導班の点検日になった。

 白線布を干す。

 赤布のほつれを縫う。

 黒札の文字を書き直す。

 確認棒の赤印を塗り直す。

 医療袋の瓶を布で包み直す。

 ヒナセは拡声器の電池を確認する。

 ハルクは盾の裏に新しい取っ手をつけてもらっている。

 マコトは手順書を書いている。

 正式な書式ではない。

 でも、使う人間が読める。

 それが大事だった。

 表紙には、リゼが勝手にタイトルを書いた。

 《帰還誘導兵のだいたいのやつ》

 マコトは真剣に困った。

「だいたい、では困ります」

「でも全部じゃないでしょ」

「それはそうですが」

「じゃあ、だいたい」

「正式文書としては」

 ガレスが通りがかりに言った。

「正式じゃねぇからいい」

「いいんですか」

「使えるならな」

 マコトは少し考えて、表紙の下に小さく書き足した。

 《改訂予定》

 リゼがそれを見て頷く。

「強い」

「何がですか」

「だいたいのまま、更新できる感じ」

 カナタはその言葉を聞いて、手順書を見た。

 帰還誘導兵のだいたいのやつ。

 改訂予定。

 たぶん、それでよかった。

 完全な教本ではない。

 全部を見られる人間もいない。

 でも、見える場所を分けて、気づいたことを書き足して、失敗を手順にして、帰ってきたものに名前をつける。

 そうやって、少しずつ進む。

 正しいとは限らない。

 でも、更新できる。

 それはカナタが春に覚えたことだった。

 昼前、リゼが突然、食堂の中央に立った。

 手には赤い布。

 声は普通。

 旧学校区の放送室で聞いた時より近い。

「帰還誘導兵、集合」

 ユウトが椀を持ったまま立ち上がる。

「号令ですか」

「練習」

「何の」

「帰ってこいって言う練習」

 食堂が少し静かになった。

 リゼは続けた。

「今まで、赤布持って待ってることが多かったじゃん」

「はい」

 タクトが頷く。

「でも、待ってるだけだと見えない時がある」

 リゼは窓の外を見る。

 泥の道。

 格納庫。

 三号車。

 防雪柵だったもの。

「だから、呼ぶ」

 短い言葉だった。

 旧学校区で、彼女は自分へ言った。

 帰るよ。

 今度は、ここでみんなへ言おうとしている。

「帰ってこい」

 リゼは言った。

 大声ではない。

 でも、食堂の端まで届いた。

「帰ろう」

 もう一度。

 少しだけ違う。

 帰ってこい、は外へ向かう声。

 帰ろう、は一緒に動く声。

 リゼはその二つを、ちゃんと使い分けているように見えた。

「どう?」

 本人は、少し照れた顔で訊いた。

 ユウトが真面目に言う。

「豆四粒くらいです」

「分かりにくい」

「かなり高評価です」

 タクトが頷く。

「聞こえました」

 ヒナセも言う。

「拡声器なしでも、近距離なら十分です」

 マコトは手順書に書いた。

 《帰ってこい/帰ろう。使い分け》

 リゼがそれを見て、少し恥ずかしそうにする。

「記録されると照れるね」

「大事なので」

「大事か」

「はい」

 ハルクが短く言った。

「届く」

 それだけだった。

 でも、リゼは少し嬉しそうだった。

 午後、ハウンド七に前線部隊が戻ってきた。

 一時休整のためだという。

 泥をかぶった装甲車。

 砲身に黒い焼け跡。

 降りてくる兵士たちは、帰還誘導班とは違う匂いがした。

 火薬。

 金属。

 焦げた布。

 前線の匂い。

 その中の一人が、ハルクを見つけて手を上げた。

「おい、壁」

 ハルクは無表情に返す。

「人だ」

「まだ言ってんのか」

「事実だ」

 兵士は笑った。

 前線部隊の笑い方だった。

 少し荒くて、少し乾いている。

 彼らが戦っているレイスは、帰還誘導班が見る小型とは違うらしい。

 大きい。

 硬い。

 正面から来る。

 砲撃を受けても進む。

 列を崩すのではなく、戦線を押す。

 ユウトがそれを聞いて、少し顔を引きつらせた。

「こっちの小型も嫌ですけど、大型も嫌ですね」

 前線兵が笑う。

「どっちも嫌だろ」

「それはそう」

 リゼは黙って話を聞いていた。

 カナタも聞いていた。

 夏。

 その言葉が、誰も言っていないのに、話の奥にあった。

 前線が押される。

 避難列が増える。

 帰還誘導兵は、いつか前線の近くへ出る。

 それはもう、予感ではなく予定に近かった。

 夕方、通信塔のスピーカーが鳴った。

 定時連絡。

 アイラの声。

『各避難列、異常なし』

 いつもの言葉。

 食堂に、ほっとした息が広がる。

 だが、その後に短い追加があった。

『前線第三方面、夏季撤退計画の事前調整開始』

 食堂の空気が変わった。

 夏季。

 撤退。

 計画。

 春の終わりに、夏の言葉が入ってきた。

 湯気の少ない食堂で、その言葉だけが妙にはっきり聞こえた。

 ガレスが煙草を咥える。

 火はつけない。

「来るな」

 短く言った。

 誰も、何がとは訊かなかった。

 夏が来る。

 大きな撤退が来る。

 前線部隊が戦っているレイスが、こちらの列にも近づく。

 帰還誘導兵は、もう拠点の周りだけでは済まない。

 カナタは手順書を見た。

 《帰還誘導兵のだいたいのやつ》

 《改訂予定》

 まだ薄い。

 足りない。

 でも、白紙ではない。

 春で拾ったものが、そこにある。

 赤い布。

 白線。

 黒札。

 声の線。

 止まる場所。

 帰ってこい。

 帰ろう。

 リゼが隣に立った。

「夏、来るね」

「はい」

「暑いの苦手」

「俺もです」

「でも、行くんだよね」

「たぶん」

「たぶんで十分」

 リゼは笑った。

 その笑い方は、旧学校区へ行く前とは違っていた。

 待っているだけではない。

 呼ぶ人の顔だった。

 食堂の窓には、結露がほとんどなかった。

 文字が書きにくい。

 リゼは少し困った顔をして、それでも指で窓をなぞった。

 薄く、ほとんど見えない線。

 《帰ろう》

 春の終わりの窓には、文字が残りにくい。

 でも、そこにあった。

 カナタは手袋を見る。

 今日は少し乾いている。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 でも、あまり湿らなかった。

「悪化してない」

 思わず呟いた。

 ユウトがすぐ振り返る。

「春の勝利ですね」

「手袋の話です」

「文化です」

「責任を文化にしないでください」

 小さな笑いが起きた。

 その笑いの向こうで、前線部隊の装甲車が格納庫へ入っていく。

 遠くの空は、少しだけ青かった。

 春が終わる。

 そして、帰還誘導兵の線は、もっと遠くへ伸びる。

 まだ誰も、その線の先を知らない。

 でも、今はもう、ひとりで全部を見る必要はなかった。

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