第二十五話 帰った後の話
ハウンド七には、洗濯日というものがあった。
正確には、洗濯できる日だった。
水がある。
燃料が少しある。
敵襲警報が鳴っていない。
その三つが重なると、誰かが勝手に洗濯日と呼ぶ。正式な予定表には載っていない。載せたところで、その通りになったことがないからだ。
朝、食堂の裏手に張られたロープには、手袋と靴下と包帯と、種類の分からない布がずらりと並んでいた。
雪の中で洗濯物を干すのは、かなり矛盾している。
乾くのか、凍るのか。
答えは両方だった。
洗濯物はまず凍って、それから少しだけ乾く。布は板みたいに硬くなり、風が吹くと、かたかた鳴った。まるで、小さな防雪柵が大量に並んでいるみたいだった。
「これ、乾いてます?」
ユウトが自分の靴下をつまみ上げた。
硬い。
まっすぐ立ちそうだった。
「立つくらいには」
カナタが答える。
「靴下って立つものでしたっけ」
「戦時規格かもしれません」
「嫌な規格」
タクトは隣で、空のオレンジソーダ缶を布から外していた。
洗濯ではない。
布を替えるらしい。
古い布は油と雪で固くなっていた。ミナが整備用のきれいな布をくれたのだという。
「缶も衣替え?」
ユウトが訊く。
「防音材の交換です」
「言い方が専門的になってきた」
ミナが格納庫側から顔を出す。
「いい傾向」
「整備兵に近づいてます?」
「半歩くらい」
「近いのか遠いのか」
「近づくと戻れないよ」
「怖い勧誘ですね」
タクトは缶に新しい布を巻いた。
指先が少し赤い。
でも、その手つきは前よりずっと慣れていた。
巻く。
押さえる。
結ぶ。
揺らす。
音はしない。
タクトは小さく頷いた。
点呼みたいだった。
カナタはその動きを見ながら、自分の手袋を洗濯ロープにかけた。
湿っている。
いつも湿っている。
雪と汗と、金属の冷たさと、誰かの肩を掴んだ時の体温が染みている気がする。
洗っても、完全には落ちない。
そういうものが、たぶん増えていく。
食堂では、朝から妙な張り紙が増えていた。
《洗濯物の盗難禁止》
その下に、小さく追記。
《ただし靴下は間違えやすいので名前を書くこと》
さらにその下。
《ユウト、他人の靴下を戦利品と言わない》
「名指しが増えてる」
リゼが言った。
今日は医療棟から正式に外出許可が出ていた。
十五分だけ。
セナの監視つきで。
患者服の上に軍用コート、首には白いタオル。声はまだ少しかすれている。無理に喋るなと言われているのに、本人は「声帯のリハビリ」と言って普通に喋る。
「俺は靴下を戦利品とは言ってません」
ユウトが抗議した。
「何て言ったの」
「敵性布片」
「だめだよ」
「ですよね」
リゼは笑って、少し咳をした。
セナがすぐに見る。
「今のは」
「笑いです」
「笑いも制限」
「人権」
「声帯優先」
リゼは口を尖らせた。
それから、食堂の窓を見た。
そこには、いくつかの落書きがまだ残っている。
赤い手袋。
空き缶。
矢印。
ラジカセ。
下手な絵ばかりだった。
でも、誰も消さなかった。
グラーヴは描かれていない。
誰も描こうとしなかった。
代わりに、ラジカセの下には《鳴らないけど帰った》と書いてある。
リゼはそれを見て、少し目を細めた。
「増えたね」
「帰ってきた変なもの展ですから」
ユウトが胸を張る。
「入場料は?」
「豆一粒」
「高い」
「貴重品です」
カナタは窓の落書きを見た。
変なもの。
帰ってきたもの。
持ち主がいるもの。
借り物だったもの。
捨てなかったもの。
そこに描かれているのは、勝利の記録ではない。
帰還の残骸だった。
でも、それでよかった。
勝利は大きすぎる。
残骸くらいの方が、手で触れる。
昼前、ハウンド七は本当に静かだった。
警報が鳴らない。
車両は整備中。
医療棟では軽傷者の包帯交換。
食堂では昼の仕込み。
格納庫ではミナが三号車に説教している。
全部、戦争の中の音だった。
でも今日は、戦闘の音ではなかった。
カナタは拠点の端を歩いた。
雪を踏む。
きゅっ、と音がする。
防雪柵の向こうに、白い道が伸びている。
そこを見ていると、どうしても考えてしまう。
どこで詰まるか。
どこで折れるか。
どこに目印を置くか。
どの車両を先に通すか。
どの荷物を置くか。
今日は出撃がない。
なのに、頭の中では列が動いている。
帰ってきた後なのに、まだ帰り道を探している。
「カナタさん」
後ろから声がした。
リゼだった。
監視役のセナはいない。
いや、少し遠くにいた。
見ている。
すごく見ている。
「外出許可、十五分では」
「残り三分」
「戻った方が」
「三分ある」
リゼは隣に立った。
白い息を吐く。
声はまだ少し掠れている。
それでも、喋る。
「最近、豆数えないね」
カナタは少し驚いた。
「数えてます」
「前より遅い」
「豆数えにも速度評価があるんですか」
「ある」
「厳しい」
「前はもっと早かった。配給受け取った瞬間、目が豆を探してた」
「そんなに?」
「うん。豆ハンターだった」
「嫌な称号ですね」
リゼは防雪柵の向こうを見た。
「ちゃんと帰ってきてる?」
リゼは急にそう訊いた。
風の音が少し大きくなる。
カナタはすぐに答えられなかった。
帰ってきている。
体は。
ここにいる。
食堂でスープを飲んだ。
洗濯もした。
手袋も干した。
でも、頭の中のどこかはまだ雪原にある。
置いてきた牽引車。
潰れた金属音。
ハウラーの低い音。
見えなくなった列。
ベルグの脚。
食料車のエンジン。
全部がまだ、帰ってきていない。
「分かりません」
カナタは言った。
リゼは少しだけ頷いた。
「そっか」
「リゼさんは?」
「私は、半分くらい」
「半分」
「学校の方に半分残ってる」
彼女はポケットから軍手を出した。
灰色になった軍手。
何度も濡れて、何度も乾きかけて、まだ少し湿っている。
「でも、これがあるから、全部置いてきたわけじゃない」
カナタは軍手を見た。
小さな、役に立たないもの。
でも、持っていると少しだけ戻れるもの。
「カナタさんも、何か持ってる?」
「手袋なら」
「それ、湿ってるだけじゃん」
「ひどい」
「でも、そういうのでもいいんじゃない」
リゼは笑った。
「湿った手袋の人」
「嫌な異名ですね」
「帰還誘導兵より先に流行るかも」
その言葉で、カナタはリゼを見た。
「今、何て」
「ん?」
「帰還誘導兵」
「あ、言った」
リゼは少し考えた。
「なんか、みんな言いかけてるじゃん。帰す人、とか、誘導、とか、列を作る、とか。まとめるとそんな感じかなって」
軽い。
とても軽い言い方だった。
でも、胸の奥に残った。
帰還誘導兵。
まだ正式なものではない。
ただの思いつき。
患者服の少女が、外出許可の残り三分で言っただけの言葉。
でも、名前になる前の名前みたいだった。
「変?」
リゼが訊く。
「いえ」
「じゃあ採用?」
「まだ早いです」
「厳しい」
「補習です」
「それ最近便利に使ってない?」
カナタは少しだけ笑った。
久しぶりに、自分で笑った気がした。
リゼもそれを見て、満足そうに頷く。
「一分延長」
「誰の許可で」
「雰囲気の権限」
遠くでセナが言った。
「却下」
リゼは肩を落とした。
「強い」
午後、食堂では靴乾燥大会が始まった。
大会と言っても、誰の靴が一番乾かないかを競うだけだ。
意味はない。
でも、意味がないことをやる時間は重要だった。
ユウトの靴は、なぜか片方だけ異常に濡れていた。
「何したの」
リゼが訊く。
「片足だけ戦場に残してきたのかも」
「怖いことを軽く言わないで」
「すみません」
タクトは缶の新しい布を見せていた。
ミナが評価する。
「八点」
「十点満点ですか」
「十二点満点」
「独自規格」
「まだ甘い。結び目が少し鳴る」
タクトは真剣に結び直す。
その横で、セナが包帯を畳んでいる。
速い。
美しい。
ユウトがそれを見て言った。
「セナさん、包帯畳み選手権あったら勝てますよ」
「出ない」
「なぜ」
「忙しい」
「ですよね」
くだらない。
本当にくだらない。
でも、そのくだらなさが食堂を温めていた。
カナタは窓際に座って、スープを飲んだ。
豆は二粒。
湯気は細い。
でも今日は、味がした。
薄い。
ちゃんと薄い。
それが分かった。
分かるくらいには、少し帰ってきているのかもしれない。
夕方、通信塔のスピーカーが一度だけ鳴った。
全員が顔を上げる。
反射だった。
でも警報ではなかった。
アイラの声が流れる。
『定時連絡。各避難列、異常なし』
食堂がしばらく黙った。
それから、ユウトが小さく言った。
「異常なしって、いい言葉ですね」
誰も笑わなかった。
でも、誰かが息を吐いた。
ストーブが鳴る。
洗濯物が外で凍っている。
靴はまだ乾かない。
リゼは医療棟へ戻される。
タクトの缶は鳴らない。
ミナは三号車に謝罪を要求している。
セナは怒っている。
ガレスはどこかで寝ている。
カナタは豆を数えた。
二粒。
間違いない。
今日は、それでよかった。
帰った後にも、やることはある。
洗濯。
靴乾燥。
包帯畳み。
豆を数えること。
そして、自分がまだここにいるかを、少しずつ確かめること。
戦争は終わっていない。
明日また、どこかの列が消えるかもしれない。
でも今日は、異常なしだった。
その言葉だけで、食堂の湯気はいつもより長く見えた。




