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第二十四話 熱源

 その朝、食堂の窓には落書きが三つ並んでいた。

 赤い手袋。

 空き缶。

 矢印。

 どれも下手だった。

 手袋はカニに見えるし、缶は太鼓に見えるし、矢印は魚の骨みたいだった。それでも、誰も消さなかった。窓ガラスの結露に指で描いただけのものだから、放っておけばそのうち勝手に滲んで消える。だからこそ、今朝はまだ残っている、というだけで少し得をした気分になった。

 ユウトはその下に、新しい文字を書き足していた。

 《帰ってきた変なもの展》

「正式採用です」

 ユウトが言った。

「誰の許可で」

 カナタが訊く。

「リゼさんの命名なので」

「権限あります?」

「雰囲気の権限が」

 リゼは食堂の隅で、毛布にくるまったまま親指を立てた。

 喉はまだ少し悪い。

 声を出すなとセナに言われているので、今日はジェスチャーで会話している。本人いわく「無言でも存在感は出せる」らしい。

 たしかに出ていた。

 すごくうるさい無言だった。

「リゼさん、いま何点ですか」

 タクトが訊く。

 リゼは指を四本立てた。

「四点?」

 リゼは首を振る。

 四本の指を、椀へ向ける。

「豆四粒?」

 頷く。

「今日、二粒ですよ」

 リゼは目を閉じた。

 悲しそうだった。

「声を出せないとリアクションが演劇的ですね」

 ユウトが言った。

 セナが後ろから低く言う。

「喋らないだけまし」

 リゼは胸に手を当て、深く一礼した。

「褒めてない」

 食堂に笑いが起きた。

 朝の笑い。

 弱いけれど、ちゃんと温度がある。

 カナタはスープを飲んだ。

 豆は二粒。

 湯気は細い。

 食料車が帰ってきても、毎日四粒になるわけではない。現実はそこまで優しくない。だが、二粒でも以前より悪くないと思えるくらいには、人間の基準は簡単に更新される。

 それが良いことなのか、悪いことなのかは分からない。

 ただ、温かかった。

 その時、食堂の床が、ほんの少しだけ震えた。

 誰かが椅子を引いたのかと思った。

 違った。

 ストーブの火が一瞬だけ揺れる。

 椀の湯気が横へ流れる。

 窓の落書きが、結露の滴で少し崩れた。

 次に、遠くで低い音がした。

 雷ではない。

 砲声でもない。

 もっと鈍い。

 地面の下で、大きなものが寝返りを打ったような音。

 食堂の笑いが止まった。

 アイラの声が通信塔から流れた。

『南西路、熱源反応』

 短いノイズ。

『大型。移動中』

 ガレスが入口に現れた。

 今日は煙草を咥えていなかった。

 それだけで、少し嫌な感じがした。

「グラーヴだ」

 その名前で、食堂の空気が重くなった。

 グラーヴ。

 大型レイス。

 黒い建築物みたいな個体。

 歩くだけで道を壊し、防雪柵を潰し、雪を沈め、車両を動けなくする。倒す相手ではない。避ける相手。戦うというより、天候に近い。

 吹雪。

 崖崩れ。

 洪水。

 その黒い版。

「避難列は」

 カナタが訊いた。

「南西路に民間列が一本。動きが遅い」

「接触まで」

「早くて四十分」

 四十分。

 長いようで短い。

 短いようで、いろいろ諦めるには長すぎる。

 ガレスが言う。

「第七、出るぞ」

 ミナが工具箱を閉じた。

 タクトが缶を押さえる。

 ユウトが窓の落書きを見た。

「今日は何を描くことになりますかね」

「帰ってから考えてください」

 カナタは言った。

 リゼが立ち上がろうとした。

 セナが肩を押さえる。

「あなたは留守番」

 リゼは無言で抗議した。

 両手を広げる。

 赤い手袋の形を作る。

 目印係、という主張らしい。

「今日は目印より喉」

 リゼは不満そうに眉を寄せた。

 セナは少しだけ表情を緩めた。

「戻ったら、何描いたか教える」

 リゼは少し考えてから頷いた。

 そして、指で大きな丸を作った。

「豆?」

 ユウトが訊く。

 リゼは首を振る。

 両手で大きく丸。

 さらに大きく。

「グラーヴ?」

 カナタが言うと、リゼは頷いた。

 それから、両手でばってんを作った。

「描きたくない、ですか」

 頷く。

 そうだと思った。

 窓に描いて笑えるものと、描いたら笑えないものがある。

 グラーヴは、たぶん後者だった。


 南西路へ向かう車内は、いつもより静かだった。

 ハウラーの時の静けさとは違う。

 声が奪われたわけではない。

 みんな、自分の声を少し節約している。

 大型反応。

 グラーヴ。

 それだけで、言葉が重くなる。

「大きいんですよね」

 タクトが言った。

「大きい」

 ミナが運転しながら答える。

「どれくらいですか」

「建物」

「建物が歩くんですか」

「そう」

「建物って、歩いちゃだめでは」

「だめだよ。だから嫌い」

 ユウトが膝の小銃を見る。

「撃って倒せる感じでは」

「ない」

 ガレスが言った。

「撃つなら進路を変えるためだ。倒すことは考えるな」

「了解です」

 ユウトは素直に頷いた。

 以前なら、もう少し冗談を挟んだかもしれない。

 でも今日は挟まない。

 それが逆に怖かった。

 カナタは窓の外を見た。

 雪原。

 防雪柵。

 灰色の空。

 南西へ行くほど、地面の震えが少しずつ強くなっていく。

 足元からではなく、胸の中から揺さぶられているような感じだった。

 やがて、民間列が見えた。

 小型バス二台。

 牽引車一台。

 徒歩の人間、二十人ほど。

 列は遅い。

 だが、まだ崩れてはいない。

 問題は、その右側だった。

 遠くの雪の向こうに、黒い影があった。

 最初は岩かと思った。

 次に、建物かと思った。

 その次に、それが動いていることに気づいた。

 グラーヴ。

 巨大だった。

 多脚。

 黒い塊。

 雪の上を歩いているのに、沈まないのではない。沈ませながら進んでいる。歩いた後の地面が、低く潰れている。防雪柵が一本、ただの棒みたいに曲がった。

 音が遅れて届く。

 ずん。

 ずん。

 ずん。

 それだけで、人間の列が乱れ始めた。

 誰も襲われていない。

 まだ遠い。

 なのに、列が遅くなる。

 グラーヴは、近づくだけで列を壊す。

「距離」

 ガレスが訊く。

 アイラの通信が返る。

『民間列接触予測、二十三分』

「回避路は」

『左に旧農道。ただし雪深い。車両二台まで。牽引車は厳しい』

 カナタは地図を見る。

 民間列。

 旧農道。

 牽引車。

 徒歩組。

 グラーヴの進路。

 全部は通れない。

 全車両は無理。

 牽引車は遅すぎる。

 置けば、荷物が残る。

 残せば、誰かが取りに戻ろうとする。

 戻れば、列が割れる。

「牽引車を捨てます」

 カナタは言った。

 車内が静かになった。

 タクトが息を呑む。

 ミナがハンドルを握る手を少し強くする。

「中身は」

「降ろせる分だけ。残りは置きます」

「車も?」

「はい」

 ミナは一瞬だけ黙った。

 車を置くことを嫌う人だ。

 車に謝れと言う人だ。

 でも、彼女はすぐに頷いた。

「分かった。謝る時間は?」

「三十秒」

「短い」

「すみません」

「あとで長めに謝る」

 ユウトが小さく言った。

「謝罪も分割払い」

「黙って働け、豆二粒」

「今日は全員だいたい二粒です」

 少しだけ笑いが戻った。

 その笑いはすぐ消える。

 でも、十分だった。

 民間列へ到着すると、混乱はもう始まっていた。

 人々はグラーヴを見ている。

 歩いているだけの黒い建物。

 それが近づいてくる。

 逃げなければならない。

 でも、何を置くのか分からない。

 荷物。

 牽引車。

 毛布。

 食料。

 誰かの椅子。

 車椅子。

 子供の袋。

 全部が必要そうに見える。

 カナタは声を上げた。

「旧農道へ移ります!歩ける人は左!荷物は一つ!牽引車はここで放棄します!」

「放棄!?」

 老人が叫んだ。

「この車には――」

「降ろせるものだけ降ろします!」

「全部は?」

「無理です!」

 その言葉は、雪原にまっすぐ落ちた。

 無理です。

 言ってしまった。

 カナタ自身、少し驚いた。

 いつもなら別の言い方をしたかもしれない。

 でも、今日は時間がない。

 グラーヴは待たない。

 説得も、理解も、納得も、全部を待たない。

「全部は守れません!」

 カナタは続けた。

「でも、命は守ります!動いてください!」

 人々が動き出す。

 完全ではない。

 怒っている人もいる。

 泣いている人もいる。

 でも動く。

 ユウトが旧農道の入口へ走る。

「こっち!左!足元深いです!走ると埋まります!」

 タクトが中央に入る。

「荷物、鳴るものは布!手が空いてない人は一つ置いてください!」

 セナが車椅子の老人を小型バスへ移す。

「歩けるって言わない。今日は言わせない」

「まだ何も」

「顔」

 ミナは牽引車の荷台を開ける。

「降ろせるものだけ!三十秒!」

「短い!」

「グラーヴに言って!」

 荷物が雪の上へ降ろされる。

 毛布。

 水箱。

 小さな木箱。

 古いラジカセ。

 誰かがラジカセを抱えようとして、ミナが止めた。

「それ鳴る?」

「壊れてる」

「軽い?」

「軽い」

「じゃあ持って走れ」

 カナタが驚いて見る。

 ミナは叫んだ。

「役に立たないものも一個は許可!ただし軽いやつ!」

 それで少しだけ、人の手が動いた。

 全部は持てない。

 でも、何もかも捨てなくていい。

 その線引きが、人を動かす。

 グラーヴが近づく。

 ずん。

 ずん。

 地面が揺れる。

 牽引車の窓が震える。

 子供が泣く。

 ハウラーのように声を奪うわけではない。

 ただ大きい。

 ただ来る。

 それだけで、声が勝手に小さくなる。

 ガレスの車両が右側へ出た。

 機銃を撃つ。

 弾はグラーヴの外殻に弾かれる。

 倒せない。

 だが、黒い巨体の進路がほんの少しだけずれる。

「撃つな、怒らせるな、でもこっち見るな!」

 ユウトが叫ぶ。

「指示が難しい!」

 アイゼン・ウォールなら砲台を置いただろう。

 グレイハウンドなら突破を試みただろう。

 第七は違う。

 倒さない。

 止めない。

 ただ、列を横へ逃がす。

 それが今日の勝ち方だった。

 最後の徒歩組が旧農道へ入った。

 小型バスが続く。

 牽引車は残る。

 ミナが牽引車のボンネットに手を置いた。

「ごめん。長めは後で」

 それだけ言って離れる。

 グラーヴが近づく。

 その影が、牽引車を覆う。

 カナタは見ないようにした。

 でも、音は聞こえた。

 金属が潰れる音。

 木箱が割れる音。

 誰かが息を呑む音。

 列は止まらない。

 止まったら、牽引車を見てしまう。

 見たら、戻りたくなる。

 戻れば、終わる。

「止まらないでください!」

 カナタは叫んだ。

「後で泣いてください!今は歩いてください!」

 その言葉に、タクトが一瞬こちらを見た。

 それから頷いて、同じように叫ぶ。

「後で泣きます!今は歩きます!」

 ユウトも叫んだ。

「泣く場所まで行きます!」

 変な言葉だった。

 でも、効いた。

 人々が歩く。

 泣きながら。

 怒りながら。

 荷物を抱えながら。

 ラジカセを抱えた人も歩いている。

 旧農道は雪が深く、車輪が何度も取られた。

 ミナが三号車を無理やり押し込む。

「三号車、今日は謝る側じゃなくて謝られる側だからね!」

「誰に説明してるんですか!」

「車に!」

 グラーヴは横を通過していった。

 巨大な黒い影。

 こちらを見たのかどうかも分からない。

 ただ歩き、雪を潰し、牽引車のあった場所を平らにしていく。

 誰も勝っていない。

 誰も倒していない。

 ただ、避けた。

 それだけだった。

 それでも列は残った。


 安全圏に入った時、民間列の人々はほとんど声を出さなかった。

 泣いている人はいた。

 怒っている人もいた。

 でも、列は帰った。

 ミナは三号車の横で、黒くなった手袋を見ていた。

「牽引車、潰れた」

「はい」

 カナタは言った。

「でも、人は帰りました」

「うん」

 ミナは頷いた。

「それ、分かってる。分かってるけど、嫌」

「はい」

「嫌なままにしとく」

「はい」

 タクトが近くで、ラジカセを抱えた人と話していた。

 壊れていると思っていたラジカセは、本当に壊れているらしい。

 でも、持ち主はそれを抱えていた。

 軽いから。

 鳴らないから。

 そして、たぶん持って帰りたかったから。

 ハウンド七へ戻る頃には、夕方だった。

 食堂の窓の落書きは、少し滲んでいた。

 リゼが待っていた。

 声を出せないまま、こちらを見る。

 ユウトは窓に新しい絵を描こうとして、手を止めた。

「描きません」

 リゼが頷いた。

 グラーヴは描かない。

 描いて笑えるものではない。

 代わりに、ユウトは小さなラジカセを描いた。

 下手だった。

 でも、ラジカセだと分かるくらいには描けていた。

 その下に、こう書いた。

 《鳴らないけど帰った》

 リゼがそれを見て、少し笑った。

 声は出さなかった。

 カナタは食堂の湯気を見た。

 今日、全部は守れなかった。

 牽引車は帰らなかった。

 荷物もいくつか帰らなかった。

 誰かの何かは、黒い影の足元で潰れた。

 でも、人は帰った。

 壊れたラジカセも帰った。

 そのことを、勝利と呼ぶには軽すぎる。

 敗北と呼ぶには、帰ってきた息が温かすぎる。

 だから、今はただスープを飲むことにした。

 豆は二粒だった。

 ちゃんと、湯気が上がっていた。

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