第七章 「蓋が外れる」
一月の半ば、日曜日だった。
紗江から連絡が来たのは昼過ぎで、「今日、時間ありますか」とだけ書いてあった。
燈は「あります」と返した。
それだけで、どこで、何時に、という話が始まった。
十二月の図書館の日から、こういうやり取りが自然になっていた。
待ち合わせは、川沿いの小さな公園だった。
紗江が指定した場所で、燈は来たことがなかった。
行ってみると、人が少なかった。
一月の川沿いは風が冷たく、散歩には向かない。
それでも何人かが犬を連れて歩いていた。
紗江はベンチに先に来ていて、川の方を向いて座っていた。
「ここ、よく来るんですか」と燈は言った。
「たまに。考えたい時に」
「何か考えていましたか」
「少し」と紗江は言った。
それ以上は言わなかった。
燈は隣に座った。
川が、低い音を立てて流れていた。
しばらく、何も話さなかった。
燈は川を見ていた。
水が光を受けて、細かく揺れていた。
紗江も川を見ていた。
二人で同じ方向を見て、黙っていた。
それは今では普通のことになっていたが、今日の沈黙は少し質が違う気がした。
何かを抱えている時の沈黙に近かった。
燈は何も聞かなかった。
聞くタイミングを計っていたわけではなく、ただ、待つのが自然だと思った。
「仕事のことで、少し」と紗江が言った。
「はい」
「契約の更新があって。来年度も続けられるとは思うんですけど、思うだけで、確認できていなくて」
「聞けない感じですか、担当者に」
「聞けばいいのはわかってるんです。でも、聞いたら、答えが出てしまうから」
燈はその言葉を、少し頭の中に置いた。
聞いたら答えが出てしまうから聞けない。
答えを恐れているのか、答えが出ることで何かが終わることを恐れているのか。
どちらかわからなかったが、わかる気がした。
「それだけですか」と燈は聞いた。
紗江が少し止まった。
「それだけ、というのは」
「仕事のことだけか、ということです。他に何かある気がして」
紗江が川を見たまま、少し黙った。
長い黙りだった。燈は待った。
「……自分がどうしたいのか、わからなくなることがあって」
小さな声だった。
川の音にほとんど消えそうな声だった。
「仕事のことだけじゃなくて。全部。何が好きで、何が嫌いで、どういう場所にいたくて。そういうことが、ちゃんとわかっていない気がして」
燈は何も言わなかった。
言えなかったのではなく、言う前に聞き終わりたかった。
「わかっていないことに、ずっと気づかないふりをしていたんだと思います。気づいたら動けなくなりそうで。だから蓋をして、蓋をしていることも忘れて」
紗江が少し息を吸った。
「燈さんと話すようになってから、少しずつ、蓋のことを思い出す感じがして」
燈は紗江を見た。」
紗江は川を見たままだった。
「思い出す、というのは」と燈は言った。
「いいことですか」
紗江が少し考えた。
「……怖いです。でも、怖くなかった時より、生きてる感じがします」
生きてる感じ。
燈はその言葉を、胸の中で一度受け取った。
返す言葉を探した。いくつか浮かんで、いくつか消えた。
気の利いたことを言おうとしているわけではなかった。
ただ、正確な言葉を選びたかった。
「それを俺に言えたことは」と燈はゆっくり言った。
「蓋が少し、外れたということじゃないですか」
紗江が初めて燈を見た。
泣いていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、何か、普段より表面に近いところに感情がある顔をしていた。
薄い膜が一枚、なくなったような顔だった。
「そうかもしれない」と紗江は言った。
「怖いですか、今」
「……少し。でも、さっきより少ない」
燈は前を向いた。
川が流れていた。
自分の中にも、何かが動いていた。
紗江の言葉が、自分のどこかに触れていた。
言語化できない場所に、触れていた。
燈はそれを、無理に掘り起こそうとしなかった。
ただ、触れられていることを、感じていた。
どのくらい経ったか、紗江が「ありがとうございます」と言った。
「何が」と燈は聞いた。
「聞いてくれたことと、聞かなかったことと」
燈は少し考えた。聞かなかったこと。
「聞かない方が、よかったですか」
「全部聞かれなくてよかったです。全部は、まだ言えないから」
「まだ、というのは」
「いつか言えるかもしれない、ということです」
燈は頷いた。いつか、という言葉の中に、続きがある気がした。
この時間の続きが、ある気がした。
「俺も」と燈は言った。
「うまく言えないことが、まだあります」
「何が」
「紗江さんのこと」
紗江が少し止まった。
「それは」と紗江は言った。
声が、少し揺れた。「聞いていいですか」
「まだうまく言えないです」と燈は言った。
「でも、言えるようになったら、言います」
紗江が小さく頷いた。
川が流れていた。風が来て、二人の間を通り過ぎた。
それ以上は何も言わなかった。
言わなくても、何かが伝わっていた。
伝わっていることを、二人とも知っていた。
帰り道、駅まで並んで歩いた。
改札の手前で、いつものように足が遅くなった。
「また」と紗江が言った。
今日は紗江の方から言った。
「また」と燈は言った。
改札を通って、ホームで電車を待った。
今日、紗江が言った言葉を、燈はいくつか頭の中に持っていた。
怖くなかった時より、生きてる感じがします。
いつか言えるかもしれない。
自分も、いつか言えると思った。
言えるようになったら、言う。それだけは、今日決めた。
電車が来た。乗りながら、燈は窓の外の冬の川を一度だけ振り返った。
もう、紗江はいなかった。
でも、さっきまでそこにいた時間は、まだそこにある気がした。




