第六章 「冬の外側」
燈が紗江に連絡先を聞いたのは、十二月の第二週の昼休みだった。
社食で隣に座って、何の前置きもなく「連絡先、聞いてもいいですか」と言った。
自分でも唐突だと思ったが、前置きを考えていると言えなくなる気がした。
紗江が少し間を置いて、「いいですよ」と言った。
それだけだった。
お互いにスマートフォンを出して、交換して、また食事に戻った。
何かが変わったわけでも、変わらなかったわけでもない、という感じがした。
ただ、ポケットの中に何かが増えた感じはあった。
その週末の土曜日、燈は昼過ぎまで家にいた。
特に予定はなかった。
洗濯をして、部屋を少し片付けて、それで午前が終わった。
昼を食べながら、窓の外を見た。
曇っていたが、雨ではなかった。風もなさそうだった。
スマートフォンを手に取った。
紗江の名前を開いて、少し考えた。何を書くか決めていなかった。
決めていないまま、書いた。
「今日、予定ありますか」
送信してから、少し後悔した。
何を聞いているのか、その先に何があるのか、何も決めていなかった。
ただ聞きたかったから聞いた。それだけだった。
十分ほどして、返信が来た。
「ないです」
燈は少し考えて、また書いた。
「よければ、出かけませんか。図書館に行こうと思っていて」
送信してから、図書館、という言葉が少し滑稽な気がした。
デートの誘い文句にしては地味すぎる。
そもそもこれがデートなのかどうかも、燈にはわからなかった。
返信が来た。
「図書館、いいですね。どこの」
燈は少し息を吐いた。
待ち合わせは、駅の改札前だった。
燈が少し早く着いて、改札の脇に立っていた。
人が流れていった。年末の土曜日で、街は混んでいた。
燈は人の流れを眺めながら、待った。
紗江が来た。
グレーのコートに、紺のマフラーをしていた。
仕事の時とは少し違う顔をしていた。
違う、というより、少し力が抜けている感じがした。
「待ちましたか」と紗江が言った。
「少しだけ」
「すみません」
「早く来すぎました」
二人で歩きはじめた。
図書館は駅から十分ほどだった。
並んで歩くのは初めてだった、と燈は気づいた。
職場の廊下や、エレベーターの中や、それくらいしか並んだことがなかった。
外を、並んで歩く。それだけのことが、少し違う感触を持っていた。
「図書館、よく行くんですか」と紗江が聞いた。
「たまに。本は読まないですが」
「本を読まないのに図書館に行くんですか」
「雑誌とか、新聞とか。あと、静かなので」
「静かなのが好きなんですか」
「うるさいのが得意じゃないです」
紗江が少し頷いた。
「わかります」と紗江は言った。
「うるさいのが得意じゃないのと、静かが好きなのは、少し違う」
「そうです」と燈は言った。「うまいですね、言い方が」
「そうですか」
「前も思いました。言葉の選び方が独特で」
紗江が少し黙った。
照れているのか、考えているのか、どちらかわからなかった。
「そんなことないと思いますけど」と紗江は言った。
「ただ、うまく言えなくて、何度も言い直してるだけで」
「言い直した末の言葉が、独特なんだと思います」
紗江がまた黙った。今度は少し長かった。
「……ありがとうございます」と小さく言った。
図書館は、古い建物だった。
入ると、暖かくて、静かだった。
人はいたが、音がなかった。
燈は慣れた感じで奥へ歩いた。
紗江はゆっくりついてきた。
文学の棚の前で、燈は足を止めた。
川端康成の背表紙を探した。
雪国が一冊あった。
手に取って、紗江に見せた。
「これです」
「まだ読んでないんですか」と紗江が言った。
「延長して、また延長しました」
「二回も」
「読もうとするたびに、別のことを考えてしまって」
「別のこととは」
燈は少し考えた。正直に言うかどうか、一秒だけ迷った。
「仕事のこととか、紗江さんのこととか」
紗江が燈を見た。まっすぐ見た。
燈も見返した。
どちらも何も言わなかった。
二、三秒、静かだった。
図書館の静けさの中に、二人の沈黙が混ざった。
「そうですか」と紗江が言った。
声が、少し低かった。
「はい」と燈は言った。
それだけだった。
それ以上にはならなかった。
なれなかったのか、しなかったのか、燈にはわからなかった。
ただ、言えた、ということが、何かを少し動かした気がした。
図書館を出たのは、三時過ぎだった。
外は曇ったままで、少し暗くなりかけていた。
どちらからともなく、もう少し歩くことになった。
近くに小さな喫茶店があった。
入り口のガラスの向こうに、カウンター席が見えた。
燈は一瞬、立ち止まった。
「ここ、」と燈は言った。
「知ってます」と紗江が言った。「よく来ます」
「見たことあります」
紗江が少し首を傾けた。
「いつ」
「十月。通りかかった時に、窓越しに」
紗江が少し間を置いた。
「あの時、声をかけなかったのに」
「かけなくてよかったと思いました」
「なぜ」
燈は少し考えた。
「一人の時間の中にいるように見えたので。邪魔したくなかった」
紗江がゆっくり前を向いた。前を向いたまま、少し黙った。
「入りますか」と紗江が言った。
「はい」と燈は言った。
中は温かかった。
カウンターに二人で並んで座った。
コーヒーを頼んだ。
窓の外に、冬の夕暮れが来はじめていた。
特に何も話さない時間が、しばらく続いた。
それが苦ではなかった。
苦ではないことを、燈は今日また確かめた。
「今年」と燈は言った。
「よくわからない年でした」
「何が」
「何がと言われると、うまく言えないですが。去年と何も変わっていないはずなのに、少し違う気がして」
「何が違うんですか」と紗江が聞いた。
燈はコーヒーカップを持ったまま、少し考えた。
「光の見え方が、少し変わった気がします」
紗江が燈を見た。
「光」
「街の灯りとか。前より、少し鮮明に見える気がして。なぜかはわからないですが」
紗江がカップを持った手を、カウンターに置いた。
「私もです」と紗江は言った。
「何かが、少し変わった」
二人で、窓の外を見た。
暗くなりかけた空に、ビルの灯りがついていた。
それが何のせいか、二人ともわかっていた気がした。
わかっていて、言わなかった。
言わなくても、伝わっている気がした。
そういう時間が、しばらく続いた。
喫茶店を出たのは五時近かった。
駅まで並んで歩いた。
改札の手前で足が遅くなった。
「また」と燈は言った。
「また」と紗江は言った。
またの後に何もつかなかった。
来週、とも、今度は、とも言わなかった。
ただ、また、だけだった。
燈は改札を通って、ホームで電車を待った。
電車が来て、乗った。
窓の外に冬の街が流れていった。
紗江に「紗江さんのこと」と言った時の、あの二、三秒を思い出した。
静かだった。怖かったかどうか、今はもうわからなかった。
ただ、言えた。それだけが残っていた。
雪国を、今夜読もうと思った。
最初の一文から。
今いる場所が、少し広くなる気がした。




