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第五章 「手前で止まる」

 松田から連絡が来たのは、十二月の最初の週だった。


「今度の土曜、飲める?」

「飲める」

「お前、最近どうなの」

「どうとは」

「どうは、どうだよ。なんか、前より顔が違う気がして」

「顔は変わらない」

「じゃあ雰囲気。顔じゃなくて雰囲気」

 燈は少し間を置いた。

「土曜日に話す」

「お、珍しい」

 松田が電話の向こうで笑った気配がした。


 十二月になると、街が急に変わった。

 駅の構内に音楽が流れ、ビルの外壁に光がついた。

 燈はそういう変化を、悪いとは思わないが、自分には少し遠いものとして見ていた。

 賑やかな場所に属している感じが、もともと薄かった。

 ただ今年は、遠い感じが少し違った。

 遠いことは遠いのだが、以前より少し、見える気がした。

 光の輪郭が、去年より鮮明に映る気がした。

 それが紗江と話すようになってからのことだと気づくのに、少し時間がかかった。

 気づいてから、燈はしばらく天井を見た。

 なんだそれ、と思った。

 呆れているのか、困っているのか、判断がつかなかった。


 木曜日の昼、社食で紗江と鉢合わせた。

 向こうが先に気づいて、軽く手を上げた。

 燈も頷いた。

 自然に隣に並んでトレーを取った。

 特に何も言わなかったが、一緒に席へ向かう流れになった。

 それが、最近の普通になっていた。


「今日、寒かったですね」と紗江が言った。

「外に出ましたか」

「昼前にちょっと。コンビニまで」

「何買いに」

「肉まん」

「肉まん」と燈は繰り返した。

「食べたくなったんです、急に」

「どうでしたか」

「おいしかったです。寒い外で食べると、なおおいしくて」


 燈は少し笑った。

 笑ったのが表に出たかどうかわからなかったが、紗江が「笑いましたか、今」と言った。

「たぶん」

「笑うところですか、ここ」

「肉まんの話を、そんなに丁寧にされると思わなかった」

 紗江が少し口をとがらせた。とがらせてから、自分で気づいて、少し笑った。


 こういうやり取りが、気づけばできるようになっていた。

 いつからかはわからない。

 ただ、以前は口が動く前に考えすぎていたのが、今は少し先に口が動く。

 それが紗江との会話だけで起きていることに、燈は気づいていた。


 食事が終わりに近づいたとき、紗江が「今週末、何かありますか」と言った。

 燈は少し止まった。

「土曜日に友人と飲みます」

「そうですか」と紗江は言った。

 それだけで、それ以上は言わなかった。


 何かを言いかけてやめた、というより、言葉がその手前で止まった、という感じだった。

 燈にはなんとなく、そう見えた。

 聞けばよかったのかもしれない、と思った。

 何か予定があったのか、あるいは、何か別のことを言おうとしていたのか。

 でも聞けなかった。

 踏み込む言葉が出てこなかった。


 自分の中に何かがある、とは、うすうすわかっていた。

 給湯室での「気になってはいる」という言葉を、燈はその後も何度か思い出していた。

 正直に言えたとは思う。

 思うが、その先を自分がどうしたいのか、まだよくわからなかった。

 わからないまま、動くのが怖いとは言わない。

 ただ、わからないまま動いて、今の距離が壊れることを、燈は少し恐れていた。


 土曜日、松田と飲んだ。

「で、どうなの」と松田が最初に言った。

「早い」

「俺は気になってるんだよ」

 燈はビールを一口飲んだ。

「緒方さんと、少し話すようになった」

「おお」

「おおって何だ」

「いや、進展じゃないの」

「進展って何が」

「お前が誰かの名前を自分から出すことが、まず進展だよ」


 燈は少し黙った。

 否定できなかった。

「どんな人」と松田が聞いた。

「静かな人。でも、話すと面白い」

「面白い」

「言葉が、独特で。普通の人が使わない言い方をする」

「たとえば」

「本を読むと、今いる場所がちょっと広くなる感じ、って言った」

 松田がしばらく燈を見た。

「それ、お前に言ったの」

「そう」

「それは、いいな」


 燈は何も言わなかった。

 いい、という松田の感想は、燈の中にあるものと同じだった。

 同じだからこそ、言葉にしなかった。

「で、どうするの」と松田が言った。

「どうする、とは」

「どうするはどうするだよ。お前、どうしたいの」


 燈は少し考えた。

 考えて、答えが出なかった。

 出なかったことが、たぶん答えだった。

「……まだわからない」

「わからないのか、怖いのか」

 燈は答えなかった。

 松田は何も言わなかった。

 追い打ちをかけることを、松田はしない。

 ただ少し頷いて、新しいビールを頼んだ。


 帰り道、冬の空気が冷たかった。

 燈は歩きながら、今週末、何かありますか、という紗江の言葉を思い出した。

 手前で止まった言葉の続きが、何だったのか。

 聞けばよかった、とまた思った。

 次に機会があれば、聞こう。

 そう思った。

 次があるかどうかはわからなかったが、たぶん来る気がした。


 見上げると、冬の空に星が二つ三つ、見えた。

 街の光の中でも、消えずにいた。

 それだけで、今夜は十分だった。

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