プロローグ 「夜が、深かった」
つながりの予感は、何気ない場所にある。
夜の十一時過ぎ、終電一本前の電車の中で、沢井燈はつり革を握ったまま、自分がどこへ向かっているのかを一瞬忘れた。
忘れた、というより、どうでもよくなった、という方が正確かもしれない。
乗り換えの駅名も、降りるべき駅も、頭の中にはある。
ただそれが、今この瞬間だけ、自分に関係のないことのように思えた。
車窓の外は黒い。
地下区間だから当然で、それはわかっているのに、黒の向こうに何があるのかをぼんやり考えてしまう。
こういうことが、たまにある。
別に落ち込んでいるわけでも、疲弊しているわけでもない。
ただ、自分という輪郭が、少しだけ薄くなる瞬間が。
飲み会は楽しくなかった、というわけでもなかった。
同期が笑っていたから笑った。
乾杯した。
料理を取り分けた。
適切なタイミングで相槌を打った。
気がつけば三時間が過ぎていて、幹事が伝票を持って立ち上がり、外に出たら夜になっていた。
何かが足りない、とは思わない。
ただ何かが、どこかへいってしまう感じが、する。
電車が駅に滑り込む。
アナウンスが流れる。
扉が開いて、人が降りて、人が乗る。
燈は動かない。乗り換えの駅は次ではなく、その次だから。
そのとき、視界の端に人影が入った。
扉の近く、壁に背をあずけて立っている女がいた。
同じ会社の、営業サポートの、確か、緒方、という名前の。
飲み会に来ていたはずだが、いつの間に乗ったのか気づかなかった。
目が合う。
向こうも気づいたようで、わずかに目を動かした。
会釈、というほどでもない、ほんの小さな、視線の動き。
燈も同じくらい小さく頷く。
それだけだった。
声をかけようとは思わなかった。
向こうもそうだったと思う。
ただ、同じ電車に乗っている、ということだけを確認して、それ以上でも以下でもなく、二人は沈黙の中に戻った。
燈はまたつり革を握る。
おかしなことに、さっきまでの「薄まる感じ」が、少しだけ引いていた。
なぜかはわからない。
静かだから、かもしれない。
何も求められていないから、かもしれない。
隣の車両では今も誰かが笑い声を上げていて、それが遠くに聞こえる。
ここだけが、少し別の温度をしているような気がした。
次の駅が近づく。
乗り換えの駅だった。
燈は降りようとして、気づいた。
扉が閉まっていた。
車内アナウンスが、次の終点の駅名を告げていた。
乗り過ごした。
燈は手の中のつり革を見た。
いつ乗り換えの駅を通過したのか、まったく覚えていなかった。
窓の外はまだ黒い。
自分でも少し驚いたが、焦りはなかった。
折り返せばいい。それだけのことだ。
壁際の女に目をやると、彼女もこちらを見ていた。
少しだけ間があって、緒方紗江は言った。
「乗り過ごしましたね」
声は静かで、責めるでもなく、笑うでもなく、ただ事実を言葉にしただけのような口調だった。
「そうですね」
燈も同じ温度で答えた。
それだけだった。
それ以上の言葉は、どちらからも出なかった。
終点まで、二人は並んで黙っていた。
折り返しの電車が来るまで、ホームのベンチに並んで座った。
自動販売機の明かりだけが白く光っていた。
燈はスマホを開いたが、何も見なかった。
紗江もスマホを持ったまま、どこも見ていないようだった。
深夜のホームには、ほかに人がいなかった。
改めて話すことは、何もなかった。
そしてそのことを、不思議と燈は苦に思わなかった。
沈黙が続けば気まずくなるのが普通で、燈もそう思っていた。
しかし実際には、気まずさより先に、静けさの方がきた。
どこかで、電車の音がした。
「来ましたね」と紗江が言った。
「来ましたね」と燈が繰り返した。
二人は立ち上がって、電車に乗った。
今度は、ちゃんと降りた。
改札を出たところで自然に別れた。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」、それだけ言って、それぞれの方向へ歩いた。
燈は家に向かいながら、今日一日のことを思い返した。
飲み会の顔ぶれ、交わした言葉、食べたもの、笑ったこと。
全部が、もう薄くなっていた。
覚えているのは、終電のつり革の感触と、深夜のホームの自動販売機の光と、静かな声で「乗り過ごしましたね」と言われたことだけだった。
なぜそれだけが残るのかを、燈は考えなかった。
考えるための言葉を、まだ持っていなかったから。
夜が、深かった。




