第一章 「乗り過ごし」
あの夜から、特に何も変わらなかった。
変わらなかった、ということを、燈は数日後に確認した。
廊下で緒方紗江とすれ違い、互いに軽く頷いて、それだけで終わった。
何か言葉を交わすでもなく、目が合って少し長くなるでもなく、ただ通り過ぎた。
それが自然だった。それでいいと、燈も思っていた。
十月の半ばだった。
燈の仕事は、社内のシステム管理と、各部署からの問い合わせ対応が主だった。
劇的なことは何も起きない。
起きたとしても、誰かのパソコンがフリーズしたとか、共有フォルダのアクセス権限がおかしいとか、その程度のことだった。
燈はそういう仕事が嫌いではなかった。
問題には原因があって、原因には対処があって、対処すれば解決する。
感情が入り込む余地が少ない。
昼休み、社食のトレーを持って席を探していると、松田から着信が入った。
「今夜飲める?」
「飲めるけど」
「じゃあ七時。いつもの店」
それだけで電話が切れた。
松田賢二とはそういう関係で、余計な確認をしない。
大学から九年になるが、会うたびに近況報告をするわけでもなく、近況報告をしないからといって疎遠になるわけでもない。
燈にとって、数少ない「ほっとできる相手」だった。
席に着いて、定食を食べながら、燈は窓の外を見た。
曇っていた。
午後もいくつかの問い合わせをこなし、定時で仕事を終えた。
七時まで少し時間があったので、会社の周辺を歩いた。
目的はなかった。
ただ、少し体を動かしたかった。
秋の風が低いところを吹いていて、燈はポケットに手を入れて歩いた。
新橋の路地を入ったところで、小さな喫茶店の前を通った。
ガラス越しに、カウンター席に座っている人影が見えた。
緒方紗江だった。
文庫本を開いて、コーヒーカップを手に持ったまま、読んでいた。
燈は立ち止まらず、そのまま通り過ぎた。
見えたのは三秒もなかったと思う。
ただ、その三秒が、妙に鮮明に残った。
松田はすでに来ていて、カウンターで生ビールを飲んでいた。
「遅い」
「定時から七時まで一時間以上あるだろ」
「俺が早いんだよ」
燈はジャケットを脱いでスツールに座った。
店員にホッピーを頼んだ。
松田はすでに二口ほど飲んでいた。
「仕事どう」と松田が聞いた。
「普通」
「普通って何だよ、普通って」
「普通は普通だよ」
「お前、何年それ言ってんの」
「じゃあお前はどうなんだ」
「俺は最悪。クライアントが何言いたいのかわからない。何言いたいのかわからないのに、なんかすごいクリエイティブなやつ持ってきてって言うんだよ。意味わかる?」
「わからない」
「だよな」
松田は残りのビールを飲み干して、おかわりを頼んだ。
燈はホッピーを受け取って、少し飲んだ。
しばらく、他愛のない話が続いた。
松田の職場の話、共通の知人の近況、どこかの球団の話。
燈は相槌を打ちながら聞いた。
松田の話は、聞いていて疲れない。
情報量が多いのに、なぜか疲れない。
たぶん、何も求めてこないからだと燈は思っていた。
ただ話して、ただ聞いて、それだけだから。
「そういえば」と松田が言った。
「この前、飲み会あったんだろ」
「あった」
「楽しかった?」
「まあ」
「まあって何だよ」
「まあは、まあだよ」
松田が横目で燈を見た。
「何かあった?」
「別に」
「嘘だ。お前、『まあ』の言い方が違う。普通の『まあ』じゃなかった」
燈は少し黙った。
「乗り過ごした」
「電車?」
「終電一本前。終点まで行った」
「それはまあ、よくあることだろ」
「同じ会社の人と一緒に」
松田がビールのグラスを置いた。
「ほう」
「何もない。ただ、同じ電車に乗ってて、二人とも乗り過ごしただけ」
「誰」
「緒方さん。営業サポートの」
「知らない」
「俺もほとんど知らない」
「話したの?」
「乗り過ごしましたね、って言われて、そうですね、って答えた」
松田がしばらく燈を見た。
「それだけ?」
「それだけ」
「なのに、なんで話した」
燈は答えなかった。
答えが出てこなかった。
なぜ話したのか、自分でもわからなかった。
何か残っているから話したのか、話すことで何かを確かめたかったのか。
どちらかわからないまま、口が動いていた気がした。
「……静かだった」とだけ、燈は言った。
松田は何も言わなかった。
珍しく、何も言わなかった。
ただ少し頷いて、新しいビールを飲んだ。
家に帰ったのは十時過ぎだった。
シャワーを浴びて、ベッドに横になった。
天井を見た。
特に何も考えていなかった。
窓の外から、遠くの電車の音がした。
路地の喫茶店のガラス越しに見えた、カウンターの横顔を、燈は一度だけ思い出した。
コーヒーカップを持ったまま、本を読んでいた。
静かな、ひとりの時間の中にいた。
声をかけなくてよかった、と思った。
なぜよかったのかは、わからなかった。
ただそう思った。
目を閉じると、すぐに眠くなった。
今日もどこかへいってしまうような一日だったはずなのに、不思議と、眠れる気がした。
夜が、静かだった。




