件の女
牛女、という都市伝説がある。
予言獣として有名な件は、牛の体に人の顔をしているが、牛女は逆に、頭が牛で赤い着物を着た女であるという。
古くは、昭和五十年頃に某所に現れると有名になり、肉屋の座敷牢に閉じ込めていたものが災害の折に逃げ出したともいわれ、怪談本「新耳袋」においても、やはり災害のあとに目撃されたという。
A君は家路を急いでいた。
今ほど街灯が普及していない時代である。日が沈んでしまえば一丁先が薄暗い。
勝手知ったる近所であるから迷うようなことはないが、神社の前とか路地裏なんかは、やはり心細くて怖かった。
ふと、通りの向こうに人影を見つけた。
沈んでしまった太陽の残光を背負った人影は、頭が妙に大きかった。
虚無僧だ、とA君は思ったが、近づくに連れ、それが籠ではなく白い布だとわかった。
赤い着物を着た女が、頭から白い布をかぶっている。
奇妙なのは、その布の両端が持ち上げられたように張っていることだった。
手を上げているのではない。頭に何かを乗っけて、その上から布をかぶっている。A君はそう思った。
女は暗い道の真ん中に微動だにせず立っている。
怖い。
家へ帰るにはあの奇妙な女の横を通らなければならない。しかたなくAくんはまっすぐ駆け抜け出す。
だが、女とすれ違う瞬間、つまずいたか足がもつれたかして転んでしまった。
痛みにうめくAくんは、目の端で女が動くのを見た。
全身に鳥肌が立ったA君は、痛みをこらえて再び走り出す。
しばらく走って、はっと気づく。かぶっていたハンチング帽がない。
転んだときに落としてしまったらしい。
それはそれで怒られるので、A君は暗澹とした気持ちで来た道を戻った。
女はまだそこにいた。
片手にA君のハンチング帽を持って、おいでおいでと手招きをしている。
A君はなにもかも諦めた気分になってフラフラと歩く。恐ろしくて顔を上げることができない。顔を伏せたまま女に近づく。
女の足が目に入った。裸足だった。
しばらく恐怖に耐えていると、女が顔を伏せたままのA君の視界に入るようにハンチング帽を差し出した。
「気をつけてね」
優しげな、若い女の声だったという。
まさか言葉を発するとは思っていなかったA君は、心臓が飛び跳ねるほど驚くと同時に、女の手からハンチング帽をひったくって踵を返して思い切り駆け出した。
ほうほうの体で家に帰ると、家人に驚かれた。
涙を流し泥だらけのA君から話を聞き、お父さんとお兄さんは鼻息を荒げた。
息巻いた二人に引きずられ夜の通りを見に行ったが、もう女はいなかったという。
A君がそんな目にあったのはそれ一度きりで、それ以外に奇妙な女の噂を聞くこともなかった。
大正十二年、八月末。
関東大震災の三日前の事である。




