スワンプマン
「俺は死ぬのが怖いんだ」
そう言ってCさんが話しはじめた。
Cさんは元は大手銀行の社員だった。
残業を切り上げ、チェーン店で少し遅い夕食をとって帰路についた。
夜道をぼんやりと歩いていると着信音がなった。
確認すると妻からである。
しまった、遅くなると伝えていなかった。
歩きながらスマホを操作していると、突然、体に衝撃が走った。
気がつくと、なんだか薄ぼんやりとした場所に座っていた。足元には小石が敷き詰めてある。目の前には水が流れている。
河原だ。
おそろしく霧が深くて、伸ばした手の指先が見えない。
そうだ、妻に連絡をとらなくては。そう思いスマホを探したが見つからない。どこかで落としてしまったようだ。
さて困った。ここがどこかもわからない。
どうしたものかと考えるが、不思議と恐怖心や焦燥感が湧いてこない。
ただ、困った困った、と頭の中で繰り返す。
そうやっているうちに、霧の中から人が現れた。
「さあ、まいりましょうか」
真っ白な和装の、40代くらいの上品そうな女性だった。
「どこへ行くんですか?」
Cさんが聞くと、女性はゆっくり対岸の方を指差した。不思議なことに、霧の深い中で女性だけがはっきりと見えたという。
「あなたは誰ですか?」
「クワバラと申します」
女性が微笑みながら言う。
「何をしているんですか?」
「ここに来られる方の案内をしております」
相変わらず頭はぼんやりとしていたが、さすがのCさんにも状況が飲み込めてきた。
「私は死んだんですか?」
女性がゆっくりうなずく。
そうか、死んだのか。
なら行かなきゃならないだろう。
Cさんが立ち上がると、女性は再び「まいりましょう」と言って川の中へ入っていく。
深くはないようである。せいぜい踝くらいの水深の川は、流れも穏やかだ。
女性の後についてCさんも川に足を踏み入れる。
ドボン、と川に落ちた。
再び気がつくと、今度は光の玉になって飛んでいた。
自分以外にも何千、何万の光の玉が、同じ方向へむかって飛んでいた。
大変に美しい光景だった。
向かう先にはひときわ大きい光があった。
いや違う、たくさんの光の玉がぐるぐると回っているのだ。
そして、あれの中心に行けば生まれ変わることができるのだ。
Cさんはワクワクした。
なんて素晴らしいことだろう。
再び気がつくと、会社のデスクに座ってキーボードを叩いていた。
「……時間的な喪失があるという話ですか?」
話を終えてしまったCさんに尋ねると、二年ほど記憶がないという。
「その間、何があったのかわかりますか?」
Cさんは最後の記憶にある場所、つまり帰り道の途中の交差点へ足を運んだ。
そして電柱にこんな張り紙を見つけた。
某月某日、ここで死亡事故がありました。
黒い軽自動車。
事故を目撃した方は下記へご連絡ください。
電話番号の横には「桑原雄一」という署名があった。
「あの女に会うのが怖くて、俺は河原じゃなくて公園にいるんだ」
ブルーシートとダンボールでできた家の前に座るCさんが言う。
彼の前には、カップ酒の空瓶がいくつも並んでいた。
私は会話をここで終わらせたくなかった。もう少し情報を引き出したくて、さらに質問する。
「その……その大きな光の玉の中には、何があるんですか?」
Cさんが黄色い歯をむき出してニヤリと笑った。
「食物連鎖だよ」
私が理解できないでいると、さも面白そうな顔のCさんが続ける。
「魂を食って人間を生むんだ。アイツは人間の中で育った魂をまた食うんだよ。面白いだろう。お兄さん。人間は結局、アイツの糞なんだよ。だから真面目に生きる意味なんかないんだよ」
それで生きるのが嫌になって、死ぬのも怖くて、結局ここにいるんだとCさんは笑いながら言った。
そして最後に、Cさんに尋ねられた。
「あのとき生まれ変わったんなら。今ここにいる俺は、いったい何なんだろうな」
私には答えることができなかった。
注釈:スワンプマン(沼男)
哲学的な思考実験。
沼の淵を歩いていたある人間が落雷で死亡し沼に落ちる。直後に別の落雷で沼の成分から全く同じ身体・記憶を持つ「スワンプマン」が生まれた。スワンプマンが元の人間の日常をそのまま完璧に引き継いだ場合、両者は同一人物と呼べるか。という問い。




