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サルト  作者: 岩槻大介
8/19

ビーバーの巣には住みたくない

 翌日からぼくは、ちょっとだけ早起きして近所をランニングするようになった。なんか健康的で、実にぼくらしくない行為だなって自分でも思ったけど、さすがに朝の空気は気持ち良かった

 最初の日は路地を1周。次の日は2周。その次の日は3周、とだんだん距離が伸びていき、ペースも上がっていった。

 そして何よりも驚いたのは、いつも自転車で通り過ぎている路地に、ぼくの知らなかったことをいっぱい発見したことだ。

 へぇ、こんなところにお地蔵さんなんかあったんだ。

 なんだよこのうち、お化けが出そうだな。

 クラリネット教室か。そんなの習うやついるのかよ。ははは。

 ぼくの大好きなクラーリネット、パパからもらったクラーリネット…。

 気が付いたらぼくは、走ってる間、そんな歌を口ずさんでいた。

 とぉっても大事にしてたーのにぃ。

 そのうちに、陣内先生は間違っている、と思うようになった。

 マラソンに必要なのは根性なんかじゃない。

 歌だ。

 どーしよっ、どーしよっ、オーパッキャマラドパッキャマラド…。

 こうしてぼくは、走るリズムを少しずつからだで覚えていった。

 ところでパッキャマラドってなんだ?


 でもそんなパッキャマラドな朝も長くは続かなかった。

 学校には先生の他にも、もっとタチの悪い悪魔が待ち構えていたのだ。

「なぁサルト、今年のマラソン大会だけどよぉ」

 月初めの班変えで運悪く同じ班となったケンさんは、その日の掃除の時間、さっそくぼくにモップを押し付けながらそう言った。

「三人で同時にゴールしないか」

「え、えへへ、三人って?」

「決まってんだろ、俺と、サルトと、エロタだよ」

「いや、でも、ヒロ…」

「あんっ?」

 ケンさんが、何もそこまで、というくらいに顔を近づける。

 ちゃんと立っても、ぼくの目はケンさんのあごの高さだ。

「そ、その、エロ…タが、なんて言うか」

「あいつはもうとっくにオーケーしてるよ」

 ケンさんは身長だけではなく、それ以上に横幅もでかい。だからそのパワーは計り知れないものがあるので、みんなは彼を恐れるのだった。もちろんみんなの中にはぼくも含まれる。

 でもパワーはあくまでもパワーであって、運動神経に結びつくとは限らないらしい。とりわけ持久走ではその巨体が重荷となって、いつも最初に息を切らすのはケンさんだった。

「な、どうせ俺たちはベッケの方なんだから、最後の大会は仲良く三人でゴールしようぜ」

 それってつまり、オレを抜かすな、ってことじゃん。

「でもあの」

 走るペースをせっかくつかんだんだ。それにぼくは、ぼくには、体育しか、得意なものがないから…。

「なんだよ、いやなのか」

「別にいやだとか、そういうんじゃなくて…」

「じゃあ、分かったな」

 ええー? ぼくには、たいいく、し、か…。

「う、うん…。えへへ」

 キーンコーンカーンコーン。掃除の終わりのチャイムが鳴った。

 ケンさんはいつものようにくちびるの端っこだけでふっ、と笑い、歩きかけて足を止めた。

「いつも思うんだけど、サルトのそのニヤけた顔」

 そう言ってケンさんは、何かとってもかわいそうなものを見るような目でぼくを見た。

「はっきり言って、キモいよ」

 以前テレビで見たビーバーの巣作りの光景が、ぼくの頭の中によみがえった。

 長い時間をかけて川の中腹にせっせと枝を積んでいくビーバー。やがてその枝が流れをせき止めて、屈強なダムの家となる。

 ぼくには、体育しかないから…。そんなカッコよすぎるセリフが川の流れであり、枝がニヤニヤだ。セリフを、言いたいことを、ニヤニヤはいつだってせき止めるんだ。

 そんな巣には、ぼくは住みたくない。そんな家で、暮らしたくない。そんな世界で、生きていたくない。でもぼくにはそのダムが、どうしてもこわせない。

 あぁ。ぼくは本当に、生きていたくなくなった。

 世界にはどうして、言葉なんかががあるんだよ。

 最初に言葉をつくったやつは誰なんだよ。

 タイムマシンでどこまで行けば、そいつに会えるんだよ。

 ぼくはそいつを許さない。

 だいたい言いたいことを言い合って、人間は今までどれだけの損をした?

「言いたいことが言えないヤツは、確実に不幸な目にあう」

 ぼくの耳になぜかあの時の不良じじぃの声がよみがえった。

 そんなのうそだ。言いたいことを言い合わなければ、戦争だって起きなかったはずだろ。

 いいじゃん、別に、伝えなくって。伝わらなくたって。

 あぁ、ぼくはそいつを許さない。

 最初に言葉をつくったやつを、絶対に許さない。

 その日はランドセルがとてつもなく重たかった。


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