ビーバーの巣には住みたくない
翌日からぼくは、ちょっとだけ早起きして近所をランニングするようになった。なんか健康的で、実にぼくらしくない行為だなって自分でも思ったけど、さすがに朝の空気は気持ち良かった
最初の日は路地を1周。次の日は2周。その次の日は3周、とだんだん距離が伸びていき、ペースも上がっていった。
そして何よりも驚いたのは、いつも自転車で通り過ぎている路地に、ぼくの知らなかったことをいっぱい発見したことだ。
へぇ、こんなところにお地蔵さんなんかあったんだ。
なんだよこのうち、お化けが出そうだな。
クラリネット教室か。そんなの習うやついるのかよ。ははは。
ぼくの大好きなクラーリネット、パパからもらったクラーリネット…。
気が付いたらぼくは、走ってる間、そんな歌を口ずさんでいた。
とぉっても大事にしてたーのにぃ。
そのうちに、陣内先生は間違っている、と思うようになった。
マラソンに必要なのは根性なんかじゃない。
歌だ。
どーしよっ、どーしよっ、オーパッキャマラドパッキャマラド…。
こうしてぼくは、走るリズムを少しずつからだで覚えていった。
ところでパッキャマラドってなんだ?
でもそんなパッキャマラドな朝も長くは続かなかった。
学校には先生の他にも、もっとタチの悪い悪魔が待ち構えていたのだ。
「なぁサルト、今年のマラソン大会だけどよぉ」
月初めの班変えで運悪く同じ班となったケンさんは、その日の掃除の時間、さっそくぼくにモップを押し付けながらそう言った。
「三人で同時にゴールしないか」
「え、えへへ、三人って?」
「決まってんだろ、俺と、サルトと、エロタだよ」
「いや、でも、ヒロ…」
「あんっ?」
ケンさんが、何もそこまで、というくらいに顔を近づける。
ちゃんと立っても、ぼくの目はケンさんのあごの高さだ。
「そ、その、エロ…タが、なんて言うか」
「あいつはもうとっくにオーケーしてるよ」
ケンさんは身長だけではなく、それ以上に横幅もでかい。だからそのパワーは計り知れないものがあるので、みんなは彼を恐れるのだった。もちろんみんなの中にはぼくも含まれる。
でもパワーはあくまでもパワーであって、運動神経に結びつくとは限らないらしい。とりわけ持久走ではその巨体が重荷となって、いつも最初に息を切らすのはケンさんだった。
「な、どうせ俺たちはベッケの方なんだから、最後の大会は仲良く三人でゴールしようぜ」
それってつまり、オレを抜かすな、ってことじゃん。
「でもあの」
走るペースをせっかくつかんだんだ。それにぼくは、ぼくには、体育しか、得意なものがないから…。
「なんだよ、いやなのか」
「別にいやだとか、そういうんじゃなくて…」
「じゃあ、分かったな」
ええー? ぼくには、たいいく、し、か…。
「う、うん…。えへへ」
キーンコーンカーンコーン。掃除の終わりのチャイムが鳴った。
ケンさんはいつものようにくちびるの端っこだけでふっ、と笑い、歩きかけて足を止めた。
「いつも思うんだけど、サルトのそのニヤけた顔」
そう言ってケンさんは、何かとってもかわいそうなものを見るような目でぼくを見た。
「はっきり言って、キモいよ」
以前テレビで見たビーバーの巣作りの光景が、ぼくの頭の中によみがえった。
長い時間をかけて川の中腹にせっせと枝を積んでいくビーバー。やがてその枝が流れをせき止めて、屈強なダムの家となる。
ぼくには、体育しかないから…。そんなカッコよすぎるセリフが川の流れであり、枝がニヤニヤだ。セリフを、言いたいことを、ニヤニヤはいつだってせき止めるんだ。
そんな巣には、ぼくは住みたくない。そんな家で、暮らしたくない。そんな世界で、生きていたくない。でもぼくにはそのダムが、どうしてもこわせない。
あぁ。ぼくは本当に、生きていたくなくなった。
世界にはどうして、言葉なんかががあるんだよ。
最初に言葉をつくったやつは誰なんだよ。
タイムマシンでどこまで行けば、そいつに会えるんだよ。
ぼくはそいつを許さない。
だいたい言いたいことを言い合って、人間は今までどれだけの損をした?
「言いたいことが言えないヤツは、確実に不幸な目にあう」
ぼくの耳になぜかあの時の不良じじぃの声がよみがえった。
そんなのうそだ。言いたいことを言い合わなければ、戦争だって起きなかったはずだろ。
いいじゃん、別に、伝えなくって。伝わらなくたって。
あぁ、ぼくはそいつを許さない。
最初に言葉をつくったやつを、絶対に許さない。
その日はランドセルがとてつもなく重たかった。




