住んでいるやつがななめだから
玄関のドアが閉まっている。
ぼくは鍵を開けて中に入り、内側から鍵を閉めた。
靴がない。父ちゃんどこ行った。またパチンコかぁ?
台所の床にランドセルを置いて、冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。
残りが少なかったので、おかわりできなかった。父ちゃんのアホ。ちゃんと補充しといてって言ったのに。いてっ。
コップを流し台に運ぼうとしたら、ランドセルにつまずいた。
くそう。ぼくはランドセルを蹴飛ばして隅に押しやった。
見ると作業場のドアが開いている。
中に入ると父ちゃんのギターが立てかけてあった。ぼくはなんとなく手にとってみた。 ひざに乗せて、親指でポロンと弾いてみた。
深く、透明な空間に吸い込まれるような音が鳴って、部屋じゅうにしばらく響いた。初めてだ。考えてみたら、こんなに近くにありながら、ぼくは初めてギターを爪弾いた。
うんと小さい頃、ギターに触って父ちゃんにえらくしかられたことがある。それ以来、ぼくは触ったことがなかった。
いい音だ。なんだ、ギターなんて簡単じゃん。それを父ちゃんはまるで聖なるもののように大事にして。大してうまくもないくせに。
なんだよ。
なんだよ。
こんなのちょっと覚えたら、ぼくはあっと言う間に父ちゃんよりもずっと上手に弾けるようになるよ。ぼくは試しに、左手で適当な位置を押さえて、また右手の親指でポロンと弾いてみた。
今度は音が全く出なかった。あれ?
もう一回。あれ? も一度。あれ? あれれ?
左手の指先が痛くてもう押さえられない。くそう。
ぼくは乱暴にギターをスタンドに戻した。
こんな楽器、やるやつの気が知れない。何がメッセージだ。何がロックンロールだ。どうせ何も伝わらないんだ。伝えることなんか、できないんだ。
いいじゃん、別に、伝えなくって。伝わらなくたって。
ラジカセの上には、例のなずな台学園のチラシが乗っていた。
何が校歌だ。ギターのばーか。父ちゃんのばーか。
ぼくはそれを丸めてやみくもに投げつけた。
チラシは開けっ放しのドアに当たって、そのまま台所の床までころころころころと転がっていった。いくら家がななめになっているからって、そんな遠くまで転がっていくことないじゃん。大げさなんだよ、ばーか。どいつもこいつも、ばーか、ばーか、ばーか。
ぼくは部屋を出て作業場のドアを乱暴に閉めた。と同時にひっくり返った。つまずいたのだ。またランドセルに。
うっ…うっ…。
泣いているわけじゃないよ、念のため。うっ…。
右足の小指が痛い。きっとどこかにぶつかった。
う…うぅ…あああぁぁぁ。
ぼくは、泣いてなんか、いないよ。
涙じゃないよ。麦茶、おかわりしなかったもん。
だからぼくのからだには、そんな余計な水分なんか、ないんだ。
あああぁぁぁーん、あああぁぁぁーん。
なのに、なぜかにじんで、ななめになった台所の床がにじんで、そこにほっぺを押し付けて、ぼくは、ぼくは、うっ、ううっ、あ…。
鼻先に、何かが触れた。先ほど投げつけたチラシだった。
裏側の白い部分にボールペンで書かれた文字が見えた。
「もしもし」
「やっとかけてきおったな」
「え?」
「待ってたぞ」
「ぼくが誰だか、分かるの?」
「当然だ。これでもわしは、お前のコーチだからな」
―――信じられない。テレビ電話か、これ。
不良じじぃの声は、あの時に比べて低音で、なんか蚊取り線香の近くで煙たがりながらしゃべっているような感じがした。
「あの、ぼく…」
「どうした」
「あの、あの…」
「相変わらず病気は治ってないみたいだな」
「病気?」
「言いたいことが言えないなんて、わしに言わせりゃ、もう立派な病気だ」
「ぼくは、いたって健康だよ」
「ははは、これはからだの病気とは違う。かと言って心の病気でもない。お前の存在自体の病気なんだ」
よく分からない。分からないけどぼくは無性に腹が立った。
くそう。足の小指がズキズキする。
「よく分からんか」
「うん。分かんないよ」
「そうだよな。わしもガキの頃はよく分からんかった。でも、分からんからって、泣いてても何も始まりゃせん」
うわ、やっぱこれ、テレビ電話だ。きっとカメラがどこかに…。
「へ、変なこと言わないでよ。ぼく、泣いてなんかいないよ」
「つべこべ言ってねぇで、まずは表へ出ろ」
「表へ?」
「そうだ。なるべく人がいっぱいいる所だ」
「そんな所に行って、どうすんのさ」
「聞くんだよ。目ぇつぶってな」
ますます分からない。このじじぃ、本格的に脳みそが反復横とびしているのかも。
「たとえばだ。往来の真ん中に立って、目をつぶってみる。そうすっと、いやでも耳がこえてくる。いろんな物音に混じって、人の声が聞こえる。大して意味もなく、くだらないやりとりが断片的に耳に入ってくる。男の声、女の声、若い声、年老いた声。次第にお前の耳は、くだらない言葉たちでいっぱいになる。あぁ、くだらない、くだらない」
「なんだよそれ。本当にくだらない」
「その通りだ。でもな、今のお前に必要なのは、本当にくだらない、って実感することなんだ」
「それが、言いたいことを言うための、何になるっての」
「ワザだ」
「ワザ?」
「言ったはずだぞ。わしは、ワザを教える、ってな」
その時、玄関の鍵がガチャガチャと乱暴に開けられる音がした。
父ちゃんだ。
ぼくはとっさに電話を切ってしまった。受話器がうまく乗っからず、何度か電話機のへりにぶつけた。ガチャンガチャンという音が、きっとじじぃの耳を容赦なく襲っただろう。いいよ、あんな脳みそ反復横とびじじぃ。
ぼくはあわてて作業場を出た。洗面所の鏡をのぞいてほっぺの染みを指で消した。そして平静を装うために猛スピードで笑顔を作った。ホントだ。キモい。あー、ちくしょう。
玄関では、父ちゃんが小さな紙袋を抱えたまま靴を脱いでいた。
「父ちゃんお帰り。どこ行ってたの」
「ん、何だよコクト、気持ちワリィなぁ」
かー。父ちゃんにだけは言われたくなかった!
「何だよ気持ち悪いって。ぼくだってこんな顔になりたくなかったよ。でも父ちゃんがブサイクだから、なっちゃったんじゃないか!」
「ちょっと待て。俺は、お前が笑顔でお帰りぃ、なんて出迎えたことを気持ち悪いと言ったんだ。普段は絶対にしないくせに」
げっ、なんだそうか。確かにぼくは、なんでそんなことをしたんだ。つーか、なんでぼくは電話をあわてて切らなきゃならなかったんだ。どうかしてる。どうかしてる上に、今日はなんだかダメだ。怒りのふたが閉まらない。
「別に、いいじゃん。ぼく、父ちゃんが前みたいにちゃんと働くようになったら、毎日玄関まで出迎えてやってもいいんだぜ」
「バカ。俺は働いてんだよ。今日だってこうして校長先生と打ち合わせをしてきたんだ」
父ちゃんはそう言って紙袋をぼくの顔の前に突き出した。
「いいかコクト。俺はミュージシャンなんだ。ソングライターなんだよ。それも、たくさんの少年少女たちの将来をになう大事な歌を作ってるんだ。だから忙しいんだよ」
それから、また父ちゃんの校歌自慢が延々と始まった。
相変わらず世界を一人で動かしているような目の輝きを見せて。
これだ。ぼくはこれが予想できたから、あわてて電話を切ったんだ。今の父ちゃんは、言いたいことも言えずにニヤニヤしているぼくのことを、本気でキモいと笑うだろう。そしてそれをこども電話相談室みたいに知らないじじぃ相手にしゃべってるなんて知ったら、おそらく死ぬまでアホ笑いのネタにされる。
ちくしょう。ちくしょう。
やばっ。また目の奥の方がかゆくなってきた。
「もういいよ!」
ぼくは、まだしゃべっている父ちゃんの腕を両手で押して、玄関に下りた。その拍子に父ちゃんの手から紙袋が落ちた。中からたくさんの紙切れが飛び出して、その一枚がぼくの靴の上に乗っかった。
きったない字の列。父ちゃんの字。その上に赤ペンで線とかバッテンとかがいっぱい上塗りされて、元の字がほとんど読めない。
父ちゃんはそれをあわてて拾い集めながら、こう言った。
「コクト、どこ行くんだ。まだ話は終わってねぇぞ」
「どこだっていいだろ」
「じゃあ最後にこれだけ聞け。お前の顔はイケてるし、それ以上に父ちゃんの顔はイケてる。つまり俺たちはブサイクなんかじゃないんだ。証人だっている」
「証人?」
「ユカリだ」
「…あのさ」
ついにぼくはブチ切れた。
そして自分でも意味不明のセリフをはいた。
「父親らしいことを何一つしてないくせに、母さんの名前を軽々しく口にしないでよ!」
バタン!
玄関のドアを力まかせに閉めて、ぼくは外へかけ出した。
今の衝撃で我が家はいっそうかたむいたに違いない。
いいよ、どんどんかたむくがいいさ。どうせ住んでるやつもななめになってるんだ。社会に対してななめに生きてる大人と、世界に対してななめに生きてる子供。やっと分かったよ。ぼくらがななめに生きてるから、家もななめになっちゃったんだ。
クラリネット教室の看板がある角まで、ぼくは一気に走った。
父ちゃんは、追っては来なかった。




