外伝「もう1人の物語」
橋本裕史という人間を一言で説明するなら、
たぶん“人当たりのいい男”になるんだと思う。
誰とでもそれなりに話せる。
場を回すのは得意だし、空気も読める。
女慣れしてそう、と言われたことも一度や二度じゃない。
――でも、たぶん。
本当の俺を知ったら、みんな笑う。
好きな女ひとりに、
何年も告白できない男だ。
失うのが怖くて、
今の関係を壊す勇気もなくて、
“友達”なんて都合のいい立場に甘えて。
そのくせ。
誰かに取られそうになると、
勝手に苦しくなる。
我ながら、最低だと思う。
たぶん俺も。
黒田美鈴に負けず劣らず、
恋愛に向いていない。
恋愛不適合者だ。
――そう思い知らされたのは、
谷沢海という男が現れてからだった。
「黒田さん、今日も可愛いっすね」
美鈴の職場近くのカフェ。
ランチ時にたまたま寄っただけのカフェで見たその光景に、思わず眉をひそめる。
向かいに座る美鈴が、呆れたように笑っていた。
「はいはい」
「そういうの、軽いから」
「本気なんすけど」
遠くない座席から聞こえる、そのやり取りだけでわかる。
あいつは本気だ。
そして、美鈴もまんざらじゃない顔をしている。
「……だる」
思わず漏れた独り言に、自分で苦笑する。
何を今さら、と思う。
黒田美鈴が誰を好きになろうが、
誰に好かれようが、
本来それを気にする資格なんて俺にはない。
ずっと“友達”でいることを選んできたのは、他でもない俺だ。
でも。
“取られるかもしれない”と初めて思った瞬間、俺はようやく理解した。
――ああ、俺、全然諦められてなかったんだなって。
最初は、本当にただの後輩だった。
居酒屋バイト初日。
緊張でガチガチになって、
「よろしくお願いします」とやたら硬い声で頭を下げる美鈴を見て、
“真面目そうな子だな”
と思っただけだった。
それが。
こんなにも長く、
人生に居座る女性になるなんて。
あの時の俺は、
欠片も思っていなかった。
美鈴は、第一印象よりずっと話しやすい女だった。
大人しそうに見えるくせに、
慣れると普通にツッコんでくるし。
笑いのツボも妙に近くて、
話していて楽だった。
「橋本さんって、絶対年齢覚えてないですよね」
「人に興味ねぇから」
「最低」
呆れた顔で言うくせに、
ちゃんと笑う。
その顔を見るのが、いつの間にか好きになっていた。
シフトが被れば一緒に帰った。
大学の話をした。
家族の話をした。
恋愛の話もした。
そういう時間が、当たり前になっていった。
でもその頃の俺はまだ、
それを“恋”だとは思っていなかった。
ただ。
こいつといると楽しいな、と。
こいつには変に気を遣わなくて済むな、と。
その程度の認識だった。
――たぶん。
認めたくなかっただけだ。
「ねえ裕史」
大学二年の冬。
バイト終わりの帰り道。
珍しく少し浮ついた声で、美鈴が言った。
「私、たぶん好きな人できた」
その瞬間。
胸の奥を、
何か鋭いものが突き刺した気がした。
「……へぇ」
我ながら、よく平然と返せたと思う。
「どんなやつ」
「バイト先の先輩」
「すごい優しくて、大人で、落ち着いてて」
――ああ。
その顔。
その声。
その表情。
もう完全に、恋する女の顔だった。
「……そっか」
「どう思う?」
「何が」
「私、今度こそちゃんとしたいの」
「逃げたくない」
その時。
初めて思った。
あ、終わった。
たぶん俺は。
思ってたよりずっと前から、
こいつのことが好きだった。
「どう思う?」
そう聞かれた時。
本当は、ひとつしか答えなんてなかった。
やめとけ。
俺にしろ。
そんなこと、言えるわけがなかった。
「……いいんじゃね」
口から出たのは、
自分でも笑えるくらい無難な言葉だった。
「ちゃんと好きなら、いけば」
美鈴の顔が、ぱっと明るくなる。
「……ありがと」
その笑顔が可愛くて。
同時に、死ぬほど苦しかった。
そこから先は、地獄だった。
「今日、誠司さんと二人で帰った」
「映画の趣味一緒だった」
「今度ご飯行くことになった」
悪気なく報告してくるたび、
胸の奥がじわじわ削られていく。
それでも俺は笑った。
「脈ありじゃん」
「いい感じじゃね?」
「いけるだろ」
――何が“いける”だ。
笑わせんな。
それでも。
応援するしかなかった。
だって今さらだ。
好きだと気づいた時には、
もうこいつの目は別の男を見ていた。
だから。
せめて。
あいつが幸せになれるなら、それでいい。
そう思うことにした。
「……付き合うことになった」
その報告を受けた夜。
俺は人生で初めて、
酒を飲んでも酔えないって感覚を知った。
「そっか」
たったそれだけ返すのに、
喉が焼けるみたいだった。
「……ちゃんと嬉しそうにしてよ」
「してるって」
「全然してない」
「してるしてる」
笑う。
いつも通りに。
何も変わってないふりをして。
でも内心は。
全然よくなかった。
好きな女が、
他の男の彼女になる瞬間を。
笑って祝えるほど、
俺はできた人間じゃなかった。
その日、帰り道で思った。
俺も大概、恋愛向いてねぇな。
付き合ってからしばらくの間、
美鈴は本当に幸せそうだった。
誠司の話をするたびに顔が柔らかくなって、
スマホを見るたび嬉しそうにして。
そんな顔を見るたび、
胸の奥が痛んだ。
でも。
それでよかった。
こいつが幸せなら、
それでいいと思おうとした。
――思おうとした。
「……私ばっか好きみたいで、ちょっと疲れたかも」
その言葉を聞くまでは。
夜道を並んで歩きながら、
ぽつりと零れた弱音。
その瞬間、
胸の奥が嫌な音を立てた。
「……それ、ちゃんと本人に言えよ」
絞り出した言葉だった。
「重いって思われるかも」
「思うようなやつなら、その程度だろ」
そんなことを言いながら。
本当は。
そんなこと思うなよ。
お前の“重い”ごと好きになれる男じゃなきゃダメだろ。
喉元まで出かかった言葉を、
飲み込んだ。
数日後。
深夜に鳴った着信。
画面に映る“黒田美鈴”の名前を見た瞬間、
嫌な予感がした。
「……もしもし」
『……っ、裕史』
泣いていた。
その声だけで、全部わかった。
駆けつけた公園のベンチで、
俯いて泣く美鈴の隣に座る。
「……振られた」
その一言に、
胸が締め付けられた。
「……そっか」
何も言えなかった。
泣きじゃくる美鈴の背中を撫でながら。
今なら言えるかもしれない。
弱ってる今なら、
このまま俺を見てくれるかもしれない。
そんな最低な考えが、
一瞬頭をよぎった。
でも。
泣いてる女に付け込むほど、
落ちたくなかった。
「……お前、ちゃんと好きだったんだな」
そう言うと。
美鈴は子どもみたいに泣いた。
その姿を見て、思った。
今じゃない。
こいつが前を向けるまで。
ちゃんと笑えるようになるまで。
それまでは、
友達でいよう。
そう決めた。
――それが、何年かかろうとも。
何年かかってもいいと思っていた。
こいつがまた誰かを好きになれる日まで、
その時に隣にいられればいいと。
そう思っていた。
――谷沢海が現れるまでは。
「そいつ、お前のこと好きだろ」
そう聞いた時の美鈴の顔を、
今でも覚えている。
驚いて、
少しだけ戸惑って、
でもまるで他人事みたいな顔をしていた。
その時はまだ、
余裕があった。
どうせ美鈴はすぐ恋愛なんてしない。
そう、勝手に思っていた。
でも。
海は思ったよりずっと本気だった。
まっすぐで、
遠慮がなくて、
俺にはできなかった踏み込み方を、平然とやる。
羨ましかった。
眩しいとすら思った。
そして何より。
怖かった。
あいつなら。
あんな風に真正面から好意を向けられ続けたら。
いつか美鈴の心を動かしてしまうかもしれない。
それが、たまらなく怖かった。
だから。
海を断ったと聞いた時、
心の底から安堵した。
最低だと思う。
あいつは本気だったのに。
友達としては、
ちゃんと応援してやるべきだったのに。
でも。
その安堵と同時に、
もうひとつの感情が胸を満たした。
まだ間に合うかもしれない。
そう思ってしまった。
――思ってしまった時点で、もう終わりだった。
その夜、美鈴を呼び出した。
いつもの居酒屋。
いつものカウンター。
いつもの距離。
でも。
もう“いつも通り”じゃいられなかった。
「…そいつ…海くんとはどうなった」
「断ったよ」
「なんで」
「好きじゃないから」
その瞬間。
胸の奥で、
何かが決定的に壊れた。
ああ、無理だ。
もう。
友達のままじゃいられねぇ。
「……なあ」
声が、少し掠れた。
情けないと思う。
何年も想ってきたくせに、
いざ言うとなったら、
こんなにも喉が震えるなんて。
「お前さ」
美鈴がこちらを見る。
その目に、
何も知らない色が浮かんでいる。
「いつまで、“怖い”の言い訳にして逃げてんの」
息を呑む音がした。
「向いてないとか言って」
「傷つきたくないだけだろ」
こんな言い方したかったわけじゃない。
もっと格好つけて、
余裕ある顔で言うつもりだった。
でも無理だった。
何年も飲み込んできた感情は、
もう綺麗な形じゃ出てこなかった。
「……違」
「違わねぇよ」
自分でも驚くくらい強い声だった。
「ずっと見てたからわかる」
高校の失恋も。
大学の恋も。
泣きながら電話してきた夜も。
全部。
全部、知っている。
「……もう無理だわ」
笑おうとして、失敗する。
「友達のままでいようと思ってた」
「お前が誰かと幸せになるなら、それでいいって」
「ずっとそう思ってた」
「でも」
「他のやつに取られそうになって、無理だった」
美鈴の目が、大きく揺れる。
ああ、もう終わった。
この顔をされた時点で、
今までみたいには戻れない。
それでもいいと思った。
戻れなくても。
壊れても。
それでも、もう言わずにはいられなかった。
「……好きだ」
やっと言えたその一言は、
何年も飲み込み続けたせいで、
ひどく不格好だった。
でも。
それでよかった。
格好悪くても、
不器用でも、
情けなくても。
踏み出せたなら、それでよかった。
泣きそうな顔で、
美鈴が震える声を出す。
「……私も」
その瞬間。
胸の奥に積もっていた何年分もの感情が、
一気に報われた気がした。
恋愛不適合者。
たぶん、それは。
踏み込めない俺たちみたいな人間のことを言うんだろう。
それでも。
不器用なまま手を伸ばした先に、
お前がいてくれてよかった。
⸻ fin.




