第7話 因果は巡り、泥濘に沈む
ガギィィン!!
耳をつんざく金属音が大広間に響き渡った。
ジェラルドの剣は、エリスの肌に触れる寸前で、目に見えない「黒い壁」に阻まれていた。いや、壁ではない。それはエリスの頬の痣から噴出した、超高密度の重力波だった。
「な……んだ、これ……!?」
ジェラルドが剣を押し込もうとするが、ビクともしない。それどころか、剣先から伝わる振動が彼の腕の骨を軋ませる。
「言ったはずだ。彼女の魔力は、光さえも逃さない『ブラックホール』だと」
カイルがエリスの腰を抱き寄せ、冷酷に告げる。
「エリスは無意識のうちに、自身に害をなすものを拒絶する絶対的な結界を展開している。……そして、この結界は、向けられた悪意の質量に応じて、物理的な反作用を引き起こす」
「反、作用……?」
「つまり、お前が彼女を殺そうとすればするほど、その殺意は倍になってお前に返るということだ。――消えろ、愚物」
カイルの言葉が終わるか終わらないかの刹那。
結界が黒い閃光を放った。
「がはぁッ!!??」
ジェラルドの体は、まるで巨人に殴り飛ばされたかのように後方へ吹き飛んだ。彼は数メートル宙を舞い、父とミナを巻き込んで、無様に床へと転がった。
「きゃあぁっ! 痛い、痛いわ!」
「ジェラルド、貴様なにをやっている!」
三人が泥団子のように絡まり合う。
だが、本当の恐怖はここからだった。
エリスに向けられた殺意が結界によって反射されたことで、因果の逆流が始まったのだ。
彼らの身体にこびりついていた黒い泥が、突如として意思を持った生き物のように蠢き始めた。
「あ、熱い! なんだこれ、焼ける!?」
「いやぁぁぁ! 私の肌が、肌が溶けてるぅぅ!」
絶叫が響く。
泥は彼らの衣服を食い破り、皮膚を侵食し始めた。
それは、かつてエリスが呪具を通して体内に流し込まれ、毎晩激痛に耐えていた「毒」そのものだった。エリスという浄化装置を失った今、その毒は発生源である彼らの肉体へと還っていく。
「う、ああああ!」
見るも無惨な変化が彼らを襲った。
父の自慢の髭は焼け焦げ、腕の皮膚がどす黒く変色し、枯れ木のように干からびていく。
ミナの金髪は泥に吸われて灰色に枯れ落ち、顔には老婆のような深い皺と黒い染みが刻まれた。
ジェラルドの顔面には、かつてエリスを嘲笑った口元を中心に、膿んだような巨大な黒い腫瘍が膨れ上がった。
「痛い! 痛い痛い痛い!」
「助けてくれ! 誰か、誰か治癒魔法を!」
彼らは床を転げ回り、周囲に救いを求めた。
だが、貴族たちは恐怖と嫌悪の表情で後ずさるばかりだ。自業自得の因果応報を目の当たりにし、誰も彼らに触れようとはしない。
「エリス……!」
もがき苦しむ中、ジェラルドがエリスに手を伸ばした。
その目は、先ほどの殺意が嘘のように、哀れなほど懇願の色に染まっていた。
「頼む、エリス! お前ならできるだろう!? 吸い取ってくれ! この痛みを、いつものように全部お前が引き受けてくれよ!」
「そうだミナ、家族だろう!? パパが悪かった、だから元に戻してくれ! お前が痛い思いをするだけで、みんな助かるんだぞ!?」
彼らは泣き叫びながら、ズリズリとエリスの方へ這い寄ろうとする。
その言葉を聞いた瞬間、会場中の空気が凍りついた。
誰もが思った。『こいつらは、まだそんなことを言っているのか』と。
エリスは、足元にすがりつこうとする彼らを冷ややかに見下ろした。
かつては、この人たちに愛されたいと願っていた。
けれど今、目の前にいるのは、ただの醜い欲望の塊だった。
エリスはゆっくりと口を開いた。
「……お断りします」
鈴を転がすような、けれど氷のように冷たい声だった。
「私は人間です。あなた方の汚物を処理するための、ゴミ箱ではありません」
「なっ……!?」
「その痛みは、あなた方が長年私に押し付け、見て見ぬふりをしてきたものです。ご自身で抱えて生きてください。……それが、私の最後の『家族としての情け』です」
突き放された絶望に、三人は言葉を失い、ただ獣のように呻くしかなかった。
「そこまでだ」
玉座から、国王陛下の重々しい声が響いた。
「事の顛末、しかと見届けた。カイル公爵の申告通り、その者たちの身には自らの悪意が災いとなって降りかかったようだ。……衛兵! その穢れた者たちを地下の『浄化牢』へ繋げ!」
「じょ、浄化牢……!? 陛下、お慈悲を! そこは死ぬまで出られないという……!」
「あそこは魔力が尽きるまで搾り取られる場所よ! いや、いやぁぁぁ!」
「連れて行け。その醜い姿が、余の舞踏会を汚すことなど許さぬ」
陛下の命令一下、衛兵たちが槍の柄で彼らを取り押さえる。
ずるずると引きずられていく三人の絶叫は、大広間の扉が閉ざされると共に途絶えた。
床には、彼らが這った跡に、決して消えない黒い染みだけが残された。
訪れた静寂の中、カイルがそっとエリスの肩を抱いた。
「……終わったな、エリス」
「はい。カイル様」
エリスの頬を涙が一筋伝う。それは悲しみの涙ではなく、長い長い悪夢から覚めた安堵の涙だった。
彼女の頬の黒い痣が、ドクンと一度だけ温かく脈打った。
それはまるで、主を守り抜いたことを誇るかのような、力強い鼓動だった。




