24 Le Retour de l'Enfant prodigue
研究所とも学校とも市街地とも離れているであろう森の奥に、こじんまりとした城が建っている。この城は12主人が集まるための場所だ。ここからでは控えめな尖塔しか見えず、ちっとも近づいている気がしないのだった。
この城は、会議のたびに場所を変え形を変え移ろうものだから、毎回初めて参加する気分にもなる。普段生活する場所とは違うこのあたりがどこなのかわからないまま、彼岸たちは向かっていた。彼岸とアリスが並び、使い魔は彼らの後に従っている。さらにその先、先導役としてのアイビーと翠髪小僧が前を行く。
「……使い魔が来てから12主人会議に呼び出されるのは初めてだな」
森を見渡しながら、彼岸はボソッと言う。彼は退屈そうに両の手を頭の後ろで組んでいた。足の運びもしゃっきとしない。
隣にいたアリスは、彼岸を覗き込む。
「前の会議は、オルの実験の件だったね」
彼は、当然のように会話のキャッチボールをしようとする彼女を目の端でとらえて、ふん、と不満げに息を漏らした。
「……おまえには話しかけてねえ」
「あっそう! 独り言ならもっと小さく言えば!?」
相変わらずアリスにはつんけんしたままの彼岸だった。
「わたしだって、好きであんたなんかといるんじゃないんだからね」
「はい、はい。なら、大好きな夢野といればいいだろ」
「だって、彼岸……」
アリスはそわそわと後ろを振り返ったり彼岸を見下ろしたりして気ぜわしい。
やがて意を決したように彼岸に耳打ちした。
「……夢野、なんだか変だよ。あの子たち、何があったの? そろそろ話してくれない?」
「ああ? 知らねえよ。本人のところいって聞けよ」
「ばか。話しかけづらいからきみに聞いてるんだ」
「何を遠慮してるんだよ、気色悪い」
かくいう彼岸だって、今、お喋りしたかったのは夢野だった。だが、彼と黒髪小僧はずいぶん後ろを歩いている。一緒に出かけたはずなのに、彼らの歩みが遅いせいで、もう蝋燭くらいの大きさにしか見えない。それでも、夢野と黒髪小僧は互いにずいぶん距離をとっていて、とげとげしい空気を纏っている。こちらにまで彼らの険悪ムードが届いてきてしまっているように感じた。
「……ったく、どうしようもねえ奴らだ」
彼岸の独り言に、背後の緋髪小僧が小さく頷いた。
夜も明けないころ、夢野の烏、縮緬がアリスの家に到着した。聞けば、黒髪小僧は神殿の「鎮守の森」の穴倉で夜を明かしているというのだ。それを聞いた夢野は、待機令もなんのそので飛び出していってしまったのだ。彼岸はそのあとを追いかけていってしまった。
彼岸は、少し安心した気でいた。相性が悪く仲たがいしているようだったけど、なんだかんだいって心配しているじゃないか、と。家の中でのトラップ合戦だって、結局はじゃれあいの延長なんだ。彼はそう思い、素直じゃない親友の、珍しく頭に血が上って体が動くままに任せる様子を喜ばしく見届けるつもりだった。ただ、状況が状況だからひとりきりにさせてはいけないだろうと彼のあとを追っただけのことで。
しかし、それは彼岸のおめでたく楽観的な勘違いでしかなかった。
彼岸が穴倉にたどり着いた頃には、もう完全に陽は登っていた。夢野と黒髪小僧は、一触即発の状態で対峙していた。普段めったに感情を顕にしない夢野が、血が出そうなほどにこぶしを握りこめ、今にも殴りかかりそうに震えていた。黒髪小僧は黒髪小僧で、開き直ったかのように冷たい瞳で主人を睨みつけていた。
「おい、黒!」
彼岸は膝に手をついて息も切れ切れに叫んだ。どんな理由があろうと、ここまで手を(というか、足を)煩わせたからにはその落とし前をつけさせてもらいたいものだった。夢野も夢野だ。いつだってびしっと言わないから、こうして使い魔をつけあがらせてしまうのだ。ここは自分が出る番だ、と勢い込んでいた。
彼は指を突きつけてつかつかと黒髪小僧に歩み寄っていく。
「こーんな時にどこをほっつき歩いてたんだよ、このバカ! 夢野はな、一晩中、」
「彼岸は黙って」
「お、……おお」
夢野とは思えぬぴしゃりとした物言いに気おされてしまい、いきり立った指をしおしおと引っ込める羽目になった。
夢野はさいしょから黒髪小僧しか目に入っていなかった。彼岸が到着しても、一瞥も寄越さなかった。射抜くような瞳で、彼は黒髪小僧を問いただす。
「説明しろ」
彼の声は低く怒りに燃えていた。普段のような無駄も間も伸びもなくて、まるで別人のような口調だった。
黒髪小僧はふてぶてしくぷいと下を向く。殴りかかりそう、というのは間違いで、実際に殴りつけたあとらしかった。黒髪小僧の頬は赤く腫れあがって泥がついていたし、口の端には血の汚れがついていた。まったくもって彼岸の出る幕はなかった。
「……言い訳はありません」
「言い訳は聞いてない。説明をしろといってる」
重苦しい沈黙が彼らの周りを覆っていた。それとは正反対に、すがすがしい森の風が彼岸の頬や髪を撫でていく。息がおちついていくにしたがって、彼岸の思考回路もずいぶんクリアになっていった。もしかしたらいまこの瞬間は、この主従がちゃんと向き合うはじめての場面かもしれなかった。だったら、彼は黙って見守るしかない。
「まず第一に。黄髪小僧とのコンタクトはどうした」
「……果たしてません」
「第二に。どうして帰ってこなかった」
「……果たしてなかったからです」
「第三に。どうしてここにいる」
「……気がついたら、ここにいました」
「最後の質問だ。なぜ命令を無視した」
黒髪小僧は顔をあげた。目の光は失われていた。
「……あなたから逃げたかったからです。あなたが大嫌いだから」
夢野の背中はびくとも動かなかった。その答えを浴びせられた瞬間、どんな表情をしていたかはわからない。けれど、彼が踵を返した時にはいつもの眠そうな無表情に戻っていた。彼岸と目があうと、彼はさっと右下のほうへ目線をずらした。
「……帰る」
「は?」
夢野は彼岸に言った。彼岸は、夢野と黒髪小僧を交互に見て戸惑う。黒髪小僧がせっかく本音を口にしたのに、夢野が切り上げようとしている。自分ならば、ここは迷いなく食らいつくところだが。
「おい、もういいのかよ」
「いい」
親友はきっぱりと短い返事を寄越した。けれど、黒髪小僧はたっていた場所から足を踏み出そうとはしなかった。それを夢野も気付いている。彼は声を荒らげて、でも使い魔のことを見もしようとせずに背中を向けたまま叫んだ。
「帰ると言ってるんだ、黒髪小僧! さっさと来い!」
「……どうしてですか」
木の葉が踏みしめられる音がした。
「……僕はあなたがいやだと言ったのに、どうしてこのまま帰れるんですか」
あのなあ、と痺れを切らした彼岸が腰に手を当てて振り向いた。黒髪小僧は一歩足を踏み出した格好で、夢野の背中を厳しいまなざしで見据えたままだった。
「おまえの主人は、おまえの我侭にもセンチな気分にも付き合ってられない。知ってるだろうが、それどころじゃないんだ。おまえだって危ないんだぞ」
夢野が猫神の一件のほうを重視するのなら、それでいい。決めるのは彼らなのだから。彼岸はそう思って黒を宥めた。
黒髪小僧は彼岸を一瞥したが、言葉はまるきり無視して夢野に問いかける。
「あなただって僕が嫌いでしょう。契約だから、我慢するんですか」
「そうだよ」
夢野は歩みを止めずに口を開く。それを聞くには、自分たちも進まねばならなかった。彼岸と黒髪小僧は、自然彼に近づく形になる。
「おまえは想像だにしなかったろうけどね、なんとかしなきゃと思ってた」
話は終わったのかと思うほど長いだんまりのあと、夢野は切り出した。なにがなんだか、彼岸はもうついていけなかった。
「こんなぼくでも、ほんとうはさ、期待していたんだよ」
「……何を?」
尋ねたのは彼岸だった。夢野の話し方がいつもどおりになっていたからだ。
「猫神先生と白髪小僧のような関係や、ユカリと菫髪小僧のような関係をさ。……いまでは、きみと緋髪小僧の関係がいちばんの理想になった。でももう無理だ」
「……何の話だよ」
「……ぼく自身の悪いところが思いつかないんだ。ぼくの何が悪くておまえがこうなったのか、皆目見当もつかないんだよ、」
夢野が何に苦しんでいるかがわからなかった。主人と使い魔の関係なんて、考えて出来上がるものじゃない。それぞれがそれぞれの形でつながっていればそれでいい。悪いとか、落ち度とか、そんなことじゃない。そのはずなのに、黒髪小僧がきてからの夢野は、いつだって不満そうで、妬ましそうだった。
「ねえ、黒髪小僧。どうしてちゃんと言わなかった。ぼくにどうあってほしいとか、自分がどうしたいとか。こんな駄々っ子みたいな真似をする前に」
彼岸は、夢野が思うほど自分自身を間抜けだとも鈍感だとも思っていなかった。夢野が使い魔とうまくいかないのは自分とばかりつるんできたせいだと思っていたし、黒髪小僧や緋髪小僧を連れて歩くのを彼が快く思わないのは、ふたりだけで遊びたいという慣れからくるものだと思っていた。そのくらいの想像力を働かせることはできる。全部とは言わないまでも遠からず近からずのレベルで、自分の推測は当たっていたとは思う。だからといって気を遣うことはしなかったけれど。
でも、もしかしたら、自分が想像する以上に夢野にとっての黒髪小僧の存在は重大だったのかもしれない。それはもう、悪い意味で。だからこそ彼岸には、夢野の苦悩のこの側面がまるでわからなかった。
「でも、いいんだ。これで判ったよ。できるだけ、おまえにはぼくの時間を割かない。どんな意味においても」
夢野はゆっくりと顔を黒髪小僧に向けた。無表情じゃない、悪意を持った笑顔で彼は言った。
「ああ、でも、その『ぼくの時間』はおまえによってもたらされているんだったね」
黒髪小僧は、夢野のこの言葉と表情に瞳孔を開く。
「……このっ!」
「おい!」
「彼岸、いいんだよ」
黒髪小僧はカッときた勢いで飛び掛ろうとするものだから、彼岸があわてて取り押さえるのだけど、夢野はのんびりとした調子でまるで相手にしていなかった。彼岸は恐ろしく思う。なんだかちぐはぐで、夢野が夢野でなくなってしまったような、なにかが壊れてしまったような不安に襲われた。
彼は黒のところへ戻ってきて、彼のマントで拳を拭いた。血でもついたのかと思いきや、泥をふき取っていた。殴った時についたのだろうか。
彼は自分よりも背の高い使い魔の襟首をぐいと引っ張り、顔を間近にして囁いた。
「ねえ、黒。ほんとうにぼくを憎むのなら、解決策を教えてやろう。おまえが死ぬか、ぼくを殺すかのふたつにひとつだ。でもね、ぼくは『おまえ』でなくったって構わないんだ、ちっとも」
ぼくが用があるのは、おまえの魂のほうだから。と彼は突き放しながら付け加えた。黒は彼岸に支えられたままよろめいた。夢野は押し倒す心積もりで手を離したのだろう。腕の中の黒髪小僧の存在感が薄らいでいくようだった。
「ぼくはどうかしている。こんなことをわざわざおまえに言ってしまうくらいなんだ。きっと、まだ期待しているんだね」
なにが? ともう一度問うことはしなかった。夢野が思うよりも、彼岸は察しが悪いわけではないから。だけど、人並み以下なのは間違いない。黒髪小僧であれば、もっと繊細に受け取れているはずだ。それで彼が何か変わるとは言わないけれど。
「彼岸、手間をかけさせて、心配させて悪かった」
「いや、そんなことはいいんだよ、でもおまえ、」
夢野は小さく笑ったきりだ。
彼岸への労いの言葉を最後に、夢野はもう一言も発さなかった。だからといって彼岸は、黒髪小僧とのんきにお喋りしながら楽しく帰ることもできない。アリスの家までの距離はひどく長くて、一日が終わってしまいそうだと思った。彼岸は盛大なため息をついて髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
「……おまえ、ちょっとは反省してるのかよ」
彼岸は黒のすねを蹴って小声で言った。黒髪小僧は冷めた様子で彼岸を見下ろし、ふいとまた前を向く。
「……てめえ。『彼岸様』が話しかけてやってんだろ。その態度はなんだよ」
彼岸は腹が立って彼の背中を蹴った。黒マントには見事な足型がついたけれど、黒髪小僧は落とそうともしなかった。よく、わかった。と彼は心の中で言った。
夢野は目を覚ましたように違う面を見せたけれど、こいつは猫かぶりをやめただけだ。こいつは、生神一般を憎んでいるんだ、と。主人に懐かないのだ、彼岸に媚びるわけもない。
夢野が悪いわけがない。ぜんぶ、こいつの自分勝手が悪い。たとえ夢野が、こいつと向き合うことから逃げ続けていたのだとしても。
アリスの家で待ち構えていたのは、呆れ顔のアリスと、怒り顔のアイビーと、最悪の情報だった。神殿の森へと飛び出してしまったふたりを案じたアリスが咄嗟に猫神にヘルプを送っていたことで、それは発覚した。猫神に連絡がつかないのだ。確かめようとしたアリスの元には、政治局の面々からの報告が届いた。猫神は拘束されているということだった。猫神はすでに、ルスラノヴィチの手中に落ちていた。
猫神の拘束から一晩たって、12主人の「リーダー」は12主人会議を召集したのだった。毎度移動する城までの道案内のために、アイビーが迎えに来ていた。
アイビーはとてつもない拳骨を彼岸と夢野、それから緋髪小僧と黒髪小僧にかました。今がどんな状況かわかっているのか、遊んでいる場合じゃない、と。アイビーは今晩自分たちに何があったのか知る由もないのだから、遊んでいたと思うのも無理はなかった。もともと遊び歩いてばかりで信用のない自分たちも悪いのだし、誰も事実を口にしようとはしなかった。
「ったく、教え子がこんなアホじゃ、独房の猫神も泣くに泣けないだろうよ!」
アイビーは帽子をぱんぱんと叩きながら嘆いた。彼岸は頭をさすりながら涙目でつっこむ。
「いや、あいつはそんなタマじゃないだろ」
「おだまんな! 彼岸」
彼岸はアイビーの頬をつねられて、いたたたた、と大騒ぎだった。そのおかげで、彼らの妙な雰囲気の悪さは彼女には伝わることはなかった。
「ねえアイビー。それより猫神先生は」
夢野はアイビーのコートを引っ張った。アイビーは飽きたようにパッと彼岸から手を離し、むすっと腕を組んだ。
「今回ばっかりは猫神の分が悪いね。なんたって、ルスランは全身全霊、膨大な時間をかけて猫神のあら捜しをしてきたわけだから。今回の件は、言い換えりゃルスランのライフワークの、研究発表会ってことだろう。猫神ができるのは、命乞いと謝罪しかない」
「そんなのってない! それって、ルスラン議長が猫神先生を侮辱したいだけじゃないか!」
「でもな、アリス。襲われた奴がいるんだ」
アイビーは憂いをたたえた瞳で、悔しそうに零した。アリスもはっとしたようで、猛った心を静めているようだった。
「……さて、時間がない。移動装置を使って飛ぶよ。それでもかなり歩くから覚悟するんだね」
さっきまで散々歩いたり走ったりしたあとだったので勘弁してほしい。えええ、と思わずもらした彼岸は、またしてもアイビーの槌を脳天にくらったのだった。
◇◆◇
会議場には、彼岸たち以外のすべての主人が一堂に会していた。普段顔を合わせないメンバーもいるので、全員に会うのは久しぶりだ。
育成局教官のカリーナと黄髪小僧、橙髪小僧と橙の主人、桃髪小僧と桃の主人。そして銀髪小僧と、次期最高神官の呼び声が高い銀の主人。
じっと見ていると、彼が「よお、」と口を動かしたような気がした。彼岸はわざとらしく目線を外す。
「老害がいきがってんなよな……」
彼は誰にも聞こえない音量でつぶやいた。
老いている、といってもそれは中身の話だ。銀の主人も、外見はオルとそう変わらない少年だ。彼岸たちがぬいぐるみみたいな大きさの時からそんな姿だったから、他のおとなたちと一緒くたにしてしまいたい存在だ。
銀たちと対角線上にいるオルは、むっつりと腕を組んで目を閉じている。大先輩たちに囲まれていても怖気づいている様子はまったくない。反対に、使い魔の金髪小僧はきょろきょろとあたりを伺っていて落ち着きがない。
下座にいるユカリは例の困り笑いの顔で小さく手を振っていた。昨日の今日だというのに、彼はまったく気にしていないようだった。手を振り返す余裕はない。彼岸は眉根を寄せて、拒否の意を示した。
そして、座卓の最奥に座る男が静かに口を開いた。
「遅かったな、アイビー」
ゆったりとした笑みを浮かべて、彼は組んでいた指を外した。他のメンバーよりも肉体年齢が高そうだった。この者が、招集をかけた「リーダー」らしい。彼の後ろには、カーキの軍服めいたものを着込んだ女が佇んでいる。
「ガキどもが能天気にピクニックをかましてたもんだから遅くなっちまった。なんのための待機令だよ、まったく」
アイビーは、夢野と彼岸の頭を掴んで前に突き出した。そのまま、謝罪するよう急き立てられた。
茶髪の男は、もみくしゃにされた彼岸と夢野を見て楽しそうに笑っている。
「将来有望だな、赤と黒」
「ちょいと! 叱ってくれよお前たち。猫神はいまいないんだから」
アイビーがそういったとたん、場の空気はぴしりと張り詰めた。みなの顔つきが強張ったからだ。この場はきっと、猫神救出のために設けられたものだ。
「……敵さんは練りに練った作戦を遂行している最中だろう。俺たちもまた、出遅れたことを理由に黙ってみている謂れはない」
みな、それぞれ肯定するように頷いた。
「大会議からも、研究所からも、神殿からも独立した俺たちだ。何をするかは俺たちが決める」
彼は円卓に短剣を突き刺した。すると、ささくれ立った地面に水がしみこむように、テーブルの隅々まで根を張るように、まばゆい光が走っていった。それを合図にして、全員が立ち上がった。
「……時間だ。はじめよう、12主人会議を」
アッパーライトに照らされた男は、力強く宣言した。