第9話 皇子の選んだ隣
武功祭の会場は、皇宮の大広間であった。
高い天井からは金糸を織り込んだ幕が幾重にも垂れ下がり、磨き抜かれた大理石の床は灯火を映して星空のように輝いている。壁には歴代皇帝の戦勝を誇る旗が並び、その一つひとつが帝国の歴史を刻んでいた。
昼から始まる表彰式を皮切りに、晩餐、そして夜更けまで舞踏会が続く。まさに帝国最大の祭典にふさわしい荘厳な舞台である。
ざわめく貴族たちが視線を注いだのは、壇上に立つ皇帝の姿だった。
重厚な威容を誇る帝位の椅子から、ゆるやかに立ち上がる。
響いた声は広間の隅々にまで届き、誰もが自然と息を呑んだ。
「勇を讃え、功を記す」
名が告げられた瞬間、空気が変わった。
――エリナ・ヴァルトハイム。
その名に注がれる視線の重さを、彼女は全身で感じていた。
深呼吸ひとつ。
そして、迷いなく歩み出た。
若草色のドレスは飾り気がなく、宝石の輝きを競う貴族令嬢たちの中ではいかにも地味だった。だが、その背筋はまっすぐに伸び、ひと足ごとの歩みは揺るぎない。簡素であるがゆえに、その凛とした姿が際立っていた。
観覧席の一角。
公爵令嬢ドロテアが扇を傾け、わざとらしくくすりと笑う。
「まあ、辺境の流行かしら。ずいぶん質素なこと」
取り巻きたちが同調するように笑い、小さな嘲笑が波紋のように広がろうとした。
だが、その波は一瞬にしてかき消される。
皇帝の前に進み出たエリナが、すっとひざまずき、静かに頭を垂れたのだ。
無駄のない動き。ただ誠実さと気高さを宿した所作。
それはどんな豪奢な衣装よりも清らかで、見守る人々の息を奪った。
勲章が与えられる瞬間、広間に静寂が訪れ――
次の刹那、万雷の拍手が轟いた。雷鳴のような喝采が、白亜の壁に反響して揺れる。
人々は悟った。
辺境の娘の背にあるものは、誇りであり、帝国を支える確かな力だと。
レオンハルトは群衆の中でただひとり、無表情を保ちながらも、胸の奥が熱くなるのを抑えられなかった。
まるで自分のことのように誇らしかった。
敗北した相手であり、隣に立ちたいと初めて望んだ相手――その堂々たる姿を。
そのとき、ドロテアの扇はぎり、と音を立てた。
紅を引いた唇を噛み、白い指先に嫉妬と屈辱が滲む。
彼女の胸を焼くのは、ただの敗北感ではなかった。
――あの氷の皇子の視線が、確かに辺境の娘へと注がれていることを、痛烈に悟ったからだ。
◇
夕刻、表彰式を終えた広間は姿を変え、長大な卓が並べられて晩餐会が始まった。
銀の燭台に灯る炎が揺れ、香ばしい肉の匂いと芳醇な葡萄酒の香りが満ちる。
レオンハルトは当然のようにエリナの隣に座り、まるで侍従のように気を配った。
「パンのお代わりは?」
「飲み物は合っているか?」
気遣う声音は真剣で、傍らに控える給仕よりも先に手を伸ばそうとするほどだった。
普段は冷徹と呼ばれ、他者を遠ざける皇子が――一人の少女にだけ柔らかな微笑みを向けている。
その光景に、周囲の貴族たちは驚愕を隠せず、囁きが絶えなかった。
エリナは頬を赤らめながらも、楽しげに応じる。
そのささやかなやり取りは、豪奢な晩餐の彩りよりも鮮烈に人々の目を奪っていた。
◇
やがて夜が更け、煌めくシャンデリアの下で舞踏会が幕を開ける。
管弦楽が華やかに響き渡り、裾の長いドレスが次々と舞い広間を彩った。
レオンハルトは、ただエリナの隣を離れなかった。
誰かが近づこうとする気配があれば、鋭い蒼金の瞳で退ける。
氷の皇子の冷徹な気配に触れ、勇敢な青年貴族すら足を止めた。
「殿下、どうか私とも一曲を」
弦の合間を縫うように、澄んだ声が響いた。
豪奢な深紅のドレスに金糸を散らし、薔薇を思わせる華やかな美貌を湛えた公爵令嬢ドロテアが、完璧な所作で歩み出る。
裾さばきは淀みなく、扇の角度も優雅に計算され尽くしている。
長い睫毛を伏せて一礼し、柔らかな笑みを浮かべながら白い手を差し伸べたその姿は、誰が見ても絵画のように美しかった。
だが、レオンハルトの瞳は揺れなかった。
冷ややかに一瞥をくれただけで、短く告げる。
「……他を当たれ」
声音は鋼のごとく硬く、広間の空気を一瞬で凍らせた。
その拒絶は彼女の胸を鋭く抉り、微笑みは瞬く間に引きつる。
瞳に燃え上がるのは、嫉妬と怒り。
その炎は、隣に立つエリナへと憎悪の矛先を向けていった。
エリナはその視線に気づき、戸惑いに目を伏せる。
だがその瞬間、レオンハルトがすっと動いた。
まるで彼女の不安を遮るかのように前へ出て、差し伸べた手で彼女を守るように導く。
やがて、弦の音が新たな旋律を奏で始める。
レオンハルトは迷わずエリナの手を取り、ゆるやかにワルツへと誘った。
緊張を抱きながらも彼のリードに身を委ねるエリナ。
軽やかに舞う足取りは、次第に音楽と溶け合い、二人は自然に息を合わせていた。
若草色のドレスが弧を描き、柔らかな色の髪が揺れる。
その頬に朱が差し、掌からは温かな体温が伝わってくる。
そして――見上げる大きな緑の瞳と目が合った瞬間。
レオンハルトは悟った。
――敗北だ。
戦場でも、学問でも、誰にも遅れを取らなかったこの自分が。
いま、一人の娘の眼差しにあっさりと膝を折らされている。
抗いようもなく惹かれてしまった。
それこそが敗北であり、甘美な鎖だった。
この手を、離したくはない。
熱い衝動が胸を満たし、彼はただ、エリナの瞳を見つめ続けた。
◇
旋律が終わり、二人は静かに足を止めた。
エリナの頬にはまだ舞踏の熱が残り、レオンハルトの掌には彼女の温もりが刻まれていた。
周囲からは惜しみない拍手が湧き上がり、その場にいる誰もが二人の調和に魅せられていた。
音楽が次の舞曲へ移ろうころ、給仕たちが銀盆を携えて列を作り、客人へと酒杯を運び始めた。
その中の一人、若い侍女の手元が微かに震えていることに気づく者はほとんどいなかった。
盆に載せられた赤いワインの杯が細かく揺れ、光を反射して不自然に波打つ。
侍女はぎこちない笑みを浮かべながら、まっすぐエリナの前に進み出た。
次の瞬間、盆が傾き、紅の液体が一気に溢れ出す――。
だが、ワインは彼女の肌を濡らすことはなかった。
エリナの指先がわずかに動いた瞬間、透明な障壁がふっと張られ、液体は弾かれた。
杯ごと床へと落ち、砕け散る音が広間を凍りつかせる。
広間は一瞬にして静まり返った。
誰もが息を呑み、視線をエリナと割れた杯に注いだ。
ドロテアの瞳がかすかに細められ、唇が歪む。
憎々しげにその光景を見つめる彼女の顔には、思わず本心がにじみ出ていた。
しかし、エリナは眉をひそめることもなく、落ち着いた声で侍女に問いかけた。
「……大丈夫? けがはない?」
侍女は蒼白な顔で首を振り、震える手を必死に胸元へ押し当てる。
エリナは一歩近づき、そっと身をかがめて耳元に小さく囁いた。
「もしお咎めがあるようなら……辺境伯家にいらっしゃい」
その声は優しく、だが確かな意志を帯びていた。
涙ぐむ侍女が必死にうなずく姿を、周囲の貴族たちは驚きとともに見つめる。
横でその一部始終を見ていたレオンハルトは、ふっと口角を上げた。
(……俺の出る幕はないな)
彼の蒼金の瞳には、誇らしげな光が宿っていた。
エリナという存在が、ただ守られるだけの少女ではなく、己の力と心で立ち上がる人間であることを、改めて示した瞬間だった。
砕け散った杯の破片が片づけられ、再び音楽が流れ始めた。
人々はざわめきを収めながらも、視線の多くはまだエリナに注がれていた。
辺境の娘でありながら、危機をものともせず冷静に場を収め、さらに侍女を気遣ったその姿――。
彼女の凛とした立ち居振る舞いは、むしろ今の一幕でいっそう鮮烈に刻まれたのだ。
レオンハルトはその横顔を見つめていた。
強さだけではない。優しさだけでもない。
両方を併せ持ち、周囲を照らすように立つ少女。
胸の奥で、どうしようもなく熱いものが膨らんでいく。
気づけば、彼の視線は彼女から離れなくなっていた。
(……君だけなんだ)
心がこの一人の少女に、あっさりと攫われてしまった。
エリナが振り返り、緑の瞳が一瞬、彼の蒼金の瞳をとらえた。
その瞬間、レオンハルトは無意識に息を詰めた。
彼女の瞳に、自分の姿が映っている――。
ただそれだけで、甘い衝撃が全身を貫く。
自分の庇の下に置き、守りたいなどという考えは、この少女には不要であり、その輝きを曇らせる思いに他ならなかった。
隣に立ちたい。
隣に立ち、未来を共に歩みたい――そんな衝動が、確かな形を持ちはじめていた。
音楽が再び盛り上がる中、彼はそっとエリナの手を取った。
華やかな広間の喧騒も、眩い灯火も、すべて遠のいてゆく。
彼の世界には、ただひとり――エリナだけが残っていた。




