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第2話 初めての敗北

 帝都の武道大会は、年に一度、秋の乾いた風が広場を抜ける頃に開かれる。

 円形闘技場は白い石で積み上げられ、観覧席は三層に分かれ、皇族・貴族・市民がぎっしりと詰めかけていた。


 帝国中から腕自慢が集い、剣も槍も魔法も――なんでもありの異種格闘技戦。

 勝者を決めるのは一対一の過酷なトーナメント方式。


 ――レオンハルト・フォン・オルデンブルク。


 黄金の髪が陽を受けて揺れ、蒼金の瞳が澄んだ光を放つ。

 彼が砂地に立つだけで、場内はざわめき、圧倒的な存在感に誰もが息を呑んだ。


 その舞台に初めて立ったのは、まだ八歳のとき。

 訓練を始めたその年にすでに師を凌駕していた彼は、それから一度も敗北を知らない。

 幼き皇子の無敗伝説は瞬く間に帝国全土に広まり、いまや彼の名を知らぬ者は存在しなかった。


 審判役の神官が三打の鐘を鳴らす。

 その音は帝都のどの鐘よりも澄みわたり、空気を震わせた。


 観覧席は総立ちとなり、歓声は嵐のように渦を巻いた。

「無敗の皇子だ!」

「また勝利を刻むぞ!」


 その名が呼ばれるたび、熱はさらに燃え上がり、円形闘技場はまるで沸騰する大釜のようだった。

 誰もが知っている。今まさに、帝国最強の皇子がまた一つ、伝説を書き加えようとしているのだ――。


 白い砂に伸びる影は真っ直ぐに揺るがない。

 ――だが、彼の胸中には冷めた吐息しかなかった。


(また、同じだ)


 右腕の筋肉の張り、左足の踏み込み角度、観客のざわめき、陽の角度――すべてが等式に置き換わる。

 初撃で相手の剣を外へ払う。二撃目で膝を崩し、三撃目で喉元を制す。

 勝ち筋は鐘の音を待たずに組み上がり、ただなぞるだけの作業となる。


 その日も五人の挑戦者が現れた。

 巨漢の騎士、魔法を操る術士、二刀の剣士、槍の達人、大槌の闘士。

 だが誰一人、三撃以上はもたなかった。


 喝采が爆ぜても、彼にとっては灰色の繰り返しにすぎない。


 ――そして、決勝。

 

 砂塵の向こうから現れたのは、飾り気のない黒の軽鎧を纏った小柄な騎士だった。

 兜の面には細い十字の視孔が刻まれているだけで、素性を窺わせるものは何一つない。


 対戦相手は「黒の無名騎士」と呼ばれていた。

 ここまでの勝ち上がりは鮮烈だった。


 巨躯の槍兵を翻弄し、魔術師との戦いでは砂塵を巻き上げて詠唱を断ち切る。

 怪力自慢の拳闘士には隙を突いて勝利し、鎖鎌の使い手には逆に鎖を絡め取って引き倒した。

 さらには獣化の戦士すら冷静に足払いで転がし、刃を添えて降参させたのだ。


 その軽快さと的確さに、観客は何度も総立ちとなり、熱気は闘技場の屋根をも震わせた。

「何者だ?」

「黒の騎士は強いぞ!」

 その呼び名は瞬く間に広がり、誰もが決勝を待ち望む空気となっていた。


 だがレオンハルトにとっては、依然として退屈な舞台のひとつ。


(また、処理して終わるだけだ)


 彼はそう思い、構えた剣をわずかに下ろす。


 ――三打目の鐘が鳴る。


 砂が跳ねた。

 黒い騎士が、風を掴むような速さで踏み込んでくる。


 細い。だが速い。

 剣先が小刻みに呼吸するように揺れ、レオンハルトの剣の上に、羽根の重みだけを置いてくる。


(軽い剣。短い柄。間合いは半歩内)

 反射で読んだ。セオリーどおりなら、右へ躱して肩口を払う。


 払えるはずだった。


 鋼と鋼が触れ、澄んだ音が跳ねる。

 重さではなく、角度で受け流された。

 黒い騎士のつま先が砂を掻き、体幹だけがスッと沈む。

 重心が落ちた瞬間、剣の腹がレオンハルトの手首を掠め、力が抜け落ちる。


(俺の手首を――!)


 驚愕に一拍、鼓動が跳ねた。

 次の拍で、レオンハルトは真正面に剣を置き直し、間合いを切り替える。


 一撃。二撃。三撃。

 四撃目――兜の紐が緩み、宙に舞う。


 観客の息が一斉に吸い込まれる。音が消え、風だけが走った。

 陽光の下に現れたのは、幼さを残した横顔だった。

 

 白い頬、小さな顎。

 汗で張りつく前髪の下、澄んだ緑の瞳がまっすぐに彼を射抜く。

 そこにあったのは驚きではなく、戦いの只中にある者だけが持つ、静かな集中だった。


 レオンハルトの脳裏で、数式が崩れ落ちる。

 すべての予測の糸がぷつりと切れ、言葉が漏れた。


「……女――?」


 その一瞬。

 ほんの砂粒ほどの空白。


 黒い騎士――少女は、迷わなかった。

 左足の踵が砂を噛む。半身が沈む。

 剣の柄がレオンハルトの剣の下へ潜り、鈍い音を立てて胴鎧の中央を打ち抜く。


 鉄が呻き、低く重い響きが闘技場の床を震わせた。


 審判の旗がひるがえった。


 ――白。

 勝者の旗。


 観客席が、遅れて爆ぜた。

 悲鳴、歓声、驚愕のざわめきが渦を巻き、白い石壁に反響する。

 レオンハルトは数歩、無意識に後ろへ退いた。痛みはない。打突は規定に従って刃を潰してある。

 だが胸腔に落ちたものは、熱を帯びて膨らんでいく。


(負けた……? 今、この俺が――)


 目の前の少女が兜を抱え、短く礼をした。

 作法は簡素で、ぎこちなささえある。だが不思議と、その礼は真っ直ぐで、美しかった。


 砂の匂いが、やけに鮮烈に鼻を刺す。

 視線の先、勝敗表の赤い印がゆっくりと動き、皇子の名の横に初めて違う色が書き込まれていく。


 少女は踵を返し、退場門へ向かった。

 軽い足取り。肩は揺れず、背筋は細いのに、折れない芯を持っていた。


 レオンハルトは動けなかった。

 初めて、計算が追いつかない。

 初めて、心臓が戦いの外で跳ねている。


 ――女。

 ――あの目。


 恐れず、迷わず、ただ目の前の戦いを射抜いていた瞳。


 側近のローレンツが砂を蹴って駆け寄る。


「殿下! ご無事ですか」

「……ああ」

「まさか、殿下が……!」


 言葉を続けかけ、ローレンツは慌てて口を噤んだ。

 敗北の二文字を声にすることが、あまりに恐ろしかった。


 レオンハルトは、微かに笑った。

 笑い方を忘れていた頬の筋肉が、ぎこちなく動く。


「――面白い」


 その一言に、ローレンツの背筋が震えた。

 皇子が「面白い」と口にするとき、それは必ず嵐の前触れだった。

 あるいは――帝都そのものを揺るがす兆し。


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