第10話 夜に重なる想い
夜更け。
舞踏会の喧騒はとうに遠ざかり、皇宮は静けさに沈んでいた。
レオンハルトは私室の寝台に身を横たえていたが、まぶたはひとつも重くならない。
瞼を閉じれば、すぐに浮かぶのは――エリナの姿。
若草色のドレスを纏い、無垢に笑った顔。
ワルツの調べに合わせて軽やかに舞った足取り。
こぼれたワインを弾き、怯える侍女を気遣った横顔。
ひとつひとつが鮮烈に胸を焼き、眠りを遠ざけていく。
(……なぜ、これほどまでに)
戦場に立てば、どれほどの死地でも心は揺れなかった。
学問に挑めば、どの学派の学者であろうと論破できた。
勝利と征服だけを当然のように積み重ね、敗北など一度もなかったはずなのに――。
たった一人の娘の笑顔に、こうも翻弄されるとは。
彼は無意識のうちに、懐から布を取り出していた。
――前日、訓練場で手合わせを終えたあと、エリナが差し出してくれた小さなハンカチ。
汗を拭けと渡されたそれは、まだ彼の指先に確かな温もりを残している。
指先で布の端を撫でる。
これまで何ひとつ執着を抱かなかった自分が、今はただこの布切れに縋っていた。
(……もう、戻れぬのかもしれぬ)
初めて、認めざるを得なかった。
これは敗北だ。
だが戦場や学問での敗北とは違う。
抗いようのない甘い炎に、自ら進んで焼かれていくような――。
胸の奥に芽生えた炎は小さい。だが、消そうとしても消えない。
むしろ日々、彼女の姿を見るたびに大きく育ち、いずれ己の世界を覆うだろうとわかっていた。
冷たき氷の皇子――。
そう呼ばれた男は、眠れぬ夜の中で初めて、自分がただの人間であると痛感していた。
◇
同じ頃。
帝都の外れにあるヴァルトハイム家のタウンハウスでも、ひとつの灯がまだ消えていなかった。
エリナは寝台に腰を下ろし、窓から差す月明かりをぼんやりと眺めていた。
ドレスを脱いでいつもの寝衣に着替えたはずなのに、胸の鼓動はまだ速い。
耳に残っているのは、舞踏会で響いた音楽。
――そして、彼の低い声。
「他がどう思おうが、俺は君がいい」
出発の折に告げられた、その言葉が脳裏を離れない。
思わず胸に手を当てる。
まだ、そこには残響のような脈打ちがある。
(……たった二度、剣を交えただけなのに)
驚きと戸惑いが心を満たす。
戦場でも、訓練場でも、どんな相手の前でも決して怯むことはなかった。
けれど――殿下と目を合わせ、手を取られただけで、こんなにも揺れてしまう。
浮かぶのは、彼と踊ったときの感触。
手を握る掌の熱。
視線を合わせた瞬間、胸を貫いた甘い痛み。
彼女は首を振り、深く息を吐いた。
(いけない。殿下は帝国の皇子。私は辺境の娘にすぎない)
わかっている。
わかっているはずなのに――胸の奥の高鳴りは、どうしても否定できなかった。
エリナは枕に顔を埋め、声にならぬ吐息をこぼす。
叶わぬ想いだと理解している。
けれど彼の言葉と笑顔は、否応なく心を温め続けていた。