司祭アンバー
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街を取り巻く山々から太陽が顔を覗かせるよりも早く、ひびきとミラルは教会の門を叩いていた。
もう少し日が昇ってから行くと思っていただが、ミラルが「聖職者っていうのは朝が早いから」と言い出し、こんな時間に来ることになった。
失礼なことをしていると心苦しく思いつつ、ひびきは教会の扉を開ける。
昨日と同じように膝をついて床を磨いていたムートが、すぐにこちらへ気づいて顔を上げた。
「おはようございます。今日もこれから遺跡の方へ行かれるのですか?」
「違うわ。ちょっとシャパド教の話を聞きたいの。司祭様には会えるかしら?」
ムートは立ち上がり、快く微笑む。
「きっと大丈夫だと思いますわ。少しお待ち下さい、司祭様にお伝えして来ますから」
膝を手で払ってから、ムートは小走りに奥の部屋へ向かった。
静まり返った教会の祭壇を、ひびきはおもむろに見上げる。
昨日と変わらず木製の女神像が、慈悲の笑みを湛えてこちらを見下ろしている。朝の肌寒い空気が、教会の中をより神聖に見せていた。
だがシアの顔を思い出すと、途端に作り物の神気が薄っぺらく感じてしまう。
思わずひびきは呟いていた。
「この女神像とシアが同じだなんて、信じられません」
「アタシも同感。この像が男の神様だったら、まだ信憑性あるけどさ」
ミラルが肩をすくめて「でも、あれが女神なのよねー」とぼやく。
あの雄々しい女神にあるのは、慈愛ではなく逞しさ。包容ではなく放任。この場で祈りを捧げても、祈りは女神に届かない気がする。
偽りを祀っているように見えてしまい、ひびきは複雑な気分になりながら祭壇を眺め続けた。
間もなく、ムートが修道服を着た年配の男を連れて来た。
男は口や顎を豊かな白髭で覆い、目尻の皺を笑みで深く刻んでいた。ムートと同じく穏やかな雰囲気が漂い、まぶたに重なるほど長く伸びた白い眉毛が特徴的だ。
大きな鼻と髭を動かして唾を飲んでから、男は「あー」と口を開いた。
「これはこれは……とても美しいお客さん方だ。ワシはアンバー・ガゼインと申すが、君たちの名は?」
「アタシはミラル。こっちはひびき。会えて光栄だわ」
ミラルに紹介され、ひびきは頭を下げようとする。と、アンバーが手をかざして首を振った。
「そう畏まらないで欲しい。司祭と言っても名ばかりじゃ。この地域に根付いた小さな信仰と教会を守る役目があるだけの、単なる老いぼれだからのう」
やはり司祭だけあって、アンバーの品位ある言動だけで心が洗われる。ひびきは会釈の代わりに微笑みを浮かべた。
「お気づかい、ありがとうございます」
「シャパド教のことを知りたいとムートから聞いておるが、何を知りたいのかね?」
ミラルはポケットから万年筆と革の手帳を取り出し、アンバーへ尋ねる。
「まずは、シャパド教の成り立ちを教えてくれるかしら?」
「うむ……何百年も昔に遡る。シア様がこの地に来られた時、人々がシア様を崇めたことが始まり。じゃが、シア様は眠りにつかれてしまい、我らはその眠りから覚めるのを心待ちにしながら、この地に根付いた信仰を守り続けているんじゃ」
アンバーが言い終わってすぐ、話を手帳に書き記しながらミラルは質問する。
「どうして女神が眠りについたのかは、伝わっていないの?」
「口伝では、女神様はこの地にあった国を深く愛されていた。だが、その国が滅んだことを悲しみ、再び豊かな国が甦るようにと願って眠りにつかれた。……その国の名は、アドゥークと言ったそうだ」
遺跡のことを思い出しているのか、ミラルは少し唸ってから口を動かした。
「マニキス山にある神殿遺跡を造った国がアドゥークなんでしょ? アタシも遺跡に行ったけれど、あの一帯は雪や岩肌ばかりで、国があった形跡なんてどこにも見当らなかったわ。まるで――」
「滅んだ、というよりは消えた。もしくは存在しなかった……ミラル殿はそう思ったのではないか? あの遺跡はシャパド教の古き神殿だからのう。ワシも若い頃に何度もマニキス山へ行き、同じことを感じたものじゃ」
ペンを走らせていたミラルの手が止まる。「ふうん」と声を漏らし、指で手帳を軽快に叩いた。
「なぜアドゥークは滅んだのかしら? 大きな国があった割に、残っている遺跡は少ないんだもの。語られる歴史が少なすぎて、なかなか取っ掛かりが掴めないのよね」
「国は焼かれたと聞いておるが、誰が、どうして焼いたのかは伝わっておらぬ。他国に攻められたのか、謀反が起きてそうなってしまったのか、今となっては誰にも分からぬのう」
アンバーは感慨深げに目を閉じて仰ぐ。
「今はこんな大きな街になったが、ワシが小さかった頃は、民家が十数件しかない小さな村だったよ。それ以外は、山や森や草原しかなかったんじゃ。……ワシらは口伝から失われた国をぼんやりと思い浮かべることしかできなかったんじゃよ」
小さく「やっぱりそうよねー」とミラルは相槌を打つ。と、急に手を止めて顔を上げた。
「それにしても、こんな極寒の辺境によくこれだけ大きな街が出来たわね。司祭様は理由をご存知?」
「ああ、知っているとも。この地はキネーシャ大陸北部の寒冷地でありながら、豊かな土壌を持っておる。この地で作物を育てば豊作は約束され、未だかつて不作だった年はない。これを知った人々が移り住んで、今のラマノの街が出来たのだ」
一旦言葉を止め、アンバーは後ろを振り向き、女神像をうやうやしく見上げる。
「きっと女神様の恩恵を受けているためじゃろう。豊かな国を取り戻すために女神様は眠りについたとされておるから、この街を喜んで見守っていらっしゃるだろうのう」
マニキス山を下りる際に見えたラマノの街は、街を取り囲むように数多の畑が広がっていた。確かに女神の恩恵があると信じたくなる光景だった。
しかし、一人称「オレ」の男らしい女神を脳裏に浮かべると、ひびきの胸の中がもやもやとした。
不意に、アンバーから髭でくぐもった笑いが聞こえてきた。
「この話をするのはレスター博士以来じゃ。君たちも女神様の研究をなさっておるのかな?」
ミラルは微笑を浮かべながら、小さく首を横に振った。
「研究者じゃないわ、アタシは作家。『傾国の女神』を題材にして、物語を書こうと思っているの。今はその資料集めをしている最中よ」
「ほうほう、作家さんじゃったか……ん? まさか、あの有名なミラル・ガジェット?」
目を見張るアンバーへ、ミラルは眉を上げた。
「あら、知っていてくれて光栄だわ」
「知ってるもなにも、家に本が何冊かある。実に面白い童話を書きなさる。子供だけでなく、ワシも楽しんで拝読しておるよ。いやはや、この地を舞台にしてくれるとは嬉しい話じゃ。ミラル殿、喜んで協力しますぞ。どんどん聞いて下され」
心なしかアンバーの頬が紅潮し、姿勢が前のめりになる。さらに協力的になった手応えを感じてか、ミラルが嬉しそうに破顔した。
「ありがとう司祭様、遠慮せずに聞かせて頂くわ。じゃあ……女神がどこに眠ったのか、分かるかしら?」
「アドゥーク最後の王、アデル王の棺へ共に入り、眠りについたと伝わっておる。アデル王と女神様は想い合って夫婦になったそうじゃから、もしかすると女神様とは、王の后を称えていた呼び名かもしれんのう」
……夫婦? あのシアが?
アンバーの話を聞きながら、ひびきは目を白黒させる。
当初は宝石だと思っていたせいで、『傾国の女神』を愛でて后にまでしたという伝承は信じられなかった。だが、女神そのものだと知った今は非常に得心がいく。
しかし、女神らしさの欠片もない上に、王の后という気品と威厳に満ちた肩書きが、あまりにも似合わない。アデル王はよくシアを后にしたものだと、妙に感心してしまう。
動揺が続くひびきを置いて、ミラルは質問を続けた。
「アデル王の墓を作ったのは、司祭様たちの祖先……シャパド教の信者かしら?」
「そうじゃ。女神様の御遣いである蛇たちに守ってもらおうと、蛇を放ったのもワシらの祖先じゃ。おかげでパドの森は蛇の楽園となってしもうたがな」
アンバーの苦笑につられ、彼の後ろにいたムートも苦笑する。しかしミラルだけは嫌悪の表情を見せない。
「素敵な森だったわ。他の人は嫌がっていたけど、アタシはあの森好きよ。また機会があれば行きたいわね」
迷いなく通る声から、これが皮肉でもお世辞でもなく、ミラルの本音であることが伝わってくる。
こればかりはひびきも共感することはできなかった。アンバーとムートも同様の思いを感じてか、笑顔が強張っている。
昨日の蛇だまりを思い出し、ひびきは「私は怖かったです」と口を挟む。
ミラルは不思議そうに首を傾げたが、残る二人は細かく頷いた。
「きっとミラル殿は、森の主に会っておらぬから――」
「いえ、森の主には遭遇しました。私の背丈よりも大きな頭の大蛇で……イグニス先輩が大蛇を気絶させて、ようやく遺跡の中に入ることができました」
ひびきの言葉を聞いた途端、アンバーの顔から笑みが引く。
「……遺跡に、アデル王の墓に入れたのかね?」
「ええ、入れたわ。何百年も経った建物と思えないほど、すごくきれいな遺跡だったわ。……もしかして、余所者の私たちが入ったら都合が悪かったかしら?」
腹を探るように、ミラルが目を細めてアンバーを見る。
真顔になったのは一瞬だけ。すぐにアンバーは、にこやかな顔に戻る。
「まったく問題ない。まさかあの大蛇を倒して遺跡に行けるとは……こりゃ驚いたわい。ではレスター博士の研究も進んだのじゃな。ずっと調査できずに煮詰まっておったからのう……また折を見て話を聞きたいものじゃ」
ミラルはざっと書いたメモを見てから顔を上げ、いつもより胡散臭い爽やかな笑顔を見せた。
「今日はこれで十分ね、ありがとう司祭様。また知りたいことが出てきたら、聞きに来てもいいかしら?」
「もちろんじゃとも。こんな老いぼれの話でよければ、いくらでも聞いてくだされ」
お世辞ではなく、本心からの言葉だろう。アンバーの声はどこか楽しげだった。
「本当にありがとう。じゃあアタシたちはこれで……ひびき、行くわよ」
こちらに目配せして、ミラルが踵を返す。ひびきもアンバーたちに一礼してから、彼女の後を追う。
扉を開けようとした時、ミラルが立ち止まって振り返った。
「あ、そうだわ。ラマノの街で、よく地元の人が集まるお店ってあるかしら? せっかくだから、他の人からも街の歴史を聞きたいの」
何度が顎髭をなでて一考すると、アンバーは「あそこがいいかのう」と呟いた。
「街の広場にあるファーデン食堂じゃな。食堂の店主はワシとも古い付き合いで、地元の者たちがよく集まっとる」
「ええ、私もよく行きますわ。特に季節のシチューがおススメですよ」
アンバーの隣に並んだムートが、女神よりも女神らしい慈愛の微笑を浮かべていた。




