豊穣の女神
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一夜明け、山際が白ばみ始めた頃。
パンとハムだけの簡単な食事を済ませてから、セロを留守番に残し、一行は家から出立した。
市街地を迂回するようにして、東にあるパドの森へと続く街道を歩いていく。
吐き出す息は白く、冴えた空気に身が引き締まってくる。マニキス山頂上に比べれば暖かく、この肌寒さが心地良かった。
ひびきは食料や文献などを入れた革袋を持ち、颯爽と歩いていく。と、横を歩いていたミラルが顔を向けた。
「あら、調子よさそうじゃない。イグニスと同室でよく休めたわね」
「もう慣れました。それに強力な助っ人もできましたから」
助っ人? とミラルが首を傾げていると、前を歩いていたイグニスが振り返る。その顔は今にも泣き出しそうな、朝から不景気に沈んだ顔だった。
「ひびきちゃんとセロが、俺たちの部屋に罠をを仕掛けたんだよ。ひびきちゃんのベッドに俺が近付いたら、金づちやら石やらが降ってくるんだ……あれは痛かった」
そう言いながら、イグニスが頭をさする。
本人いわく「布団をかけ直そうと思って近づいた」らしい。まさか一日目から罠が発動するとは思わず、ひびきは唖然となって、駆けつけたセロは生温かい目で、呻くイグニスを見ていた。
かなり大きな音だったが、ミラルとレスターが起きてくることはなかった。連日のように徹夜して調べ物をやったせいで、千尋の谷よりも深い眠りについていたらしい。
ふくくく、と声を押し殺してミラルが笑い、「知らなかったわー」と呟いた。
「アタシが見ていないところで、そんなおいしいネタやらないでよ。次やる時はアタシがいる前でやってよね」
顔は笑っているが、ミラルの目はやけにギラついている。冗談ではなく本気なのだと分かってしまい、ひびきのこめかみが痛くなってきた。
「何度もやられては困ります。もし次に同じことがあれば、私は外で野宿します」
こちらの宣言にイグニスの顔色が変わった。
「うわーっ! ゴメン、もう絶対にやらないから出て行かないで。心配だったらひびきちゃんが寝てる時は、俺をベッドに縛り付けても良いから」
……そこまでして同室でいたいのか。
ここまで言われると逆に身の危険を感じてしまい、ひびきは目を細める。
そんな二人を交互に見てから、ミラルは人の悪い笑みを浮かべた。
「どーしようかなー、どっちの味方についた方がネタになるかなー?」
歌うようにミラルが呟く。不穏な空気を感じて、ひびきは思わず尋ねた。
「あの、それはどういう意味ですか?」
「言葉通りよ。イグニスいじめにひびきの味方になるか、イグニスのひびき落としを応援するか……どっちの展開もオイシくなると思うのよね」
心底、やめて欲しいと言いたかった。が、ミラルの性格を考えると「じゃあイグニスの味方になるわ」と言い出しかねない気がして、ひびきはどうにか思いとどまる。
「そんなことよりも『傾国の女神』に集中して下さい」
「そーそー。余計なことを考えていると、売れる本が書けないぞ」
ひびきとイグニスが同時に釘を刺すと、ミラルは「えー」と不満そうな声を上げる。
しかし先を進みつつも、眉間を寄せて唸って悩み続けていた。
しばらく道なりに歩いていくと、道沿いに女人の石像が置かれた大きな建物が現れる。
屋根は付近の家と同じだが、汚れのない白壁と、いくつか壁に飾られた女性の横顔のレリーフが、辺りを神々しさを振り撒いていた。
先頭を歩いていたレスターが足を止めた。
「ちょっとここに寄っていきたいけど、いいかな? お祈りしていきたいんだ」
「え、あ、別にいいけど……もしかして、ここがシャパド教の教会かしら?」」
ずっと悩んでいたミラルが我に返り、建物を指さしてレスターに尋ねる。
「うん、そうだよ。この地域で発生したシャパド教は、豊穣の女神シアを崇めているんだけれど、遙か昔に『傾国の女神』を崇めていたっていう伝承も残っているんだ。だからいつも調査に行く時はここでお祈りしているんだ」
「ふうん。そういえばレスターが前に、《豊穣の女神と『傾国の女神』は同じだ》って論文を書いていたわよね。豊穣の女神を取り合った結果、国が傾いて『傾国の女神』に変わったってこと?」
興味深そうに尋ねるミラルへ、レスターが即座に頷いた。
「僕はそうだと思っているよ。『傾国の女神』と言われているけど、実際に国を傾けていたのは人々の争いで、女神自体は皆に愛され、人々と共にあり続けていたんだ」
レスターは恋人を慈しむような微笑を浮かべて石像を見上げた。普段の穏やかな顔が一段と和む。
「小さい頃から彼女の童話を読んでいたから、思い入れも強くなっちゃってさ……いつか彼女を『傾国の女神』から、豊穣の女神シアに戻すことが僕の夢なんだ」
なんて純粋な目的なのだろう。手に入れたら値段を吊り上げて売る、と言い切った作家とは大違いだ。
ひびきはミラルを一瞥してから、レスターの元へ歩み寄った。
「私もお供していいですか?」
「そう言ってもらえると嬉しいな。この教会はいつでも万人に開かれているから、誰が入っても大丈夫だよ。せっかくだから皆で行こう」
すぐにミラルは親指を立てて了承したが、イグニスから言葉は返ってこなかった。
いつも通りの飄々とした顔だが、わずかに下を向いてイグニスに影ができている。
「イグニス、さっさと行くわよ」
ミラルに促され、イグニスは大きく息をついた。
「はーいはい。分かってるって」
目を閉じて一呼吸置くと、イグニスはミラルの後ろについて来た。
レスターが教会への大扉を開けると、真正面に佇む祭壇が目に飛び込んでくる。
両脇は淡い色の花々が活けられ、中央には外の石像と同じ形をした飴色の木像があった。
そして青白い石が敷かれた床を、長い金髪の女性が雑巾で磨いていた。白い修道服を身につけており、それだけで清らかな印象を受ける。一拭きする度に、うねりのある柔らかな髪が揺れた。
一行に気づいて彼女が頭を上げる。薄氷の瞳と白い肌が美しい、見目のよい顔が現れる。
「あら、おはようございますレスター博士。珍しいですね、こんな朝早くに大勢でいらっしゃるなんて」
「おはようムート。これからパドの森の遺跡へ調査に行くから、無事に戻れるようお祈りしに来たんだ」
軽くムートへ会釈すると、レスターは祭壇の前まで行き、胸元で両手を組んで頭を垂れた。
ひびきはその後ろへ続くと、彼を見習い両手を組んで頭を下げる。
(どうか何事もなく、調査が終わりますように)
願かけを終えて、ひびきは踵を返す。と、落ち着きなく教会内を見渡すミラルと、興味なさそうにあくびをするイグニスの姿があった。
(罰が当たりそうだな、あの二人……)
心の中で豊穣の女神へ二人の非礼を詫びてがら、ひびきはまだ祈り続けるレスターから離れた。
ムートと目が合い、彼女は人当たりのよい微笑を浮かべた。
「皆様もパドの森へ行かれるのですか?」
こくり、と小さくひびきは頷く。
「はい、レスター博士の調査を手伝わせて頂きます」
「そうでしたの。私たちの司祭様も、レスター博士の研究に期待していますわ。『傾国の女神』が私たちの崇める女神様と同じかもしれないのですから。調査、頑張って下さいね」
ムートは微笑を破顔に変える。つられてひびきも微笑を返し、「ありがとうございます」と一礼してからミラルたちの所へ戻った。
いつの間にかひびきを見ていたミラルが、口元に手を置いて含み笑いを漏らす。
「ふーん。ここの司祭さんも『傾国の女神』に興味があるんだ」
ミラルへ聞こえるようにため息をつき、イグニスが肩をすくめる。
「買い手が増えたってか? こんな所に来てまで金勘定とは、嘆かわしいなあ」
「場所が変わってもアタシはアタシ。何か文句ある?」
イグニスの皮肉にミラルは胸を張って詰め寄り、はたと睨んで目付きを悪くさせる。
「そういえばイグニス、いつもと調子が違うけど大丈夫なの?」
「調子? 別にいつも通り――」
「全っ然違うわよ。いつもなら出会った瞬間にその軽い口でさ、そこの美人さんを口説いているじゃない」
びしっ、とミラルがムートを指さす。
暇なことに、隙さえあれば毎日こちらへ口説いてくるのに、なぜ自分よりも明らかに美人なムートを口説かないのか……ひびきも不思議に思って首を傾げる。
イグニスは腕を組んで不敵に笑うと、ひびきへ熱く粘ついた視線を向けた。
「そりゃあ美人に会ったら、口説かない方が失礼だろう。けどな、本命を目の前にして他の女性を口説くほど、俺もバカじゃない!」
……やっぱりそういう目でこっちを見ていたのか。狙いを反らすために、今日からでも野宿した方が良いかもしれない。
ひびきが半ば呆れてイグニスに一段と冷たくなった視線を送っていると、ミラルが親指を立てながら笑った。
「イグニスがそこまで言い切るなんて珍しいわねー。確かにここで捕まえておかなきゃ、次見つからなさそうだもんね。よし! アタシが許可するから、仕事しながら口説いていいわよ」
「ミラル、お願いですから先輩を煽らないで下さい」
思わず口から出たひびきの一言へ、ミラルは無言で歪んだ笑みを作った。
ああ、やってしまった。
心の中でひびきが頭を抱えている隣へ、何も知らないレスターが爽やかな顔で並ぶ。
「待たせてごめんね。さ、行こう……あれ? ひびき君、顔色が悪いけど大丈夫かい?」
「……大丈夫です。負けませんから」
これ以上彼らの言動に振り回されてたまるか。
ひびきは口を硬く結んで、イグニスとミラルを見据えた。




