第一章:冷徹な防波堤
大手IT企業の執筆室には、キーボードを叩く規則的な音だけが静かに響いていた。
大型システムの稼働を間近に控え、フロア全体に張り詰めた緊張感が漂っている。その中心で、朝倉咲は液晶モニターに向かい、凛とした佇まいでネットワーク構成のチェックを行っていた。少し長めの前髪の隙間から覗くまっすぐな瞳、真剣そのものの表情。どんなにタフな現場であっても弱音を吐かず、自分の役割を全うしようとするその背中は、どこか健気で美しかった。
(……本当に、目を離すとすぐ一人で抱え込もうとする)
数歩離れた自席から、上北周は書類に視線を落としたまま、密かに咲の横顔を盗み見ていた。
上流工程を統括する立場として、周は常に完璧であることを求められる。そして咲に対しては、彼の成長を願うがゆえに、どうしても厳しい言葉を選んでしまいがちだった。本当は、そのまっすぐな瞳を甘く濡らしてやりたい。デスク越しに見える細い肩を抱き寄せ、よしよしと撫で回して甘やかしたい——そんな内なる独占欲と過保護な愛着を、周は「仕事中の冷徹な上司」という仮面の下に必死で押し殺していた。
一方の咲は、周からの視線を感じるたびに、背筋を小さく強張らせていた。
(上北さん……また何かチェックされてるのかな。もっと完璧にやらないと)
周の指導はいつも的確でぐうの音も出ない。憧れと尊敬を抱く反面、咲にとって周は「滅多に笑ってくれない厳しい上司」であり、どこか遠く、少しだけ怖い存在でもあった。
その時だった。咲のデスクのモニター上で、赤く明滅する警告アラートが一斉に走り出した。
「っ……!? 本番環境のネットワークで通信障害……?」
血の気が引く音が聞こえるようだった。咲の指先が一瞬で冷たくなり、キーボード上の手が微かに震え始める。自分の設計ミスか、それとも機器の不具合か。切り分けようとするものの、パニックと焦燥感が思考を鈍らせていく。
「何があった、朝倉」
低く落ち着いた声とともに、気配を感じる間もなく周が咲の背後に立っていた。香水の微かな香りと、周の圧倒的な存在感が咲を包み込む。
「す、すみません、上北さん! 設定値の反映時にパケットロスが発生していて……私の確認不足かもしれません……っ」
顔を蒼白にして頭を下げようとする咲の肩を、周はポンと力強く叩いた。その手は驚くほど温かく、そして揺るぎない確信に満ちていた。
「慌てるな。お前の設計書は俺も目を通した。論理構造に破綻はない」
周は咲の横に屈み込み、低い声で耳元に語りかけた。
「外部からの問合せや上層部への説明は、全部俺が突っぱねる。お前は自分の組んだ設計を信じて、ハードと切り分けにだけ集中しろ。……いいな?」
「……っ、はい!」
外部の雑音から完璧に遮断し、自分を信じて背中を守ってくれる上司の背中。咲の胸の奥で、恐怖とは異なる熱い衝動が突き上げた。周のスマートで容赦のないフォローを受けながら、咲は震える手でターミナルを叩き始めた。




