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死にかけ姫は、覇王となる  作者: 桜ノ宮
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美味しいって、幸せなことですのよ

 美しい庭園が見渡せる蒼の間へ連れてこられたアンレッティは、ふかふかの長いすの上で落ち着かなさそうに辺りを見回した。

 室内から庭園を眺められるようにと設計されたのか、薄い布で仕切られた蒼の間は、まるで四阿のようだった。淡い色の薄布が、風にあおられ、花びらのように舞い落ちる。

 ヴェルセレク本宮殿へ足を踏み入れたのは初めてだったから、見るものすべてが新鮮だった。

 百花繚乱のごとく。

 艶やかに咲き誇る花々は、目映い陽の光のもとで、美しくきらめいていた。

 深緑との対比も見事で、絵画のようだった。

 ぽわぁっと景色に見とれていたアンレッティは、鼻先をくすぐる甘い香りに、すんすんと鼻を動かした。

 糊のきいた紺に白地のお仕着せに身を包んだ宮殿の侍女が、ちょうど大理石の机の上に軽食の準備をしているところだった。

 繊細に編み込まれた籠には、数種類の焼き菓子が品よく並べられていた。

 涎を垂らさんばかりにじっと見つめるアンレッティを呆れながらも、優しげに見つめたローレントは、「なにを我慢している。好きなだけ食べなさい」と言った。


 ぱぁっと目を輝かせたアンレッティは、直接手で掴んで食べ始めた。


「ひ、姫様っ」


 扉の傍に控えていたスノーランが、素っ頓狂な声を上げた。

 その顔は、アンレッティが近衛兵に捕まっていたときよりも悪い。

 作法が、行儀が……とぶつぶつ呟いた彼女は、額に手を当てるとよろめいた。


「んぐ……っ、だって、スノーラン。上品に食べてたら、ご飯はちっとも美味しくないわ」


 お菓子をすべて胃に収め、名残惜しいとばかりにぺろりと指先を舐めると、薫り高い紅茶で喉を潤した。


「ふっふっふ……戻ったら、覚悟してくださいね」

「くくっ。おまえたちも、相変わらずだな」


 向かいに座っていたローレントは、腕を伸ばすと懐から取り出した手巾でアンレッティの口元をぬぐった。


「ん、む………」

「食べかすがついたおまえも可愛いが、作法を身につけなければこの先、苦労するぞ」


 苦笑した彼は、ところでと雰囲気を硬質なものへと変化させた。


「今日は、父上に戯れ言を伝えに来たのか?」

「戯れ言じゃないわ。本気よ」


 ローレントがすっと目を細めた。

 たったそれだけで空気が重苦しくなるのは、笑みを消し去っているからだろう。

 今、目の前にいるのは、兄としてのローレントではなく、この国の王太子だ。

 国王と対面していたときには感じなかった圧力に、ごくりと唾を飲み込んだ。


「おまえはまだ小さいから理解できていないのだ。玉州の一つならば統治できたとしても、それを十もまとめあげるのは容易ではない。なにより、帝王学どころか、王族の一員として満足な教育も受けていないおまえが、この国の未来を背負うことができるとはとうてい思えない」

「……っ、でもお兄様。じっとしていて、なにが変わるの? 今、動かなければ、わたしは死ぬのよ。わたしは死にたくない。生きたい。お姉様や妹たちの分まで生きるって決めたの。約束したの」


 アンレッティは、感情を堪えるように、膝の上にのせた手をぎゅっと握りしめた。


「無謀だってわかってる。でも、やらなきゃ。生きるために、わたしはお父様を玉座から引きずり下ろして王になるわ。王家にかけられた呪いを解くには、それしかないから。そのためだったら、逆賊にだってなる。だれにも、邪魔はさせない」


 うっすらと双眸に浮かび上がる王族の印を静かに見つめたローレントは、苦々しく嘆息した。


「危うい言葉をさらりと言うな。王となる前に、おまえの命が儚く散ってしまう」


 ちょうどそこへ、侍従が台車に載せて料理を運んできた。

 アンレッティの目が、料理に釘付けになる。


「お待たせいたしました。お気に召すとよいのですが」


 彼が銀のフタを開けると、できたての香ばしい匂いが広がった。

 野菜と一緒に塩釜で蒸した魚に、鶏の香草焼き、穀物を煮込んだスープに、数種類のパンなど、長机には置けないほどの料理が並ぶ。

 ごきゅりと口の中からあふれでる唾を飲み込むと、侍従が果実水を注ぐ前に、目の前の料理へと手を伸ばしていた。


「地の女神アイレーンに感謝を! ……はふ、はふ、おいひぃっ」


 口いっぱいに鶏の香草焼きをいれたアンレッティは、肉汁の甘さと香ばしさに頬を緩ませた。

 「お行儀が悪いですよ」と身を縮こまらせたスノーランが小声でたしなめるが、食べることに夢中のアンレッティの耳に届くはずもない。

 華奢な体に反して大食らいな彼女は、見る間に皿を空にしていく。


「胸が空くほどいい食べっぷりでございますね」

「日頃、よい物を食べていないので、その反動かと……」


 皿を片付けていた侍従が爽やかな笑顔で感想を述べると、顔を赤くしたスノーランが消え入りそうな声で答えた。


「すなまい。食への執着が激しいのも、環境のせいだろう。王家に生まれながら、……いや、王宮の片隅に住まいながら、満足な生活を送ることもできないとは……。不自由な中で、よく生きてくれたと私は感謝したい」


 冷たく見えがちな双眸が、慈愛に満ちた穏やかな色を宿す。

 アンレッティが、大病もせず元気に育ってくれたのが奇跡であった。けれど、彼女に向けられる感情は無関心しかない。

 それが彼には歯がゆく感じられた。


「殿下のお支えあってこそでございます。殿下の口添えがなければ、その日食べる物にも欠く有様でしたでしょうに」

「……私にできることなど限られている。影ながら手を貸すしかできないこの身を何度恨んだことか」


 国王がアンレッティを正式に王族の一員として認め、迎え入れなければ、表だって手を差し伸べることはできない。

 国王が白といえば黒も白となる摂理の中で、存在を無視されているアンレッティを助けることは謀反にあたる。

 国王の命に逆らえば、いかに王太子であろうとも、廃嫡されるだろう。代わりなどいくらでもいるのだから。


「ですが、制約をお破りになって、こうして姫様をお助けくださいましたわ。どれだけ心強かったことか」


 スノーランの言葉に、ローレントは薄く笑みを引いた。


「そう。私は禁を破った。父上だけでなく、母上の耳にも入るだろう」


 どこか楽しげに、けれど決意を秘めた眼差しが、アンレッティへと注がれる。

 廃太子となってしまえば、アンレッティを助けることすらできない。

 愛する妹のためにと己を殺し、従順にしてきたが、もはや限界であった。

 アンレッティの行動がよい契機だったのだ。

 そんな兄の想いなど気づきもしないアンレッティは、すべてを平らげると満足げに声を上げた。


「ふはぁ~美味しかった! やっぱ、宮廷料理はひと味違うね。素材も新鮮で、手がこんでるし……あぅ、ス、スノーランの料理もちゃんと美味しいからねっ。ほんとなんだから」


 アンレッティは、なんだがしんみりとした雰囲気を感じ取って、慌てたように付け足した。


「も、もしかして、食べたかった? めったにない機会だものね……。ごめんね、スノーラン。わたしだけいいものを食べちゃ駄目よね。うん、安心して。スノーランの分ももらうから! ふひひ、今日は豪勢な食事だよ!」

「姫様……」


 見当外れも甚だしい主の発言に、なんともいえない表情で呟いたスノーランは、がっくりと肩を落とし

たのだった。

 違った? と愛らしく小首を傾げるアンレッティの顔を再びローレントが拭った。


「ほら、じっとしなさい。どうしたら顔中をソースでべとべとにできるんだ」

「うぅ」

「腹が減っていたのはわかるが、とても人様に見せられる食べ方ではないな」

「まあまあ、主殿。これだけ美味しそうに召し上がってもらえれば、食物も本望でしょう」


 おかしげに口を挟んだのは、料理を運んできた侍従であった。

 銀の髪が美しい、理知的な顔立ちの青年である。

 ローレントよりわずかに若いだろうか。

 じぃっと見つめたアンレッティは、彼がだれかに似ている気がしてむぅっと眉を寄せた。


「おや、どうされました?」

「! わかった。あなた、レイティスに似ているのよ。特に涼しげな目元がそっくりね」

「これはこれは……弟をご存じでしたか。似ているなんて、初めて言われましたよ。ふふふ、面白い姫君ですね」


 くすりと笑った彼は、ゆるく腰を折った。


「申し遅れました。わたしは、ローレント殿下の片翼であるソワット・ホーヴァン・ディラ・カンフィートと申します。以後、お見知りおきを」

「片翼……」


 片翼ということは、彼が次の宰相なのだろう。

 上に立つ者ならば、だれもが優秀な者を自分の右腕にする。

 その者たちを片翼と呼ぶ。

 血よりも堅い主従関係で結ばれた二人は、死が分かつまで離れることはないという。

 彼の右耳には、その証である石が煌めいていた。


「っそれよ! いいわ、それ。わたしも、レイティスを片翼にしたい。そうよね、覇者となるなら、片翼が必要だもの。レイティスだったら、きっと、素晴らしい片翼になるわ」

「そこまで入れあげるとは、そんなにソワットの弟と親しかったのか?」 


 どこか不機嫌なローレントに気づきもしないアンレッティは、さらなる爆弾を落とした。


「いいえ、一回しか会っていないのよ。でも、いい人よ。だって、わたしに、貴重な食べ物を恵んでくれたんだもの。あれも美味しかったなぁ」

「――フェイザー」

「は、はいっ。申し訳ございません。姫様には拾い食いはするな、見ず知らずの方からもらい物はしないようにきつく言い渡しております。ですが、その、食べ物に並外れた執着がおありですから……食べ物をくださる方なら全員いい方に見えるようで……」


 責めるような視線を浴びたスノーランは、顔から血の気を引かせながら、しどろもどろに言い訳をした。


「もうよい。……はぁ、我が妹は、簡単に拐かされてしまいそうだ」

「まあ、お兄様。そんなことはないわ」


 むぅっと愛らしく頬を膨らませるアンレッティを嘆息して見やったローレントは、額に手を当てた。


「自覚がないのも困ったものだ。簡単に騙されてしまいそうなおまえが、果たして、上に立つ者として足るのか、否か」

「! それって、やっと認めてくれたってこと?」


 期待に目を輝かせるアンレッティを一瞥したローレントは、少し冷めてしまった紅茶に口をつけた。


「おまえは本当に、突飛な考え方をする。どうしたらその答えに行き着くのか……」


 やれやれと肩を竦めたローレントは、茶器を置くと膝の上で手を組んだ。


「だが、私の後ろ盾が欲しいのなら、言葉を選びなさい。いくら可愛い妹とはいえ、築き上げてきた地位と信頼をそう易々と手放さないよ」

「だったら、お兄様と戦うまでよ。わたしは、わたし自身の手で、玉座を奪い取るわ。だれにも邪魔させない」

「おまえが王となり、呪いが解けるのなら私も協力しよう。けれど、胡散臭い魔導師の話を鵜呑みにするのは危険では? もし、真実でなかったなら、どうする」

「どうもしないわ」


 アンレッティは、あっけらかんと言った。


「そのときはわたしの命が尽きるだけ。悔しいけど、わたしの見る目がなかったってことだもの。でも、お兄様。たとえ一時でも、国中を駆けめぐるのは素敵でしょ。ほとんどをここで過ごすお父様にだってできやしないわ。わたしは見たいの。民の暮らしを。外の世界を」


 まだ見ぬ世界に胸を膨らませ、きらきらと美しい双眸を輝かせるアンレッティ。


「外の世界……。ここでの暮らしは窮屈か? ――いや、愚問であったか」

「……聖王は、この国の平穏のために各地を訪れて、知恵を授け、発展に手を尽くしたのよ。わたしね、それを本で読んで、改めて初代の偉大さを知ったの。だって、まだ国として不安定な中で、城を飛び出す勇気もすごいし、それだけ片翼や臣下を信頼してたってことなのよね」

「よく、勉強したな。だが、聖王の思想を受け継ぐ王は、それ以降現れなかった」


 すっと目を細めたローレントは、続けて言った。


「広大な領地を国王一人では把握することができないからこそ、セルヴィアス王国は、千の貴領から成っているのだ。そしてそれを八十の候地で統括し、さらに十の玉州が監視する。三代目の剛王が造り上げたこの盤石さに、異を唱えるか」

「時代とともに進化するものよ。剛王の頃と同じでは、国は栄えないと思うの」


 さらりと言ってのけるアンレッティに、虚を突かれたように目を見張ったローレントは、くつりと喉の奥で笑った。


「おまえが、男でないのが惜しいな。だが、そうか……その考え方こそ、今の世の中には必要なのかもしれないな。凝り固まってしまった我々とは違う着想を持つからこそ、新たな風を吹き込めるのかもしれない」


 なにかを考えように目を瞑ったローレントは、ゆっくりと瞼をあげると、アンレッティに視線を定めた。


「いいだろう。おまえが、十の玉州を手中に収めたなら、私は王太子の地位を捨てよう」


 その瞬間、にこやかな笑みを保っていた侍従の顔が一瞬強ばったが、主人に意見をすることはなかった。

 軽い緊張感に包まれる中、アンレッティの顔も自然と引き締まっていた。

 ローレントの覚悟が、痛いほどに感じられた。


「けれど、その細い両肩に数多の民の命がかかっている。国王となるには、自分の感情をさらけ出すことは許されない。自分を殺し、民にその身のすべてを捧げる覚悟はあるか?」


 嘘偽りを許さないとばかりに、研ぎ澄まされた刃が、喉元へと突き立てられたかのようだった。

 普通の人なら腰砕けになりそうな迫力を前に、ごくりと唾を飲み込んだアンレッティは、これが王太子としての顔かと驚嘆とした。

 それは決して、努力して手に入るものではない。

 生まれつきの王としての素質が、彼にはあるのだ。


「わ、たしは……」


 思わず呑まれていたアンレッティは、それを振り払うように首を振ると、真っ直ぐに兄を見つめた。


「きっと、お兄様がなさるような立派な王にはなれないかもしれない」

「……」

「でも、なりたいと思う。わたしの身勝手な思いから、王に相応しい人からその座を奪うんだから。聖王のようにこの目で見て、感じて、わたしなりのやり方で玉座を目指すの。だれもが笑っていられる国にすることが、王族に生を受けたわたしの使命なのよ」

「そうか……。ならば、好きにするといい。足りないところは、私が補おう」

「! お兄様、」

「私を使え。私には、有能な片翼もいる。おまえが困ったときには、すぐに手を貸そう」

「ありがとうございますっ」

「私とて、もう、可愛い妹が死ぬのは見たくない……。たとえ、国中の民の命と引き替えにしても、おまえを助けたいと思うのは、兄心だ」


 王太子としては失格だが、と苦笑したローレントは、腕を伸ばすとアンレッティの髪を優しく撫でた。


「未来のために戦うおまえを誇らしく思う。おまえは私の……いや、この国の希望であり、宝だ」



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