第二章 魔導師様の登場です
――食材市場の朝は早い。
玲瓏たる銀月の女神が、天空を司と太陽神と交代する前。
そう、まだ空が紫紺に包まれている頃に、市場で生活している者たちは起き出して、店の準備をするのだ。
始まりを告げる聖堂の鐘が、厳かに鳴り響く。
「んんっ」
空気を震わす音に、ぼんやりと目を覚ましたアンレッティは、普段と違う天井を見つめた。
(石の壁……)
そうだ。
ここは、花の離宮ではなく、昨日からお世話になっている宿屋なのだ。
硬い寝台に薄い毛布はゴワゴワで、姫君であるアンレッティが寝泊まりするには不釣り合いな宿屋だったが、どうしてもここにしたい理由があった。
(おいしそうな匂い)
寝間着のまま窓を開け放ったアンレッティは、ふひひと頬を緩ませた。
三階の窓の外からは、煙突から煙が上っているのが見えた。
風に乗って運ばれてくるのは、香ばしいパンの香り。
刺激的な香辛料に、肉が焼けた匂いも鼻先をくすぐった。
ぐぅぅぅぅぅぅぅぅっ
こらえ性のないお腹が盛大に訴えてきた。
「お腹すいたぁぁぁぁ」
寝る前に、スノーランにねだって夜食までしっかりいただいたアンレッティだったが、それを忘れたかのように腹は空腹を訴える。
「あぅぅぅ」
ここ数日、まともな食事をしてきたせいで、すっかり腹はわがままになってしまったようだ。
泣きそうな顔でスノーランが起こしに来るのを待ったアンレッティは、空腹を紛らわせるように自分の寝間着の袖をはむっとくわえたのだった。
「あら、姫様、珍しくお早いですわね」
いつもなら、スノーランが起こすまで寝ている主人を揶揄った彼女は、聞こえてくる音に気づいて呆れたようにため息を吐いた。
「どうしてまあ、そんなに……。普通の淑女は、小鳥のえさほどの食事で満足しますよ」
「だってぇぇぇ」
「はいはい、泣かないでくださいね。支度ができたら、朝食をお持ちしますから」
「! 市場でお買い物は?」
「そんな怪しげなものを食べさせるわけにはいきません」
無意識によだれを垂らすアンレッティの口元を少々乱暴に拭ったスノーランは、呆然としている主に、うっと言葉を詰まらせた。
潤んだ双眸は、今にも大粒の雫がこぼれ落ちそうだ。
なんで、どうして?
と、憐れみを誘う目で訴えかけてくるアンレッティに、ついつい甘やかしそうになってしまうが、首を振って耐えた。
手に持っていた服を手慣れたようにアンレッティに着せながら、言い聞かせるように告げた。
「わたくしが毒味したものか、さもなくば、調理したもの以外は召し上がらないというのが、こちらに滞在する条件でしたでしょ」
貴族御用達の鳳凰金館ならば、上流階級の屋敷が並ぶ区域にある上に、雇われた傭兵が常に目を光らせているため安全だ。
けれど、平民が生活するこの区域では、荒くれ者も多く出入りする。
しかも、宿屋の一階は酒場も兼ねているのだ。夜ともなれば、人相の悪い男たちが酔っぱらって、小競り合いをしている。
いつアンレッティの身にも危険が及ぶかわからない中で、スノーランの神経もすり切れそうだった。
だが、そんなスノーランの気苦労などわかっていないアンレッティは、むぅっと不服そうに唇を尖らせた。
「せっかく美味しいものがいっぱいあるのにぃ」
「殿下からいくぶん金子を賜ったからといっても、無駄遣いは許しません。ええ、わたくしの目が黒いうちは許しませんとも。少しでも気を緩めたら、うちの姫様はすべて食べ物に有り金をつぎ込んでしまいますからね。そうなったら、殿下になんとお詫び申し上げればよいか」
深々とため息を吐いたスノーランは、最後の仕上げとばかりに髪の毛を布で結わえると、満足げに口の端を持ち上げた。
染め粉で特徴的な髪の色を目立たないさび色へと変え、市井の娘がしているような三つ編みすれば、驚くほど地味な印象になった。
スノーランが持ってきたのも、着古された麻の服だ。年頃の娘が着るには少し流行遅れだが、草色の長衣を腰のあたりを飾りのついた綾で結べば、ちょっと野暮ったい町娘の完成だ。
「まあ、お似合いですわ。どこをどう見ても、姫君には見えませんわね」
「それって、褒めてる?」
「ほほほ、もちろんですとも」
じとっ睨むアンレッティに、軽やかに笑ったスノーランは、食事の用意をしますね、と部屋を出て行った。
女将に調理場を借りるのだろ。
(女将さんの手料理も食べてみたかったなぁ)
きゅるきゅると鳴るお腹を押さえ、切なく思った。
「お腹減ったよぉぉぉぉ………」
「ぷっ、アンタ、ホント、そればっかネェ」
ふいに聞こえた低めの声。
「! うそうそっ、ど、導師様!?」
「はぁ~い。ちゃ~んと、言うとおりにしてるじゃないの」
いつの間にいたのか、目の先には宙にぷかぷかと浮かぶ魔導師の姿があった。
魔導師の証である漆黒のローブの襟には、位を示す金の線が三本走っていた。金の線は、最高位の魔導師にだけに許された色である。
けれど、そんなことをみじん感じさせない彼は、今日も七色に染まった毛先をくるくると指でいじりながら、アンレッティを見下ろしていた。
血に濡れたような赤い唇に、濃い頬紅、薄紫に塗られた瞼……。
(導師様……いつにも増して、顔が怖い)
強面だって、暗闇で出会ったら裸足で逃げるだろう。
もう少し薄い化粧にしたら、絶世の美女になるのにと毎回残念に思うのだった。
そんなこと考えているのを彼が知ったら、雷が落ちそうだが。なんでも、自分なりの美意識があるらしい。
「アンタ、なにその格好。田舎娘って感じネェ。まあ、普段からそんな感じだけど、髪の毛の色ってやっぱり偉大だわネ。あの髪の色だからなんとか見られる……って、汚いわネ! そのヨダレ、どうにかしなさいヨ!」
「だ、だって、導師様から、いい匂いが……っ」
「……相変わらず、卑しいわネ。本当に王族の血を引いているのかしら。本物は妖精が隠してしまったんじゃないの」
ぶつぶつ言いながらも、彼は懐から袋を取り出すと、アンレッティに放り投げた。
「ふふン。これは、東の地に伝わる、庶民的なおやつヨ。生地を揚げているところが、こっちと大きく違うわネ。……って、少しは、話を聞きなさい!」
「……むぐ、おいひぃですっ」
揚げたてだと、外がカリッとしているのかもしれないが、冷めていてもしっとりしていて美味しい。生地自体に味はないが、甘い果実がたっぷり入っているため、気にならない。
手のひらほどの大きさの棒が全部で五本入っていたが、すべて味が違うようだ。
干した葡萄もいいが、砂糖漬けにした果実もいい、と頷きながらぺろりと完食したアンレッティは、ふいに寒気を覚えて顔を動かした。
扉にもたれるようにして立つ人物を目にした瞬間、ぴきりと固まった。
「――怪しい人から、食べ物をもらっては、駄目でしょ?」
言葉は柔らかいのに、彼から冷気が放たれているようだった。
「あら、気づかなかった。このアタシに悟らせないなんて、気配を消すのが上手ネェ~」
暢気にそう言った魔導師は、しげしげと侵入者を見つめ、にぃと真っ赤な唇を引き上げた。
「アアンっ、いい男! 将来有望じゃない。でも、今でも十分おいし、」
「消えろ、変態」
一刀両断したレイティスは、冷たいところも素敵と身もだえ魔導師を放置し、アンレッティの元に跪いた。
「おかしな気配がすると思ったら……アレと知り合いですか?」
口元の汚れを拭ったレイティスは、汚物でも見るように魔導師を一瞥すると、ふっと冷笑を浮かべた。
「知り合いじゃなかったら、滅しますが」
「アアンっ、怖い! でも、言い切るところがしびれるわァ。もっとアタシをののしっ、」
「いえ、やはりこの世から灰ひとつ残さないほどに消し去りましょう。アレは、あなたの害にしかならない」
笑顔で詠唱しようとするレイティスを我に返ったアンレッティが、慌てて止めた。
「ま、待って!」
「なぜ、止めます」
「だって、勝てないから!」
宙に寝そべりながら、こちらを見てにやにやする魔導師を指さした。
「導師様は、この国の叡智にして、聖王とともに建国に尽力した人だよ。この国の魔導師様が束になっても敵わないんだから」
「は? アレが、ですか?」
顔をしかめたレイティスは、うさんくさそうに魔導師を見上げた。
「あは~ン。そうヨ~。アタシ、これでもアンタたちの何倍も長く生きてるんだから」
「……偉大なる魔導師アンブリジェが、この方になんの用です? 事と次第によっては、王太子殿下にご報告しますが」
アンレッティの言葉を信じているのかいないのかわからないような眼差しで、そう告げるレイティス。
「あら~ン。アタシの名前、知ってるのネ。知らなかったどこかのお馬鹿さんとは大違い!」
魔導師アンブリジェといえば、知らぬ者はいないだろう。
聖王が統治していた時代は、すでに神との対話も希薄になり、神々の手を借りずに生きなければならなかった。
自ら開拓する人間を待ち受けていたのは、邪悪な魔物だった。
人間の醜い欲望から生まれた魔物に対抗するために、神々は最後の救いの手として特別な力を授けたのだ。
最初に能力を開花させたのが、魔導師アンブリジェだった。
落ちぶれた地方貴族の三男だった彼は、希代の魔導師として讃えられるようになる。
聖王によってその才能を発揮させた彼は、その恩に報いるために、その身を捧げたという。
魔物が入り込まないように結界を張り、孤城を造り上げることに尽力した。
そのおかげで、今のセルヴィアス王国があるとまでいわれている。
彼は、魔導師の育成に力を注いだというが、未だに彼を凌ぐ魔力を持った者はいない。
「生涯はとうの昔に閉じたかと思いましたが」
「それってアンタたちの勝手な思いこみ。没年なんて書いてないでしょ? 魔術を操作すれば、寿命を延ばすことくらい簡単ヨ。……っと、時間切れのようネ。可愛い、憐れなお馬鹿さん。しっかりやり遂げなさいヨ」
そう念を押した魔術師アンブリジェの体が溶けるようにして消えた。
「ちっ。腐っても魔導師ですね」
綺麗な顔に似合わない舌打ちをこぼしたレイティスは、びくりと肩を竦めるアンレッティに視線を落とした。
「さて、訊きたいことは山ほどありますが、まずは、スノーラン殿に、躾け直してもらいましょうね」
「あぅぅぅ」
アンレッティの手から袋を取り上げたレイティスは、ぐしゃりと握りつぶしたのだった。




