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11. 虚しき夜

「透くん、透くん! そろそろ時間ですよ。 透くん・・・」

虫の鳴くような細い声は、壁に衝突すると流れるようにぼくの耳に吸いこまれた。

「陸さん・・・ おはようございます」

「おはよう、透くん」

「あまり時間がありません、私はタクシーを手配してきます」

「わかりました。 荷物をまとめたら、すぐ下へ降ります」

 驚いたな。黒無地のマオカラースーツに身を包んだ陸さんは、毛沢東さながらの風貌であった。あの姿で日本の防衛省へ行けば、間違いなく入り口の警備員は敬礼して陸さんを通すことだろう。

 リュックを開けてパスポートと航空券を確認し、顔も洗わずにしたへ降りた。陸さんは何やら運転手と話し合っている様子で、身ぶりを交えながら交渉している。ぼくはマフラーを口まで巻くと、キャリーケースの取っ手をたたみ交渉のゆくえを見守った。

 しばらくすると、ポマードで髪型を整えた運転手が、乗ってくれという感じで親指をたてた。運転手は慣れた手つきでエンジンを始動させ、弧を描くようにしてゆっくりと走りだす。

「陸さん」

「はい」

「エマーム・ホメイニー国際空港へ行きたいんですけど、大丈夫でしょうか?」

「透くん、安心してください。 このタクシーは空港へ向かっています」

「それをきいて安心しました」

 べつに陸さんを疑っているわけではない。ただ、ぼくには財布がなく飛行機に乗り遅れてしまうと、それこそ日本に帰れなくなる恐れがあったからだ。もしも間に合わなかったら、あの飛行機に乗れなかったら、そんな風に考えだすと無性に煙草が吸いたくなるのだった。

「陸さん、本当にありがとうございます」

「いいんですよ、透くん」

「感謝してもしきれません」

「いえいえ。 感謝したいのは、むしろ私のほうですよ」

陸さんはシートにもたれると、窓の外に視線をうつした。

陸さんの視線はテヘランの街並みよりも遠く、ずっと遠くを見ているように感じられた。

「陸さん、日本に来る予定はないのですか?」

「・・・」

「もしも、来る機会があるのなら・・・」

「私もいつかは、日本に帰ろうと考えています」

「けれどもそれは何年、何十年先になるのか今のところ見当がつきません・・・」

「なぜですか? それは金銭的な問題ですか?」

「・・・」

「この街でずっと暮らしていても、陸さんが幸せになれるとは思えません」

「・・・」

「・・・」

「この想いは・・・ 実に表現しにくいのですが・・・」

「そうですね、簡単に言えば日本に帰るのが怖いのです」

「こわい?」

「はい」

「永い間イランで暮らしてみて、ひとつだけ分かったことがあるんです」

「なんですか、それは?」

「日本という国が、生まれ育った故郷が、私を孤独にしているという事実です」

「そんなこと・・・」

「あるんですよ、現実に」

「・・・」

「・・・」

 窓越しに、合金の鎧を纏ったムカデが地面を這うような音が聞こえる。対向車線から火砲を搭載した戦車が見えてきた。辺り一面に工事現場のような機械音が響きわたり、無限軌道と呼ばれる走行装置が地面という地面を飲み込むように回転している。

 考えてもみれば、国内情勢が非常に不安定と言われるイランにおいて被害が財布だけで済んだのは、むしろ幸運といえるのかもしれない。

 三色の横帯から成るイランの国旗が見えてくると、エマーム・ホメイニー国際空港に到着したことがわかった。イランに到着したあの夜、寒空のした夜風に吹かれまるでぼくを威嚇しているように見えた国旗も、今では全く別のものとしてぼくの瞳に映っている。

 さきに車から降りたぼくに

「ここでお別れですね」

と、陸さんがつぶやいた。

「・・・はい」

「短い間でしたが、陸さんと過ごした時間は忘れません」

「はい、わたしもです」

「・・・」

「さあ、もう時間がありません」

「行ってください・・・」

閉館後の銅像のように、陸さんは寂しげにぼくを見つめている。

たぶん、ぼくも同じような目をしている。

「どうか、お元気で」

「さようなら・・・」

 キャリーケースを引きながら足早に空港の入り口へと向かい、出国する時とおなじ要領で搭乗手続きを済ませ、ドイツ行きの便に乗った。もう、会えないのだろうか。目をとじて、ここ数日の間に起こった出来事や見てきたこと、考えた事柄などを整理していると、悲しみという感情が胸の内にもやもやと立ち上ってくるのだった。

「どうしたよ透! さっきから浮かない顔してよお」

「・・・」

「物語が無かったことが、そんなに残念なのかあ?」

「ぼくはね、陸さんのことを考えているんだよ」

「あの寂しそうな瞳が、どうしても頭から離れないんだ」

啓太は前の座席から振りかえり、顔だけが見える姿勢で話しかけてきた。

「おいおい」

「あのおっさんは、目の前の現実から逃げてるだけじゃねえか!」

「そんな奴に同情はいらねんだよ!」

「そんなことよりも、日本に帰ったらどうするつもりだ?」

「頼むから・・・ 陸さんの悪口を言うのはやめてくれないか」

「なんで?」

「啓太には関係ないからだよ」

ぼくは啓太の細い目を、蛇のように睨みつけた。

「わかったわかった、怒るなよ」

「・・・」

「それで、これからどうすんだ?」

「まだ決めてない」

「たぶん・・・ 物語をさがすと思う」

「そうかそうか、そうこなくっちゃな! さっすが透だぜ」

「・・・」

「どうせ帰っても、終わらない日常が待ってるだけだしなあ」

啓太は不敵な笑みをうかべている。

「・・・」

 終わらない日常か。啓太はいつからそんな言葉を口にするようになったのだろう。亜紀子に言われるのならともかく、あいつの口から出てくると普通の意味合いではなく全く別の意味にきこえてしまうのだから恐ろしい。


 

 午後八時過ぎ、成田空港に到着した。例の家畜小屋めいた空間で同じ姿勢を強いられたせいで、足がむくみ思うように歩けない。ベルトコンベアで自分のキャリーバックを見つけると、逃げるように出口へと向かった。

 大宮行きの車内は、帰宅を急ぐ人たちで溢れかえり、ガレオン船に無理やり詰めこまれた黒人奴隷のような様相を呈した。ぼくは、壁みたいにがっしりした誰かの背中に寄りかかり、思わず溜息をついた。家に近づくにつれて少しずつ、だが確実に名前の力がもどりつつあった。

 川口駅に着いたぼくは、雄鴨みたいに太ったキャリーバックを引きずりながら、スーパー『マルジュウ』に入った。イランでの過酷な禁酒生活から解放されたこと、それに無事帰国できたことをひとり祝うため、今日は奮発してヱビスビールを飲むことにした。

 一度に七本買ったのは今夜が初めてで少し多い気もしたのだが、イラン旅行を深く顧みる、という知的作業に必要な時間を考えると、やはり七本くらいが妥当であるという結論に至るのだった。

 扉を開け玄関にたつと、母はいつもと変わらない様子でぼくを出迎えてくれた。少し遅れて部屋から飛び出してきた妹が、お土産は?お土産は?とさっそくねだってきたのだが、財布を盗まれたせいで何も買えなかったとは言えるわけがなく、とっさにイランには商店という商店がほとんどなかったことにした。あの忌々しい悪夢のような出来事さえなければ、今ごろテーブルのうえにエヴァーグリーンの箱を戦利品の如く並べて見せびらかしていたに違いない。

 結局、母が注文した五人前の江戸寿司を食べながら、父が用意してくれたアルコール度数の高い焼酎を飲み、取留めのない話を延々されたおかげで、自分の部屋に戻ったころには午前一時をまわっていた。

 ぼくは、ヱビスビールを七本テーブルに並べ、コートのポケットから二枚の硬貨を取りだすと、同じようにビールの横に並べた。そこには、墓のようなモスクとアルボルズ山脈と思しき絵が刻まれている。プシュッ。タブを手で引っぱり、一息に白いヱビスを飲み干した。

 終わってみれば、旅行なんて虚しいものである。せんずるところ、何も変わっていない。世界の西の果てで天空を背負うアトラスのように、ぼくはこれからも日常の重みに耐えて生きなければならないのだろうか。

 黒いヱビスを飲み干すと、両肩にひどい疲れを感じた。もしかすると、いや、はじめから分かっていたのかもしれない。イランという外部の世界に、物語なんてあるわけが無いということを。目が覚めたあとに、自分が感じていたことの全てが、うたかたの夢であったという事実を心のどこかで認めようとしない愚か者とおなじ発想である。

 ぼくは、三本目の缶ビールをかたむけた。酒を飲めば飲むほど、虚しき夜は深まってゆく。中途半端な酔いのなかで希望の輪郭をうばわれ、これからはじまる日々のことを考えると、目がくらむような思いがするのだった。


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