10. 地球という名の星
冷房みたいな寒さで目が覚めた。コルクの床は陸上の氷河のように固く、千年の眠りから覚めたように体が重かった。そばにある石油ストーブは役目を果たしたらしく、今夜に備えてこっくり寝ている。この部屋は、あまりに静かな空間である。
見たところ陸さんの姿はなく、楕円形のテーブルには朝食が用意されていた。置手紙のようなものはなかったが、おそらく陸さんは仕事へ出かけたのだろう。ぼくはキャリーケースから下着をとりだして、寝起きの熊みたいにのそのそと着替えた。
まだ瞼がおもたい。煙草をくわえ、くわえてから五秒ほどためらって、それから火をつけた。まあ、あとで空気を入れかえれば問題ないだろう。ぼくは、寝るまえと起きたあとすぐに必ず煙草を吸う習慣がある。それは、垢のようにこびりついた嫌な習慣のひとつである。
白と黄色のライス、それに焼き肉が小皿にのっている。青いラベルのペットボトルには、カルピスを思わせる真っ白な液体が入っていた。口にいれてみると、日本の白ご飯の感覚に近かったのだが、少しばかりオイルと塩の香りがした。馴染のない感覚、まさしく異国の匂いである。白い液体の正体はヨーグルト風味の飲料で、総合的にどれも口に合うものばかりだった。
食器を片づけて、薄いアルミ扉を開け外へでた。膨大なエネルギーを生みだし続けている太陽に休暇というものは無いらしく、折れ階段を降りるぼくの背中を黙々と照らしてくれた。老朽化した壁沿いを北へ歩くと、ポストモダン建築と思われるマンション群が見えてきた。なるほど、どうやら陸さんが住んでいる南側の区域とは対照的に、北側の区域には富裕層が暮らしているみたいだった。
白い砂利がひかれた緩やかな坂をのぼると、長方形の鉄製フェンスに囲まれた空き地がみえた。適度に日焼けした青年たちは、ショートパンツに裸足という格好でサッカーに興じている。ぼくは背もたれの無い木製のベンチに腰をおろし、そのままみるともなく青年とボールを眺めた。
「楽しそうですね」
「亜紀子か・・・」
「好きなんですか? サッカー」
「いいや、普通だよ。 好きでも嫌いでもない」
「そうですか」
「ねえ、亜紀子」
「はい」
「ひとつ、質問してもいいかな?」
「ええ、いいですよ」
そう言うと亜紀子は、ぼくの背中にもたれるように座った。
「ぼくとあそこにいる青年たちと、どちらが幸せに見える?」
「透さんらしい質問ですね」
「・・・」
「それは、言うまでもありません」
「・・・」
たぶん、亜紀子は口を閉じたまま笑っている。
ぼくにはわかる、きっと笑っている。
「ぼくはね、不思議に思うんだよ」
「なにがですか?」
「こう言っては失礼だけど・・・」
「彼らに劣っている要素なんて、何ひとつ無いはずなんだ」
「ぼくは、彼らにないものを沢山もっている」
「・・・」
「それなのに、彼らの方がぼくよりも幸せそうに見えるんだよ」
「・・・」
「ねえ亜紀子、どこで間違えたのかな?」
ぼくは顔をうしろに向けて、すがるように問いかけた。
「透さん、正しいか誤りかを決める基準はないと思います」
「いいですか?」
「物語というものは、寂れた郊外にも存在するんです」
「ニューヨークやロンドン、パリや東京じゃなくても、それは考え方しだいなんです」
「わかりますか?」
「・・・」
「・・・」
試合は終わったようで、青年たちはそれぞれペアになってストレッチをはじめた。
試合の熱気は冬風にさらわれ、空き地には色落ちしたボールだけが残されている。
「わかるよ、それはわかってる」
「ぼくは決して、自分を不幸な人間だなんて思ってはいないさ」
「楽しいと思える時間や、幸せを感じる瞬間だってたくさんあるしね」
「・・・」
「ただね、時々、ここではないどこかに本当の物語がある気がしてならないんだよ」
「その物語をみつけない限りぼくは永遠に、あるいは永久に幸せになれない気がするんだ」
「そうですか・・・」
「透さんらしい想像力ですね」
「どゆこと?」
「とにかく、今日の言葉を忘れないでくださいね」
「この話は透さんにとっても、私にとっても大切なことですから・・・」
そう言うと亜紀子は立ちあがり、ぼくとボールを空き地に残して去っていった。
頭上には乳白色に覆われた空が広がり、すりガラスを通したようにぼんやりと太陽が見える。
ふと、陸さんのことを思いだした。
家に帰ったときにぼくがいないと、きっと心配するだろう。
空き地を出て、煙草をふかしながらゆっくりと坂をおりた。この街は根っこのように道が分かれているため、どれかひとつでも帰り道を間違えると例の家にたどり着けなくなる恐れがあった。
ぼくは足を前へ進めながら、もんもんとした心持で考えごとをした。いくら考えてみても、答えらしい答えが頭に浮かぶことはなく、結論のイメージは無数の微小な疑問へと、ただ悪戯に変化してゆくだけであった。
こんこん、こんこん。
アルミ扉をノックすると陸さんが笑顔で迎えてくれた。
肌色のせいか、白い歯が妙に際立って見える。
「やあ、透くん」
「こんにちは」
「さあ入ってください、遠慮はいりませんよ」
「はい、おじゃまします」
「どうぞ」
陸さんは買い物袋をひろげ、テーブルにパイのようなお菓子をならべはじめた。
「どうですか、この街は?」
「そうですね、なんというか・・・」
「時間の流れる感覚が、日本とはどこか違う気がしました」
パイをひとつ口に入れると、濃厚な糖液が舌のうえにひろがった。
イランでは定番のお菓子なのだろうか。
「それに、この街で出会ったひとたちの笑顔を見ていると・・・」
「なんだか、テヘランまで来た自分が恥ずかしくなりました」
ぼくは、ここにきて感じたことをそのまま伝えた。
「時間の感覚ですか・・・ また難しい表現を使いましたね」
「・・・」
「確かにこの街では、将来への希望や大きな変化などは期待できません」
「けれども、それがそのまま不幸につながるという訳ではないんです」
ぼくは黙って肯いた。
「この街の人々は、小さな幸福を探しながら生きているんだと思います」
「・・・」
「もちろん、等身大の現実を受け入れたうえで、ですがね」
「まるで、自然環境に合わせて進化した恐竜みたいですね」
「そうかもしれませんね」
「ぼくには、いまひとつ実感がわきません」
「・・・」
陸さんは目をつむり、なにかを考えている。
口元のしわは、樹齢を知ることができる年輪を思わせた。
「透くん」
「はい」
「帰国はいつごろですか?」
「明日の昼すぎには、出発する予定です」
「そうですか・・・」
「実は、透くんに是非とも見ていただきたいものがあるんです」
ぼくの返事も待たずに、陸さんは急に立ちあがった。
かけてあったジャンパーを羽織り、さあ行きましょうと言いながら歩きだす。
ぼくは状況が飲みこめない子どもみたいに、ただただ陸さんの小さな背中を追った。
舗装されていない小道をしばらく歩いていると、藍色のタイルで覆われたモスクが視界にとびこんできた。こわごわとレンガ造りの階段をあがると、夜の礼拝に多くの人々が集まっていた。彼らは真剣な表情で絨毯に正座し、なにかを唱えながら額を床につけて祈っている。じわじわとアドレナリンが血中に放出され、ぼくの心拍数はハツカネズミのように速くなってゆく。
「さあ、こちらです」
「・・・」
「ここにいる人たちはみな神の意志を信じ、神をたたえ、そして命令に服従するのです」
「たしか・・・ アッラー?」
「その通りです。 唯一絶対の存在、すなわち神ということになります」
「・・・」
「自分の存在を神に直接訴え、毎日欠かさずに祈るのです」
「信仰さえあれば、だれでも救われるものなんですか?」
白いレインコートを着た少年は、退屈そうに帽子を脱ぐと、そのまま手遊びをはじめた。
「救われるかどうかは、私にはわかりません」
「しかし神の存在が人々の生を意味づけ、支えになっているということは確かだと思います」
「人間は、宙づりの状態には耐えられない・・・ ということですか?」
「そうです」
「だから神にすがるんですか?」
「対象が神とは限りません」
「・・・」
ぼくは口をとじて、次の言葉を待った。
「そうですね、神という存在は夜空に輝く無数の星のひとつにすぎないのかもしれません」
「・・・」
陸さんはそっと頭をさげ、そろそろと歩きだした。
陸さんの所作を真似して、ぼくもかるく頭をさげる。
外へでると、忘れかけていた冬の寒さが待っていた。
「どうか、身勝手な振る舞いを許してください」
「いえ、そんな・・・」
「・・・」
「ぼくなりにですが、感じるものはありました」
「そうですか」
「そんな風に言ってもらえると、私としても嬉しく思います」
「ただ・・・ ぼくが探している物語ではありません」
「色や形、それに大きさも違う気がしました」
「そうですか」
「はい・・・」
「それは、残念です・・・」
「・・・」
例の家にもどると、コートを着たままどさりと横になった。
陸さんは、ふたり分の夕食を買いにどこかへ行ってしまった。
眠りたい。とにかくいまは眠りたい。
ぼくは胎児のように体を丸めて、舞台幕をおろすように瞼を閉じた。
足元に目をおとす。ごおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ。
きこえる。確かにきこえる。
振動を伝える空気のない宇宙空間に、低く鈍い音が鳴りひびく。
不気味だ。たぶん、黒に引き摺りこまれたら、永遠に暗い海を彷徨うことになる。
あれは・・・ おそらく、土星。環をもつ惑星をほかに知らなかった。
息をとめて、じっと見つめてみる。
遠く離れたこの位置からだと、画用紙で作った土星儀のように見える。
ぼくがめざしている星は、火星でもなければ金星でもない。
遥か遠くにある太陽系の惑星のひとつ、地球という名の星である。




