19.二人の外出
お礼を言うのを忘れていた。そう気づいた時には遅く、アクシオは既に部屋を出て行った後だった。
彼が部屋を出て行っても、ヴィルエはじっと自らの手を見つめていた。彼はとうに離れていったというのに、ぬくもりが残っているような気がしている。
(あの人……ずっとそばにいてくれたのかしら)
馬車で眠りについてしまったらしく、ヴィルエが気づいた時には屋敷についていた。その傍らでは、ベッドにもたれかかってアクシオが眠っていたのだが――彼の姿は『夜梟』ではなくアクシオだった。
彼が助けにきてくれただけでも驚いたというのに、まさか心配までされるなんて。ありがたい反面、彼にお礼を伝えていないことを申し訳なく感じてしまう。
そう考えていると控えめなノックの音が部屋に響いた。
アクシオが戻ってきたのだろうかと思ったが、現れたのはミゼレーだった。朝食を載せたワゴンを押して部屋に入ってくる。
「食事をお持ちしました――どうしました、そんな顔をして」
ヴィルエの表情に気づいたらしく、ミゼレーが首を傾げている。アクシオだと思っていたなど知られたくなく、ヴィルエは小さく首を横に振る。
「気にしないで。ぼうっとしていただけ」
「それなら良いのですが……昨晩は驚きました。まさかヴィルエ様があんな風に眠っているだなんて」
ティーポットのお茶を注ぎながらミゼレーが言う。
「お嬢様はお酒に強い方だと思っていましたが」
「……私もよ。まさか眠ってしまうなんて」
『社交界の黒花』として生きるには酒の場は避けられない。もとより酒に強いこともあったが、慣れるようにと練習してきた。ほどよい飲み方や逃げ方も学んだつもりだ。だからデールの屋敷でも、そこまでの量を飲んでいないのだが。
「気が緩んだのですかね」
ミゼレーが呟く。何気ない一言ではあったが、それはじゅうぶん腑に落ちた。
屋敷から出て『夜梟』と共にいる。守られている。その感覚がヴィルエの気を緩めたのだろう。彼女にしては珍しく、安心してしまったのだ。
(だからってあんな風に眠ってしまうなんて)
これまでは、どんな場にいても気を緩めることはなかった。貴族相手の立ち回りに隙を作ってはならない。そうして気高く、隙のない女性として演じてきたというのに。
だが同時に、相手がアクシオで良かったとも思ってしまった。彼以外であればもっと慌てていただろう。
ほっと息をついているとミゼレーがこちらに向き直った。真剣な顔つきになり、声をひそめて告げる。
「ヴィルエ様を連れてきた者は初めて見る者でした。仮面をつけていたのでどなたかはわかりませんが……暗がりでしたので、仮面の模様なども見分けはついていません。ヴィルエ様は、その者に心当たりはありますか?」
その問いかけから、ミゼレーはあの男こそが『夜梟』ではないかと考えているのだろう。諜報任務を行うことが多いため、ミゼレーは勘が鋭い。あの模様こそそうであったのかもしれないと確信を得るべく、ヴィルエにも問いかけているのだろう。
少し迷った後、ヴィルエは首を横に振った。
「……いいえ、わからないわ」
レインブル家の任務で『国王の耳』。王家のために動く者たちは協力をせねばならず、そのためであれば父やミゼレーに隠し事をするのは御法度だ。わかっているのだが、ヴィルエは嘘をついた。
「もしよろしければ、こちらで探りましょうか?」
「その必要もないわ。興味ないもの」
てっきり、相手の男について探れと命じられると思っていたのだろう。ミゼレーは驚いたように目を見開いていた。
「アクシオ様は、ずっと私のそばにいたの?」
温かな紅茶に口をつけ、ヴィルエが問う。
「私の知る限りはそうですね。旦那様は朝までこの部屋から出てこず、お休みになっていたのではないかと」
「誤解を与えそうな表現だわ」
「何があったのかはお二人しか知らないことですので。使用人の一部は今回の件に盛り上がっているようですが」
ヴィルエの眉がぴくりと反応する。
「盛り上がるって、どうして?」
「旦那様とヴィルエ様の冷えた仲に気まずさを抱く者が多かったようです。ですから、ようやくお二人が夫婦として歩み寄ったのだと、食堂で話が出ていましたが」
これまでの日々を思い返す。結婚しても一度も顔を合わさずにいた二人だったのに、突然二人で食事を取るようになり、かと思えばヴィルエの部屋に行ったきり朝まで出てこなかったのだ。知らぬ者たちが誤解するのも当然だ。
これまでのヴィルエであれば違うと反論していただろう。だが、真っ先に浮かんだのはアクシオの反応だった。これを知って、アクシオはどんな反応をするだろう。顔を赤らめて照れる様を想像し、ヴィルエは笑い出す。
「ヴィルエ様?」
「ふふ……なんでもないのよ。ちょっと面白かっただけ」
***
食事から数時間後、ヴィルエはアクシオと共に馬車に乗っていた。
(まさか、一緒に出かけることになるなんて)
というのもアクシオにお礼を言おうとしていたのだが、グレン曰く今日は領内視察の予定があったらしい。ならば別日に改めようとしていたのだが、どういうわけかヴィルエも同行することになってしまった。
その話をまとめた時のグレンが妙に柔らかな表情をしていたことから、ミゼレーの言う通り屋敷の使用人たちはヴィルエとアクシオの関係が変化したと考え、盛り上がっているようだ。
ヴィルエはちらりと、向かいに座るアクシオを見る。彼は頬杖をついて窓の外に視線を送っている。
昨晩と違い、今日はアクシオとしてここにいる。その顔を遮るものはない。
(こうして見ていると……なかなかの男前なのに)
『夜梟』として仮面をつけている時は他人を寄せ付けない冷徹な男に見える。だが、こうして仮面を外せば印象が変わる。格好良さだけでなく、年齢相応の可愛らしさのようなものも感じた。
(可愛らしいと思ってしまうのは私だけかもしれないけれど)
それは彼が動じた時の反応を知るヴィルエだけなのかもしれない。そのことを思い出して微笑んでいると、彼が気づいたらしくこちらに向いた。
「何か面白いことでもあったのか?」
「いえ。旦那様を観察していただけです」
彼をじっと見つめながら正直に告げる。彼のことだから視線を逸らすだろう。そんなヴィルエの予想は当たり、彼は少し赤らんだ頬を隠すように顔を背けた。
「……観察をするな」
「まさか照れていらっしゃいますの?」
思った通りに恥じらうアクシオが面白く、ヴィルエは再び揶揄う。
「格好良いところもあるのだなと見ていただけですのに」
「か……格好いい? 俺が?」
「そう思ったから告げているだけですよ。でも、顔が赤くなりましたわね? 何かありまして?」
二人しかいない、狭い馬車の中だ。逃げ場はない。それを理解しているのか、アクシオの頬はさらに赤くなり、困ったようにため息をつく。
この様子からして、他人から『格好いい』と告げられることに慣れていないのだろう。彼は困惑した様子で声も上擦っていた。
「……揶揄うのはやめろ」
「ふふ。旦那様の反応が面白いせいですわ」
正直なところ、アクシオの反応は新鮮で面白い。もっとからかってみたいと意地悪な心が生じる。
だが、ひとまずは悪戯するのをやめる。アクシオと話したいと思った一番の理由はお礼を伝えることだ。そのため、ヴィルエは短く息を吸い込み、真剣な声音で告げる。
「朝まで介抱してくださったと聞きました。ありがとうございます」
「……いや、別に。俺も眠ってしまったから」
アクシオと『夜梟』、二人に向けての二つ分のお礼。だがそれを知るのはヴィルエだけだ。アクシオはこれをどう思っているのだろう。
(あなたが『夜梟』だとわかっている。それを告げられたら、スムーズに話が進むのに)
お互いの言葉が重たくぎこちないのは、それぞれの間に隠し事が存在しているためだ。アクシオも俯き、何かを考えこんでいる。
それでも彼は口にしないのだろう。いやできないのかもしれない。馬車の中で触れた、彼の過去を思い出す。
(暗殺者としての訓練を受けてきた……きっと私にはわからない苦しみがあったのでしょうね)
全てを知ったわけではない。彼が、ぽつりとこぼしたその過去は小さな欠片に過ぎないのだ。それは彼の体に残るいくつもの傷が物語っている。
アクシオは――ヴィルエの知らない多くのものを背負っているのだろうか。背負うのを手伝うなど軽率なことは言いたくない。けれど、彼がそれらを背負ってでも進もうとする場所がどこであるのかは気になってしまう。
(……旦那様のことを知りたい。そんな風に考える日が来るなんて思ってもいなかったわ)
自らの思考を客観視して、ヴィルエは苦く笑う。
アクシオと共にいるうちに、何かが変わってきてしまった気がする。
ただお礼を告げる。それが、二人の間に沈黙を生んだ。気まずい空気が流れている。
このまま到着まで黙り込んでいるのは居心地が悪い。ヴィルエはふっと笑って彼に話しかけた。
「そういえばご存じです? 屋敷の者たちは、私たちの関係を誤解しているそうですよ。私の部屋で朝まで旦那様が休んでいたと皆が噂をしていたとか」
「は……?」
これは予想外だったのか、アクシオは驚いた様子であった。彼なりに思いあたるものがあるらしく、額に手を添えて考えこんでいる。
「噂の出所は誰だ? グレンか? いや……ま、まあそうは見えるかもしれないが……だが、そんな噂をするなんて別に……」
「夕飯のデザートにはケーキを作らなければとシェフが張り切っているとか」
「誤解だろ。あれは何事もなかった。俺の知らないところで変な噂話をするなんて、あいつら……」
彼の反応からして盛り上がっているのはグレンだけだと思っていたのだろう。そうではないと知り、想像以上に動じている。
その狼狽えっぷりを面白く眺めながら、ヴィルエはさらに追い打ちをかける。
「私は別に構いませんけれど。その様子では……旦那様はそういう噂が屋敷内に流れるのが嫌なのですね?」
「い、いや……そうじゃなく……ああ、もう!」
ついには手で顔を覆い隠してしまった。
面白すぎる。
アクシオという男は、格好いい見た目をしているくせに、恋愛ごとに疎すぎるのだ。
もう少し揶揄ってみたい。その好奇心に急かされ、ヴィルエはアクシオの隣に席を移す。
「は? おい、どうしてこっちに座る!?」
「旦那様がお顔を隠されてしまったから、ですわ」
ヴィルエによる怒濤の攻勢にやられているのか、アクシオの表情には恥じらいと動揺がはっきりと現れている。黙っていれば凜々しいアクシオがそのように慌てているのだ。ヴィルエの心にある加虐嗜好がぞくぞくと喜び出す。
「旦那様が女性に不慣れなのはよく存じていますが、もう少し耐性をつけた方がよろしいのでは?」
「お、俺はお前と結婚した身だ。耐性なんていらないだろ」
「あれは形式上でしょう? キスさえもしていない夫婦だなんて知れば、皆が笑うでしょうね」
キス。その単語を聞くなり、アクシオが言葉を詰まらせる。思考が停止しているのか動きもぴたりと止まってしまった。
その動きも、ヴィルエにとっては最高の反応であった。これほど面白い男を見るのは初めてだ。彼女の唇は愉悦に弧を描き、挑発するようにアクシオの頬に触れる。
「私に興味を持つことはないと仰っていましたけど。もう少し女性に興味を持ってはいかがかしら」
「お……お前……」
拳を堅く握りしめ、ぷるぷると震えている。アクシオからすればこの距離も限界なのかもしれない。
そろそろアクシオを解放するべきだろう。彼の反応に予想以上の収穫を得たヴィルエは満面の笑みを浮かべる。
「いじめすぎてしまいましたわね。お気になさらず、旦那様の反応が面白くてからかっただけですわ」
そう告げて立ち上がり、元の場所へと戻ろうとしたのだが――強い力に引っ張られ、移動が出来ない。見れば、アクシオがヴィルエの手を掴んでいた。
「俺だって、やられっぱなしじゃない」
彼が呟いたその言葉が、ヴィルエの鼓膜をかすめる。地を這うような低い声にどきりとする。
からかって遊んでいたはずが、踏み込んではいけない領域に入っていたのかもしれない。そう考えてしまうほど、アクシオの表情が違う。
「ヴィルエ。俺は――」
そうしてアクシオが何かを言いかけたところで、馬車が速度を落とした。前方から馬の鳴き声もする。
その変化はアクシオを冷静にさせたのだろう。彼ははっとした表情をした後にヴィルエの手を放した。
「着いたな」
その言葉と共に馬車は完全に止まり、グレンがこちらにやってくる。馬車の扉を開こうとしているのだろう。ヴィルエは元の場所に戻り、何事もなかったかのように座る。
平静を装い、いつもと同じ表情をしているヴィルエであったが、内心では心音が騒いでいた。手を掴まれた時の力強さやアクシオの切ない表情が、頭から離れてくれない。
(旦那様を揶揄って遊ぶのは楽しいけど、たまにああして強気になるのは……ちょっっと悔しいわ)
こちらが優位に立ち、アクシオで遊んでいたはずだ。しかし馬車が止まらなかったらどうなっていただろう。彼が飲み込んだ言葉が気になる反面、それを聞いては良くない気もして心がざわついている。




