18.闇に寄り添うもの(アクシオ視点)
「しっかりしろ! おい、どうした!?」
腕の中にいるヴィルエに何度も声をかける。しかし彼女の瞼は閉じたまま動かない。
見たところ怪我らしきものはない。呼吸もしている。死んでいるというよりも眠っているのだろう。完全に意識が落ちているのか、彼女の重みがずしりと腕にのしかかる。
(そういえば……顔が赤い、かもしれない)
『夜梟』として接触したからかと思っていたが、それにしては不自然な赤みだ。思えば瞳も潤んでいたような気がする。
幸いにも馬車は屋敷に着こうとしていた。予定ならばここでヴィルエを下ろし、時間をおいた後にアクシオとして戻ってくるつもりだった。
どうしたものか。そう考えていると、屋敷の入り口に人影が見えた。
(あれは……ヴィルエが連れてきた従者か)
名はミゼレー。ヴィルエが唯一連れてきた侍女だ。彼女にならばヴィルエを託せるだろう。アクシオは急ぎ、ヴィルエを抱きかかえて馬車を降りた。
「ヴィルエさ……え?」
どうやらミゼレーはヴィルエが戻ってきたと思ったらしい。こちらに駆け寄ろうとしていたが、彼女を抱きかかえているのが『夜梟』と気づくなり、びたりと足を止めた。
だが構っている場合ではない。アクシオは硬直しているミゼレーのそばに寄る。
「……お前の主人だろ」
「あ……え、ヴィルエ様……どうして……」
「突然倒れた。こいつを介抱してやれ」
ミゼレーにヴィルエを託し、背を向ける。
「あ、あの、なぜ……というかあなたは……」
立ち去るアクシオに向けてミゼレーが何かを言っていたが、これ以上『夜梟』の姿を見られるわけにはいかない。振り返らず馬車に戻る。
馬車に戻るとすぐに御者に声をかけ、出発を命じる。
(……俺もすぐに戻らないといけないな)
馬車は屋敷から遠ざかる。それでもヴィルエのことが頭から離れない。早く、アクシオに戻らなければ。焦れた思いばかりが募る。馬車の速度もいつもより遅く感じるほど。
***
一時間ほど経ってから、アクシオは屋敷に戻った。玄関から入ることも考えたが、ミゼレーに変な疑いをかけられたくはない。壁と柱を使って自室のバルコニーまでひょいとよじ登ると、慣れた手つきで窓の鍵を開ける。
そうして自室に戻ったものの、すぐに部屋を出る。行き先はヴィルエの部屋だ。
(あいつは……大丈夫だろうか)
馬車を降りた後に仮面は外している。ヴィルエを託してからというもの、彼女の様子を確かめたくて落ち着いてはいられなかった。
ヴィルエの部屋前にはミゼレーがいた。ちょうど部屋から出てきたところらしい。空のトレーを持っている。
ミゼレーは『夜梟』に会っている上、ヴィルエについてアクシオは知らないことになっている。正体が知られぬよう気を払いながら、ミゼレーに声をかけた。
「こんな時間に部屋から出てくるなんて。ヴィルエに何かあったのか?」
平静を装っているが、内心では心音が騒いでいる。こちらの気も知らず、ミゼレーは首を傾げていた。ぽかんとした様子に、アクシオは苛立ちながらも再度問う。
「何かあったのかと聞いている」
「すみません。まさか旦那様がヴィルエ様のことを気にされると思っていなかったので」
我に返ったらしいミゼレーは前置きをしてから答える。
「ヴィルエ様でしたら、お休みになられています……たぶん、飲み過ぎたのではないかと」
「の、飲み過ぎた?」
予想外の返答だ。飲み過ぎた、ということがあるのだろうか。
だがミゼレーも納得していないらしい。彼女も不思議そうにしていた。
「ああ見えて酒に弱いのか?」
「いえ。ヴィルエ様が酔うことは滅多にありません。お酒に強い方でしたし、今日はそこまで飲まないと話していたのですが……珍しいことです。気が緩んだのかもしれませんね。あんな姿を見たのは初めてです」
思い当たることはあるかもしれない。
『夜梟』に扮して彼女を迎えにいった時、はじめは強ばった表情をしていた。デールが下衆野郎だと知っていたことから、薬を盛ることまで予測していたのだろう。どのように回避したのかは聞いていないが、テーブルに置いてあったワイングラスから想像するに入れ替えたと考えられる。
(……彼女は何かの目的のために、警戒しながらもデールの屋敷に乗り込んだのか)
もしもアクシオが駆けつけなくても、彼女なりに脱出していたかもしれない。
それについては彼女を甘く見ていた。自分が手を貸さなくても、ヴィルエは強い。案じていた展開にならなかったことに安堵していたのだが――もしかすると違うのかもしれない。
(もしも、俺が救出にいって、だから気が緩んだのだとしたら)
その仮説があっているのかどうかはわからない。彼女に聞いたとしても答えてはくれないのだろう。
答えが出ないとしても、望んでいる言葉が返ってこないとしても、それでもヴィルエに会いたい。
「部屋に入ってもいいか?」
「構わないと……思いますが。どうして私に聞くのでしょう。ここは旦那様の奥方がいる部屋ですので、私に決定権はありませんが」
「……そう、だな」
冷静なミゼレーの返答に、アクシオは短く笑う。どうしてか、ヴィルエのことになると調子が狂う。侍女に入室許可を得るなんてあまりない話だ。
おずおずと扉を開け、中に入る。ミゼレーが言った通り、ヴィルエはベッドで横になっていた。
アクシオは静かに距離を詰めていく。ベッドのそばまで近寄るとその場に膝をついた。
(……何事もなくてよかった)
デールの屋敷に行った後だからか、ひどく不安になった。自分の知らない間に何かが起きていた、ヴィルエが傷つけられていたのではないかと考えたものだ。
それがまさか、酒に酔ったとは。拍子抜けする理由ではあるが、安心してしまう。
(馬車でのあの会話も、酔っていたからなのか?)
彼女が暗殺者になりたがっては困ると考え、少しだけではあるが過去を明かした。思い出すのも躊躇われるそれを口にするのは初めてで、その相手がヴィルエになるとは思ってもいなかった。
(哀れむでも軽蔑でもなく、お前は理解していた)
これまでアクシオが抱えていた仄暗い感情を、ヴィルエは驚かずに受け止めていた。まるで自分も同じ闇を知っているかのように。
『あなただって、そうしたいと思うほどの理由があるのでしょう?』
その言葉から、ヴィルエも背負っているのかもしれない。アクシオが暗殺者でいなければならないのと同じように、ヴィルエにも使命があるのだとしたら。
「……お前が背負ってる理由は何だ?」
眠りにつくヴィルエの髪を撫でながら呟く。
もしも彼女が目覚めていれば、こんなことは出来なかっただろう。眠っているとわかっているから臆さずに手を伸ばすことができるのだ。
そうして髪だけを撫でるつもりだったが、頬に指が触れた。彼女の体温が伝わり、心音が一層大きくなる。
「敵であったとしても……お前を傷つけることはできないかもしれないな」
ヴィルエがそばにいる。彼女のことが気になる。そんな自分自身の感情に苦く笑う。
暗殺者としてそのような感情はいけないとわかっている。封じるべきだ。頭ではわかっているのに体が追いつかない。
彼女が敵だとしても斬り捨てるなんて出来ない。それに気づいたのはデールの屋敷に着いた時だ。
敵だとわかったのならその場で彼女を斬り捨てるつもりだった。だが、ヴィルエの姿を視界に捉えた瞬間、殺意は霧散した。敵かどうかはわからない、そんな甘い考えが思考を支配し、刀に手を伸ばすことは一切なかった。
命を奪う瞬間も、奪われる瞬間も見たくはない。そのように考えてしまう人は、ヴィルエが初めてだ。
「引き返せなくなっているのは、俺なのかもしれない」
***
アクシオをまどろみから呼び起こしたのはヴィルエの声だった。
「え? 旦那様?」
その声が鼓膜を揺らすなり、一瞬にして目が覚めた。
がばっと勢いよく身を起こすと、同じく目が覚めたのだろうヴィルエが体を起こしてこちらを見ていた。
「目が覚めたのか」
「……目覚めはしましたけどこの状況はいったい? それから手が――」
指摘され、己の手を見やる。右手の先に、ヴィルエの手がある。どうやら彼女の手を握りしめているうちに眠りについてしまったらしい。それを思い出し、アクシオは慌てて彼女の手を離した。
「わ、悪い……これは、その」
「寝ている女性に触れるなんてどうかと思いますわ」
ヴィルエは顔を顰めてぴしりと告げた。これには反論のしようがない。だが、デールのように悪心があったわけではないと弁明しなければ。
「違う。これはそういう意味じゃ――」
「ふふ。わかっていますよ。冗談です」
早口気味に釈明しようとしたところで、ヴィルエに遮られた。彼女は慌てるアクシオの様子を楽しむかのように笑っている。
「心配したからここにいたのに、ひどい言われようだな」
「旦那様の反応が面白いので、遊んでみたくなるだけですわ」
柔らかく微笑んでいるようで、けれどこちらを揶揄うまなざし。アクシオがよく知るヴィルエの表情だ。
「ところで、私はどうしてここに?」
頭が痛むのかヴィルエは額を押さえている。顔色もあまり良くない。昨晩は馬車で眠りにつき、気がついたら自室にいたのだから混乱するのも仕方のないことだ。
アクシオは事前に考えていた言葉を口にする。
「屋敷の前で倒れていたと聞いた」
「え……ああ、そうでしたわ。疲れてしまって……たぶん、気を失って」
昨晩のことを思い出しつつあるのか、ヴィルエが思い出したように頷いていた。
彼女は『夜梟』がアクシオだと気づいていてもそれを口にはしないだろう。知らないふりをして話をするだろうと読んでいたのだが、その通りの返答であった。
(少しはお前の行動が読めるようになってきたのかもしれないな)
彼女についてはまだわからないことが多い。けれど、少しずつ謎が解けてきたような気がする。
きっとこの後は無理をしてでも起きて、昨晩の状況把握をしようとするのだろう。アクシオは先手を打つ。
「まだ寝てろ。具合が悪いんだろ?」
「お気になさらず。私は大丈夫ですので――」
「いいから黙って休め。食事の支度ができたらここに運ばせる」
自分は元気だと主張するヴィルエに耳を貸さず、アクシオは彼女の部屋を出た。
朝食を取りに行く前に自室へ戻る。部屋に入るとグレンが待っていた。
「ああ、戻ってきたんですね」
「待たせて悪かった」
「構いませんよ。奥様の部屋で休まれていたと聞いていますから」
妙ににやついた顔をしていると思えば、アクシオがヴィルエの部屋にいたことを知っていたらしい。おそらくはアクシオがヴィルエの部屋から出てこないとミゼレーに聞いたのだろう。
朝からヴィルエに揶揄われただけでなく、グレンにも揶揄われることになりそうだ。うんざりとしながらもアクシオは机に向かう。
「まさか、奥様の部屋で一晩を過ごすなんて。こんな日が来るとは思ってもいませんでしたよ」
「お前が想像しているようなことはない」
不埒な妄想でもしているのだろうグレンには申し訳ないが、そのように盛り上がることはない。眠る彼女のそばでうっかり眠ってしまっただけだ。
だというのにグレンの表情はまだ緩んだままであった。
「またまたそうやって隠して。隠さなくてもよいことだと思いますがね。これまでまったく女性に興味のなかったアクシオ様が……いやあ、めでたいです」
「その話はもういい。それより報告は?」
居心地の悪い空気を払うべく話題を変える。
グレンはつまらなさそうにしていたが、ようやく真剣な表情へと戻った。
「調査が完了しました。王家の者にも確認を取っています。これで奥様の目的に近づけたかもしれませんよ」
アクシオは顔をあげた。
どうか彼女が敵ではないように。敵だとしても傷つけることなんてできないから。
引き返せない感情を抱き、願いを込め――グレンの報告を聞いた。




