1-3、身代わりに立つ者
リタの言葉に、少女は息を呑む。
湖面は月光を受けて静かに光り、波紋が広がっている。しかし少女の目には、揺れる樹影が、ただのシルエットにしか見えない。
一番安全な選択は、ネロたちから離れることだろう――だが、この見知らぬ大地で独り残された彼女に、行き場など最初からない。
徒歩で故郷へ戻るなんて、そもそも不可能な話。
いいや――
もはや『家』と呼べるものすら、彼女の世界からは消え失せていた……
ここは、彼女が生きた時代でも世界でもない――知る人も愛する人も、誰一人として……
根を失った晩秋の紅葉のように、ただ冷たく荒れる波の上に漂っているまま――
この、果てのない『世界の果ての海』を。
少女は顔を上げ、空を埋め尽くす星々を見つめ、ふっと息を吐く。
胸の奥が、静かにぎゅっと締めつけられる。
『デルポイの神託』が的中し、月の女神に呼び出されてネロを助ける――本当にうちのことを指しとるんやな……
でも、たとえ鶏一羽でも縛る力すらあらへんよぉな、こんな弱いうちが呼ばれて来て、この絶望の淵に直面する皇帝の何の役に立てるんやろ。
いや――正確には『誰からも好かれへんクズ』と言うべきかな。
うちのような存在は、土に還って消え去るべきだ。
少女はここへ何度も戻って来てしまう。
心の檻から出ても、またそこへ戻って来る。
正直に打ち明けるべきやろか……
けど、話せば、うちのことを嫌悪するやろか……
「……!?」
少女はまた、ネロに強く抱きしめられるまま。
ま……
また?
なんで……
けど……
柔らかい……
この、久しぶりの……
感覚。
あかん……
ちょっと、涙がこぼれそうや……
けど、いかん。
「許してくれ……余はこんな駄目なヤツだ……」
ネロはぽつりと呟き、そのまま俯いている。
「大丈夫だよ、責めるつもりなんてないから」
少女はそっと抱きしめ返す。
ほんまは『守れない』って言いたいのに……
結局、顔見たら、その言葉は喉の奥に消えてしもた。
うちって……本音と建前、ちゃうんやなぁ……
月下の松林を掠める涼しい風のように、少女は小さく息をこぼす。
まぁええ……
少女は微かに目を閉じ、そして頭を上げる。
だったら、もう一度、生き直してみるしかあらへん。
少なくとも、この子には、今はうちが必要なんやな。
ならうちにできることを、彼女のために何かやってみよかなぁ……
ふと、少女の視線はリタの肩へと落ち、低い声で問いかける。
「そう言えば、さっきからずっと聞きたかったのだけれど……アナタたちの顔、似ていますわね……以前、誰かにそう言われたことはありますの?」
リタは思わず息をのむ。
しかし、皇室付きのメイドとして礼儀作法を叩き込まれてきた彼女は、わずかに間を置くだけで平静を取り戻し、淡々と答える――
「……確かに、主人に仕えるようになってからは、よくそのようなことを言われます」
「うん、それが……多分、今最もやれる作戦ですね」少女は間を置いてから続ける。「彼女の身代わりをお願いしたいのです。大通りを走って、反乱軍の目を引いてくださいます?その隙に、わたしたちは脇道からそっとバタヴィアへ向かいます」
「……それは、恐らく少し無謀なのでは?」周囲に誰もいないのに、リタは思わず声を潜める。「確かに、髪色も背格好も似てはいますけれど、瞳の色が違います。一度でも見たことがある人なら、見間違えることはありませんわ」
「ううん……もし相手がそこまで近づいて、瞳の色まで確かめようとするなら、もうあなたの用はないってことになるわね」少女はじっとリタの背に担がれた大鎌を見つめ、口元に微かに笑みが浮かぶ。「それは、ひょっとして飾りで持ってるだけなの?」
「ふっ」
リタはわずかに眉をひそめるが、すぐには答えない。
ネロはただ、黙って隣に立っている。
あたかも……神の裁きを待つ者のようだ。
「まだ夜明け前なので、今なら隠れる時間がありますわね」リタがすぐに答えないのを見て、少女は静かに続ける。「日の出までに包囲を抜け出せれば、その後は元老院も反乱軍も、捕らえるのがどんどん難しくなるはずですわ」
目の前のネロと少女をじっと見つめてから、リタはわずかに眉をひそめるが、何も答えない。
もし相手がヘラクレスのような屈強な男であれば、一応ネロを無事に目的地まで守り抜けると信じることもできただろう。
だが、その少女は触れれば壊れてしまいそうなほど儚げで、風が吹けば飛ばされてしまいそうにしか見えなかった。
それに『神の使い』と呼ばれるこの少女には、謎も、その提案に不確かな点も多すぎた。まともな判断ができる人間なら、見知らぬ他人の言葉を簡単に信じるはずがなかった。
たとえ、その相手が本物の『神の使い』であったとしても。
でも……
万が一、相手が真実の『諸神の意志』を宿していたらどうする?
どれほど頼りなく見えたとしても、アポローン様が神託としてその少女を支えている可能性はあった。ここで拒めば、それは太陽神への冒涜となり、神罰が下されるのかもしれなかった。
そんなことになれば、自分のせいで主人を窮地に追いやることになるのでは――
前へ進むのも、後ろへ下がるのも、そのどちらも簡単には決められなかった。
どうすればいい?
リタは静かに息を吐く。
思考は、ミノタウロスの迷宮の中をただ彷徨い続けた。
どの道を辿っても、最後には出口を見つけることができなかった。
どうすればいいの……
食われるしかない、というのか……?
時だけが、ゆっくりと流れていく。その沈黙を破る者は、誰一人としていない。
野原の奥から、コオロギの鳴き声が微かに響いてきた。それが黎明前の深い闇の静かさを切り裂く、唯一のざわめきだ。
骨の髄まで刺すような冷たい雰囲気が、さらに鋭さを増している。
「まだお決めになれないの?彼女の命、今あなたの手中にありますのよ」
少女は、低い声で言う。
黙っとるのは、返事を待っとるだけやのに。アンタと共に時間の流れを感じたり、哲学の奥義を悟ったりするためなんかちゃうわ!
「……もし関守や検問の者と鉢合わせした場合、どうなさるおつもりですか?知りたいのは、それだけです」
「そんなこと、何でも構わないのでしょう……クテシフォンから来た旅人だと言っておけばいいだけよ、まず怪しまれないでしょう――まさかパルティアまで行って、身元を確かめるわけにもいかないでしょう?」
「……けれど、異邦人が国境を越えるには証明書が必要なのよ、持っていますか?」リタは呆れたように言う。「書類を出せなければ、その場でばれてしまいますわ」
その言葉を聞いた瞬間、少女の漆黒の瞳が夜空を裂く稲妻のように鋭く光った。
「……えっ?ローマにも、査証があるの……?」
風がそっと吹き抜けるような囁きだったが、その言葉は確かにリタの耳に届いていた。
「……『チァンジョウ』って?」
リタは初めて耳にするその言葉に、小さく眉をひそめる。
「あっ、何でもあらへん」少女は視線を逸らし、話を変える。「それでも、方法ならありますよ」
「どうするつもりですか?」
「言えないよ」
リタが問い詰めても、少女は唇を軽く結んだまま、何も言わない。
「どうして?」リタはわずかに首を傾け、心の奥まで見透かすかのような鋭い視線で少女を射抜く。
「もし教えたら……この子を売り渡すかもしれません」少女は唇を噛みしめ、一瞬の間を置いて言う。
「グライキアの名誉にかけて誓います。たとえ明日ローマが滅びようとも、リタは決して主人を裏切りません」リタは目を細める。
「リタ、その忠誠はすでに時の試練を超えた。天地も知っておろう……だからこそ、汝を信じ続けてきたのだ」リタはネロの前で片膝をつき、強く抱きしめられる。
少女は、それをどこか舞台劇を眺めているような気分で見ている。
……って、今そんな場合じゃないでしょ、うち。
少女は眉を微かにひそめ、口を開く。
「……もう、余計なことはおっしゃらないでくださいよ。知っている方が増えるほど、秘密は守りにくくなりますのよ」
「でも、計画を知らなければ、もし道中で何かあったら、どうやって探せばいいですの?」
「必要なんてありません。必ずバタヴィアまで連れて行きますから……」
少女は傍らに立つネオフィトスから白いストラ(※1)を受け取り、彼の手を借りて身に纏う。
えらい大きいなぁ、この服。
まぁぁ……せめて裸よりマシやろ。
と考えながら、彼女は「どうも」とつい口から出てしまった。
ネオフィトスは目を丸くして、慌てて少女の足元にひれ伏してしまう。
ん?
少女はほんの少し目を見開く。
しかし、ネオフィトスは全然動かない。
まぁぁ……
本人が良いなら、別にええけど……
少女は余計な口を出すつもりはない。
「……そう言われましても、恐らく彼らがその思い通りに、そんな簡単に動くとは思えませんけどね」
リタはゆっくりと首を振り、小さくため息をつく。
「もし目立ちすぎたら、きっと誰にも信じてもらえませんよ」少女はちらりとリタを見て、淡々と続ける。「反乱軍には、『たまたま隙を見せただけ』だと思わせなきゃ。そうじゃないと、本物だって信じてもらえないでしょ」
「……それは、無理でしょう?」
「やってもみないのに、どうして決めつけますの?」少女は気にも留めず、小さく肩をすくめてみせる。「あなたはこの子の服を着て、彼女には古い服を着せますよ。そして……髪を切って、侍従に化けさせましょ」
「……それでも、危険すぎるでしょう」
リタは目を細めて見つめたまま、それ以上は何も言わない。
「だからこそ、成功の可能性が上がるのよ」少女も目を細めて見返す。「険しい道が安全な道でもある」
「二人で行くなんて、もうとんでもなく危険なことです。北への大道は見回り兵士がいるから、治安もそれなりに保たれておりますが。でも枝道や辺鄙な小路なら、強盗と手配犯だけじゃなく、獣や蛮族どもの縄張りです」
「心配ないよ。リタに護身術を叩き込まれたから、足手まといにはならないぞ」
ネロは銀色の長い剣を握って、自信ありげに言う。
「……そう言われても、二人だけでは絶対いけません。万が一、何か厄介なことに遭ったら、手伝ってくれる人もいませんのよ……せめて、その四人を連れていかせよう。きっと良い布石になるでしょうね」
リタは厳冬の夜中に、静かな湖面へ舞い落ちる枯葉のようだ。
「それはお断りします」少女はそう言う。
「えっ?どうして?」
「彼らを連れて行かせれば、従者がいない君は偽物だ、と知られてしまうのよ」
少女は、真剣な眼差しでリタを見つめる。
「……それでは、せめて二人を……」
「それでも嫌よ」少女はにべもなく断る。
「何ですの?どちらも二人ずつ連れていけば、問題なんて起こるはずありませんよね」
「連れて行く人数が多くなれば、見破られる可能性が高くなる。それに万が一、途中で彼らの正体を知る人に遭ったら、どうすればいいのかって、あなたにも分からないわよね。できれば、危険なことは避けた方がいいんでしょう?」
その時、少女の顔色はリタとほぼ同じぐらい悪くなる。
「ですが……」
「あんたな、一体どうしたいん?行くん?行かへんの?はっきり言いなさいよ」リタとの口論が終わる気配はなく、少女は声を荒げる。「この子の様子を見たら、見捨てるなんてできへんし、手伝いたいと思てるんや。もしうちのことを『いらん』と言うんやったら、今すぐ離れてもええよ」
「リタ、もういい……」
リタはまだ何か話したそうだが、ネロは静かに手を上げて制した。
「……ただ、その考えがちょっと甘すぎると思うから、少し不安なだけなんです」
「余は信じる……ううん、信じたい」
少女は静かに二人のやり取りを聞く。指先は、ほんの一瞬だけ、微かに動く。
なんやろ、手に入れるはずやったものを、誰かに一歩先を越されてしもたみたいや。
せやけど……
まぁ、もうどうでもええわ。
「……我が主人さまは信頼と希望に満ちているんですから――」リタは微かに肩を落とす。「どうか、彼女の望みに応えて、信頼を損ないませんように。『月の女神の使者さま』よぉぅ」
「それは、あなたの腕次第でしょう」少女は静かに言う。「何年も彼女と共に過ごしてきたあなたですら、敵の目を欺けないのなら、他にできる人はいないわ」
「こりゃ……随分と買いかぶられておりますね」リタは少女に初めて苦笑いを浮かべる。「困りますわ……使者様にまでそうおっしゃられてしまっては、このリタは主人のために、その体をお捧げするほかございませんね」
「リタ、絶対に死ぬな!もし汝の訃報を聞いたら、冥界へ探しに行くぞ」
ネロはリタの手を握り締める。
指先まで白くなる。
「主人さま……」
リタもネロの手を握り返す。声が少し震えている。
「言い過ぎよ、死ぬなんて」少女はその主従の二人を見つめるが、表情は何も変わらない。「街道を二、三日ほどぶらついて、元老院や反乱軍の注意を別の場所に向けさせなさい」
ネロとリタの視線は彼女の顔に落ちるが、二人とも何も言わない。
「そうですね……ブルンディシウムへ行って。彼らに『ネロは恐らく、アエギュプトゥスやパルティアへ向かったはずだ』と思わせるようにして」
「こんな厳しい要求というのに、一体どういうおつもりなんですの?そんなに軽々しく言ってのけるなんて、どう言うことなんですのよ!」
「自信を持って。アナタなら、きっとできるでしょう」
「あなたね、ただ理不尽な重い責任を、他人の肩に押しつけるばかりですわ」リタは笑っているのに、どこか諦め顔だ。「まるでイーカロス(※2)に、高く飛びすぎるなと忠告しているようですね」
「自分に無理をしてでも前へ進まなくちゃ、奇跡は起こらない――人間という生き物は、そういうものよ」少女はリタの話を無視することを選ぶ。「一番重要なのは、どんなに長い道のりでも、前に進む最初の一歩を踏み出すことよ」
「やっぱり、貴女様は本物の神使いでございますね。いろいろな意味で……たとえキケロであっても、貴女様の弟子にしかなれませんわよね」
この人、なんで嫌味ばっかり言うんやろ……
ひょっとして、彼女の前世は京都人やったんやろか?
「そう決めたら、もう時間を無駄にしないで」
少女は眉をひそめるが、それ以上は何も言わない。
ネロとリタが着替えている間、少女は時間をつぶすことをしない。髪を切るため、彼女は名も知らぬ解放奴隷に鋏と膠を持ってこさせる。
ネロの長い髪が邪魔になるだけでなく、余計な厄介を呼び込む恐れがある。
『髪と首、そのうち一方を失わねばならない』という究極の二択の前に、ネロはむっと頬を膨らませる。
でも結局、長い沈黙の後で、ネロは前者を選ぶ。
切り取った髪を膠で貼り合わせて、簡単なウィッグが出来上がる。これをつけていれば、事情を知らない者がリタの正体を見破るのは、さらに難しくなる。
しかし瞳の色だけは、さすがに少女にはどうにもできない。
もしネットでカラコン取り寄せて、ネロに着けさせられたら……
まぁぁ……
そんな余裕な時間もないはずやろ。
バカげた妄想が少女の脳裏に浮かぶ。
まぁ、めっちゃ近くで見られへん限り、皇帝の姿すら見たことのない兵卒 どもを騙せるやろ?
それに、大勢の人は顔立ちしか確認せえへん。わざわざ瞳の色に注意を払う人間なんか、あまりおらへんはずやろ。
少女は数歩の距離で、変装を完了した二人を見比べる。
ネロとリタはもともと身長も輪郭もよく似ていて、服装やウィッグを入れ替えただけでは、瞳の色と、バストや身長にわずかな差があるだけ。
異父異母の実姉妹のようだ。
「本当に替え玉になる才能があるわね」少女は肩をすくめて言う。「完璧というより、むしろキモいほどね」
「……キモい?」
ネロとリタは、ほぼ同じ頃に頭を傾ける。
「……あっ、『気持ち悪い』という意味です」
少女は慌てて視線を逸らす。
「……そう」
ネロは微かに頷く。
「アナタ様に嫉妬されるなんて、このリタには光栄ですわ」
「好きにしたらいい」
少女は固く口を閉ざす。
けれど、招かれざる来客は彼女の思惑より早い。
遠くの闇の中に、ほのかな灯りがふっと浮かび上がる。
※1、ストラとは、ローマ時代の女性の標準的な衣装で、男性用のトーガに相当するものであった。
通常のストラは亜麻や羊毛で織られたが、富裕層の女性は絹製のものを用いることもあった。
※2、イーカロス――ギリシャ神話に登場する人物の一人。
蜂蝋で固めた翼によって自由に空を飛んだが、父の忠告を忘れ、無心でより高い空へ向かって飛んでいった。その結果、太陽の熱で蝋が溶け、翼を失ってしまった。
彼はそのまま大海へ墜落し、命を落とした。
作中でリタが『イーカロスの翼』と形容したのは、少女が自分に対して『太陽へ向かって飛ぶな』という、誰にも守れない要求を突きつけたからであった。




