理事長先生
今回はあのイタズラっ娘香織編です
カランコロン、と、昔から変わらない気の抜けたカウベルの音が店内に響く。
「いらっしゃい……あら、香織じゃない」
カウンターの向こうから私を迎えたのは、かつて「学園のマドンナ」と謳われ、去年まで高校の国語教師をキリッと勤め上げていたはずの、木崎美緒さん(66歳)。今はすっかり『喫茶サフラン』の、ちょっと高飛車で美魔女なママの顔になっている。
「こんにちは、美緒さん。相変わらずお美しいことで」
「お上手ね。はい、お水。平日のこんな真っ昼間に、理事長先生が一体全体どうしたのよ」
そう、私、山下香織(62歳)。18歳の頃はサフランの常連で、洋風居酒屋『クローバー』のバイトとして先輩たちの恋愛模様をニヤニヤ眺める「いたずら好きの傍観者」だったわけだけど、人生わからないものである。実家の幼稚園を継いで、今や『山下学園・ひまわり幼稚園』の理事長。園児の前では「香織先生」、保護者の前では「山下理事長」としてお堅いお面を被っている。
だけど、この店に一歩足を踏み入れれば、私は一瞬で18歳の傍観者に戻れるのだ。
「ちょっと息抜きですよ。保護者面談が続いて頭がウニになりそうだったから、美緒さんのナポリタンでチャージしにきました。……あ、翔先輩、お久しぶりです」
奥の厨房から、エプロン姿でのそっと現れたのは、私の元バイト仲間であり、美緒さんの旦那様。そして、あと1年で定年退官を迎える現役の大学物理学科教授――津島翔先輩(64歳)。
「お、香織か。珍しいな。……ウニ? 脳の組織がウニに変化することはないが、精神的疲弊という意味のメタファー(比喩)だな。ちょうど今、豆を挽いたところだ。ブラジルでいいか?」
「相変わらず会話のキャッチボールが変化球ですねえ。ブラジルでお願いします」
昼間は冴えない、超絶鈍感天然男。その性質は、44年の歳月を経て「偏屈でマイペースな大学教授」へと見事に昇華されていた。時代は令和の現在なのに、この空間だけ昭和か平成初期で時を止めたような安心感がある。
ジューッ、と小気味いい音を立てて、美緒さんがフライパンを振り始めた。ケチャップの甘酸っぱい匂いが店内に広がる。
「はい、お待ち遠さま。うち特製のナポリタンよ。しっかり食べなさい、理事長先生」
「わあ、美味しそう! いただきます」
フォークに麺を巻き付け、口に運ぶ。これこれ、この濃いめの味付け。
「やっぱり美緒さんのナポリタンは最高。高校教師の次は喫茶店のママだなんて、本当にサフランを買い取っちゃうんだから驚きですよね。翔先輩をここに縛り付けておくには、これ以上ない城だし」
「ちょっと、人聞きが悪いこと言わないで頂戴!」
美緒さんがピクッと肩を揺らし、おしぼりを畳みながら声を尖らせる。
「私はただ、サフランのマスターが店を閉めるって言うから、この歴史ある空間が失われるのが忍びなくて買い取っただけよ! 翔が大学の帰りに寄り道しやすいようにとか、週末にまたここでカウンターに立たせてあげようとか、そんな、これっぽっちも考えてないんだから! ほんとよ!?」
出た。美緒さんの伝統芸能、脳内暴走。66歳になっても、翔先輩のことになると途端に余裕がなくなって、一人で勝手に自爆する高飛車マドンナ。可愛すぎる。
「はいはい、ごちそうさまです」
私はニヤニヤしながら、コーヒーを運んできた翔先輩を盗み見た。翔先輩は「?」と首を傾げながら、自分の眼鏡をクイッと上げる。
「美緒、さっきから声が大きいぞ。山下の幼稚園の園児募集に影響が出たらどうするんだ。……それにしても山下のところの幼稚園は、今年も経営のインプットとアウトプットのバランスが素晴らしいな」
「あはは、教授殿に数字を褒められると緊張しちゃう。でもね、翔先輩。私が今こうして立派に理事長やれてるのも、元はと言えば18歳の頃に鍛えられた『観察眼』のおかげなんですよ?」
「観察眼? 物理の実験でもしていたのか?」
「違いますよー。主に、目の前にいるお二人の、もどかしすぎる恋愛模様です」
私がそう言った瞬間、美緒さんが「ぶっ」と吹き出しそうになった。
「か、香織! 何を言い出すのよ、昔の話でしょ!」
「昔の話ですけど、超・重要案件ですよ? みなさん忘れてるかもしれないから、定期的に自己紹介がてらおさらいしておきますけどね。あの当時、翔先輩のことが好きなのにプライドが邪魔してツンツンしてた美緒さんに、『美緒さん、翔先輩のこと好きなんじゃん!』ってズバッと認めさせたの、この私ですからね?」
「あああーーー! もう、それ以上言わなきゃ気が済まないの!?」
顔を真っ赤にして、持っていたトレーで顔を隠す美緒さん。
「それだけじゃないですよ」
私はフォークを突き出し、さらにニヤリと笑った。
「美緒さんが自分の気持ちを認めた後も、この、宇宙の起源レベルで鈍感な翔先輩と、妄想全開で勝手に自爆する美緒さんじゃ、一生平行線のままだったんです。あの、二人が付き合う決定的なキッカケ……あれをお膳立てしてあげたのが誰だったか、まさか忘れてませんよね?」
「うぐっ……!」
美緒さんは完全にノックアウトされたように身悶えしている。あの「キッカケ」の時のことを思い出して、脳内が大暴走しているに違いない。内容は絶対に口にしてあげないけど、あの時の美緒さんの狼狽ぶりは、私の人生におけるトップ3に入る傑作エンターテインメントだった。
一方の翔先輩は、完全に蚊帳の外といった様子で、珈琲のサイフォンを見つめながら呟いた。
「キッカケ……? 確かあの時期、僕たちの間で何らかの特異点が発生した記憶はあるが……山下が何かしたのか?」
「ほらこれ! 44年経ってもこれですよ美緒さん! 私がキッカケを作ってあげてなかったら、今頃このサフランで一緒にナポリタン作ってないんですからね!」
「もう! 香織の意地悪! 翔も少しは当時のこと思い出しなさいよ!」
「思い出せと言われても、当時の僕の脳内リソースは熱力学第二法則のレポートで占められていたからな……」
相変わらず噛み合わない二人。でも、その空気感がたまらなく愛おしい。
三木俊くんと水野遥ちゃんも、理学部物理学科の同級生同士で付き合ってそのまま結婚したけれど、あの二人も「翔と美緒は相変わらずだなあ」って、今でも呆れながら笑っている。
「ぷはー、美味しかった! ごちそうさまでした」
ナポリタンをきれいに平らげ、ブラジルコーヒーを飲み干す。時計を見ると、そろそろ園児たちの降園準備の時間だ。お堅い理事長先生の仮面を、もう一度被り直さなきゃいけない。
「お会計、いくらですか?」
「もう、香織からはお代なんて貰えないわよ。散々からかわれたんだから」
美緒さんがぷいっと横を向く。
「ダメですよ、ちゃんとお商売なんだから」
私が伝票に千円札を挟んでカウンターに置くと、翔先輩が素早くそれを引っ込めて、お釣りを正確に数え始めた。
「山下、またいつでもサボりに来い。思考の停滞は脳の老化を招くが、ここでの会話はいい刺激になる」
「ふふ、ありがとうございます、翔教授。美緒さんも、またからかいに来ますね」
「もう、来なくていいわよ! ……なんてね。またおいで、香織。ちゃんと野菜も食べるのよ」
照れくさそうに笑う美緒さんと、最後までマイペースに見送ってくれる翔先輩。
カランコロン、と再びカウベルが鳴り、私は初夏の風が吹く学生街へと足を踏み出した。
背筋を伸ばし、理事長の顔に戻る。
さあ、仕事に戻ろう。44年前、あのお節介で最高に愉快なキッカケを作った自分をちょっとだけ誇りに思いながら、私は幼稚園へと歩き出した。
毎週土曜日朝更新です。来週はあの美男美女カップル遥と俊です




