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四十四年後の美緒と僕

掲載中の学園ラブコメのサイドストーリー。熟年カップルとその友だちを描きます。天然翔と脳内暴走マドンナ美緒はどうなっているのか?

第1話ボリュームを多くして書き換えました。

カランコロン、とノスタルジックな音色でドアベルが鳴る。

夕暮れ時の『サフラン』の店内には、香ばしい珈琲の香りと、静かなジャズが流れていた。僕はいつものカウンターの端、お気に入りの特等席へと滑り込む。

「いらっしゃいませ。……あら、翔くん。お疲れ様」

カウンターの奥から、お馴染みのカフェエプロン姿で柔らかい笑顔を向けたのは、この店のママ、美緒だ。

「お疲れ様、美緒さん。今日もちょっと、息抜きにね」

僕は席を立つと、入り口の近くにある見慣れたマガジンラックへと足を運んだ。そこから、最新号の週刊少年漫画雑誌を抜き取る。鞄から老眼鏡を取り出し、ページを開く。この年齢になって少年漫画というのも気恥ずかしいが、ここに来ると、完全に実家に帰ってきた子どものような絶対的な安心感に包まれてしまうのだ。

美緒はクスリと笑うと、手慣れた手つきで豆を挽き、丁寧にネルドリップでアイスコーヒーを淹れ始めてくれた。カラン、と涼やかな音を立ててグラスに氷が躍り、漆黒の液体が注がれる。

「はい、どうぞ。お仕事ご苦労様。学校の方はどう? 学生たちは相変わらず元気?」

「ありがとう。うん、レポートの採点に追われていてね。でも、僕が大学教授として教壇に立つのも、いよいよ来年までだから。そう思うと、今の忙しさも少し愛おしいよ。来年無事に退官したら、毎日ここでのんびり過ごすのが僕の夢なんだ」

僕はアイスコーヒーを一口啜った。コクがあるのにすっきりしていて、体に染み渡る。

「……ん、やっぱり美緒さんの淹れるコーヒーが世界で一番美味しいな。僕、死ぬまでこの店に通い詰めるって、もう心に決めてるから」

そんな未来を思い浮かべながら、僕はふわりと穏やかに微笑みかけた。

すると、愛用のグラスをクロスで熱心に磨いていた美緒の動きが、ピタリと彫刻のように止まった。よく見ると、彼女の耳の裏が、二十二歳のあの青い春の日と全く同じように、カッと鮮やかな真紅に染まっていく。

彼女の頭の中ではきっと、またいつものように大層な被害妄想と脳内暴走が繰り広げられているのだろう。「これからは仕事場でも合法的に、24時間365日、私の顔が見られるぞという恐るべき職権乱用システムだわ!」とか、「私を一生このサフランという名の檻に監禁するための外堀を、無自覚に埋めてくるなんて……っ!」などと、インテリな僕の裏の顔を勝手に仕立て上げて怯えているに違いない。

トレイを盾のように胸元へ抱きしめ、ぷいと不機嫌そうに顔を背ける彼女の横顔を、僕は可笑しさを噛み殺しながら見つめた。

「な、何言ってるのよ、この人たらし教授は! 毎日毎日、朝起きてから夜寝るまで、そんな調子で私の顔を見て、よく飽きないわけ!? あなただって、去年まで高校の社会科教師として毎日忙しく働いていた私が、定年退職した途端に『第二の人生のスタートよ!』って、七十八歳で隠居した先代マスターからこのお店をまるごと買い取ったとき、あんなに驚いていたじゃない!」

「驚いたよ。まさか美緒さんが、このお店だけでなく二階の自宅部分も含めて、建物ごと全部買い取るなんて思いもしなかったからね。おかげで一国一城の主だ。でも、飽きるわけないじゃない。だって僕たち、子どもがいない分、お互いだけをずっと見つめてこられたんだから。ねえ、美緒さん。何年経っても僕たちは新鮮な夫婦なんだよ」

老眼鏡の奥にある目尻を下げて、僕は僕なりの真心を重ねて伝える。そう、僕らは四十数年間、この店と共に人生を歩んできた夫婦なのだ。

「〜〜〜っ! このサイコパス天然タラシが……っ!!」

四十四年経っても一ミリも色褪せない、怒声の皮を被った美緒の熱い照れ隠しが店内に響く。これを見たくて、僕は少しからかうような言葉を選んでしまうのかもしれない。

「いいから、さっさとそれを飲み干しなさい!」

すっかり茹で上がった顔の美緒は、これ以上は照れくささに耐えられないとばかりに、カウンターの下からマイバッグを引っ張り出して僕の膝に押し付けてきた。ずっしりとした重み。中には夕飯の買い出しの食材が入っている。

「はい、今日の晩ご飯の材料。私はお店を閉めてから行くから、あなた先に二階の自宅に上がって、ごはん作っておいて頂戴!」

「はいはい、了解。じゃあ、上で待ってるね」

お店のすぐ上が、僕たちの愛しい我が家。

夕暮れ時の『サフラン』の店内に、彼女の小言という名の甘い愛情表現が、今日も心地よいBGMのように優しく響き渡るのを、僕は幸せな気持ちで聴いていた。

週末に投稿します。本編とともによろしくお願いします。

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