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【探し人を捜して】

      【探し人を捜して】 

 


  とある旧家の御子息が、鳥も通わぬ丑三つ時に、深刻顔で机に向かう。   


  『お父様、お母様 大変御世話になりました。

  それでも僕は上京します。自分で働いて暮らします。

  我ままをお許しください。 どうぞ御達者でお過ごしください』 



 幼い頃から背中には、桃の形の傷痕がある。

 その傷痕が疼く時、決まって同じ夢を見る。


 見知らぬ土地を彷徨いながら、誰かを探す夢を見る。

 どんなに探し続けても、それが誰かはわからない。


 帰る道さえ見つからず、途方に暮れてしゃがみ込む。

 とめどない寂しさに、体が地面に沈み込む。


 そんな夢見る少年が、中学に入った年の春。

 母の箪笥の奥深く、偶然見つけた小さな木箱。


 蓋の上には、『寿』と金の刻印。

 その下に、『御臍帯納』『御産毛納』の文字が並ぶ。

 箱の裏には、父の名は空白のまま、母の名の欄には見知らぬ名前。

 墨で黒く塗りつぶされた氏名の横に、身長、体重、生年月日。

 そして最後に、聞いたこともない病院名とその住所。


 書かれた紙が貼ってある。


(僕が生まれた日と同じ、いったい誰の……)


 震える手で箱を握り締め、ゆっくりと蓋を開けて見る。


(これは僕のへその緒と、生まれた時の髪の毛だ。

 黒く塗りつぶされているのは、僕の名前--)


 干からびたへその緒の上に、大粒の涙がポタリと落ちた。

 指先で湿ったへその緒に触れると、栓が抜けたように涙が溢れた。


 蓋を戻して涙をぬぐい、箱裏の記載をじっと見る。


(僕はこの病院で、人から生まれてきた。

 お母さんが僕を思う時、背中の傷が疼きだす。

 だから僕は夢を見る。お母さんを探す夢。

 学校を卒業したら、僕はお母さんを探しに行く。

 本当のお母さん、お母さんに会いに行く)


 その日を境に少年は、誰かを探して見知らぬ街を彷徨う夢を見なくなった。


 夢を見ることはなくなっても、木箱を箪笥に戻さずに、隠し持ち続けた少年は、十三歳の春に誓った約束を、決して忘れる事はなかった。


 そして五年の月日が流れ、少年は青年へと成長した。


  鳥が鳴きだす夜明け前、青年は家を出て行った。

  雀の声に見送られ、一人上りの汽車に乗る。 




     【港に近い病院へ】

 

 

 連絡船で海峡を渡り、汽車と電車を乗り継いで、やっとの思いで辿り着いた賑やかな港街。駅前の交番で、病院までの道を尋ねる。

 

 外国船も停泊する大きな港のすぐ近く、坂を上り切った場所、一際目立つ洋館は、遠目にも一目で分かった。

 

 走り出したい気持ちを抑えて、ゆっくりと坂を登り続けた。

 

 産婦人科の看板を確かめて、磨りガラスが入った扉から、目を凝らして中を伺う。うっすら透ける光の中に、人の気配はまるでない。

 大きな扉を引いてみる。扉はビクとも動かない。取手を回して押してみる。

ギイーッと音たて扉が開いた。


「ごめんください」

 受付の、小窓に向かって声かける。

「診察時間はもう終わりですが」

 小窓を開いて、受付係が言った。

「すみませんが、こちらで、お尋ねしたいことがありまして」

 受付係は、驚いた顔で青年の顔をまんじりと見た。

「お急ぎですか?」

「えっと……」

「先生は急患でも犬でも猫でも診てくださいますから、男の方でも問題はないと思いますが、どうなさいましたか?」

「実はそのう……」

「それでは、必要なことは先生と直接話してください。お名前と年齢をお願いします」

 受付係は、台帳を広げてペンを手にした。

 青年は、自分の名前と生年月日を告げた。

 受付係は、台帳に青年の名前と年齢を書き込んだ。


「今先生に話してきますから、お名前を呼ばれたら、そこのカーテンの向こうの診察室に入ってください」

 受付係はそう言うと、台帳を小脇に抱えて、ピシャリと小窓を閉めた。

「ありがとうございます」

 青年は、小窓に向かって頭を下げた。

     



     【話を聞くのは診察の後で】



 「--どうぞお。扉は閉めて入ってきてください」

 青年は、恐る恐るカーテンを捲りながら、背後の扉を閉めた。


「こんにちわ。そこに座ってくださいね」

 椅子に座った女医さんが、患者用の丸椅子を指して言った。

 青年は、広い診察室の中を見回しながら、居心地悪そうに腰掛けた。


「それで坊やは、どんな症状で困っているのかしら?」

「いえ別に、僕はその、どこが悪いというわけではないのですが……」

「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。坊やくらいの年齢になると、親にも言えないような事で、病院を訪ねる事だってあるものよ」

「え? そうなのですか、僕だけじゃないのですね」

「誰でもっていうわけではないけど。十八歳だと、学生さん?」

「いえ、学校は三月に卒業しました。これから仕事を探す予定です」

「それだったら採用条件として、医師の診断証が必要な職場もあるでしょ」

「そうなんですか? そんなこと知りませんでした」

「よかったら、ついでに一通り診ておきましょうか?」

「ありがとうございます。お願いします」

 

 女医さんは、キャスター付きの椅子を移動させ、青年の額に手を当てた。

「熱はなさそうねえ」

 そう言いながら、目の前に顔を近づけて、青年のまつ毛の付け根を強く摘んで、両目の瞼をグリっと捲った。

「うっ」

「ちょっと痛かったかしら」

 女医さんはそう言いながら、痛がっている間も与えずに、青年の両手を取った。同時に、青年の耳が赤くなった。

「爪も健康そのものね」

 女医さんは、青年の赤く染まった耳には全く無関心で片手を離すと、残った手首に三本指を添えて、壁の時計を見つめながら、脈拍数を計り始めた。

「ちょっと速いかな」

 独り言のようにそう言って、白衣のポケットからペンライトを出した。

「口の中を見せてもらうわね。はい、大きく開けてえ」

 青年は、言われた通りに大きく口を開けた。

「じゃあ、あーって言いながら、舌を出してくれる」

 片手に持ったペンライトを点つけると、口の中を観察しながら、もう片方の手で平たい金属のヘラを取り、それを青年の舌に押し付けた。

「あ”ー、あ”、あ”、あ”」

 青年は声を出しながら、オエっとなるのを我慢した。

「完璧な色してるわ」

 金属のヘラを洗浄バットに放り投げ、ペンライトをポケットに戻し、胸のポケットから黒い万年筆を抜き取って、キャップを外して万年筆のお尻にさした。

 そして、机の上のカルテに、スラスラと横文字で外国語を書き込んだ。

 カチッと音立てキャップを閉めた万年筆をカルテの上にパタンと置いて、代わりに聴診器を手に取って言った。

「じゃあちょっと、着物脱いでくれる」

「え?」

「心臓と肺の音を聞かせてもらうから、上半身だけでいいわよ」

 

 青年は、着物の合わせを大きく開いて、天井を見上げた。

「はあい、大きく息吸ってえ」

 聴診器を当てられた瞬間のヒヤリとした感触に、肩がビクリと窄まって、そのままの姿勢で固まった。

「そんなに力入れたら、正確な診断ができないわ。まずは大きく息を吐いてえ……ゆっくり吸ってえ、止めてえ。もう一度吐いえ……」

 女医さんに誘導されるまま呼吸をすると、自然と力が抜けていった。


「はい、いいわ。背中の方から診るから、着物と肌襦袢を下ろしてくれる」

 青年は両腕を袖から抜いて、上半身裸になった。

 女医さんは、キャスター付きの椅子を滑らせて、青年の背後に回った。

「じゃあ今度はできるだけ静かに呼吸してみて」

 聴診器の先端についた丸い金属板が、背後から心臓の上に当てられた。

 

 ……クン、ドッ、クン、ドッ、クン、ドッ……、

 

 女医さんが聞いているはずの心音が、背中を通して青年にも聞こえてきた。

 その音は、耳を通して聞こえてくるのとは違い、内側から身体へと接伝わってくるよな、ピッタリと誰かに背中をくっ付けて、その誰かの鼓動を聞いているような感じがした。

 

 ……ントント、ントント、ントント……

 

 背中に当てた掌を、少しづつ動かしながら、慣れた手付きの打診が続く。

 幼い頃寝付けなかった夜に、眠りに落ちるまで背中を叩いてくれた、乳母のことを思い出す。


 ……ントント、ントント、ントント……

 

 指先を使って手の甲を軽く叩いているだけなのに、背中から伝わる規則正しい振動が、体の芯まで届いてくる。

 

(……誰かが僕の背中を叩いている……)


「はい、いいわよ。肺も心臓も問題なしね」

 青年は両腕を袖の中に戻して、着物の合わせを整えた。 

 女医さんは、聴診器を机において、カルテに文字を書き込みながら、首だけ青年に向けて言った。

「じゅあ、診察台の上に仰向けに寝てくれる。着物は羽織ったままでいいけど、帯と襦袢の紐は取ってね」

「え?……あの、その前に、僕の話を聞いてもらっていいでしょうか?」

「もちろんよ。だけど、坊やの話は診察が終わった後で、ゆっくり聞かせてもらうわ」

 女医さんは、カッチっと万年筆の蓋を閉じると、クルッと椅子を回して青年に向き直った。

「体調が悪い話をする事で、その通りに体が反応する事って、本当にあるのよ。そうなってからだと、それが精神的なものなのかどうか、専門医でも身体的な診察しただけでは判断するのが難しくなるの。患者さんの話を聞く前に、医師が身体の音を聴いて、触って、患者の体と直接向き合って診察をすることは、とても大切な事なのよ。わかってもらえるかしら」

「はい。なんとなく……」

 女医さんは、優しい笑顔で、どうぞと診察台に片手を差し向けた。

 

 青年は立ち上がって帯と紐を解いてそれを椅子の上に置いた。

 着物がはだけないように合わせを押さえながら、スリッパを揃えて脱いで、診察台に上がった。


「最初に胃と腸を触診してから、坊やが心配しているところもちゃんと診てあげるから、両手は寝台の上で休ませておいてね」

 青年は、お腹の上で組んでいた両手を両脇に置いた。

 着物の合わせの間から、女医さんの手が侵入してきた。拍子に青年の股間が熱くなり、思わず両手でその前を押さた。

「あら、恥ずかしがる必要ないわ。健康な証拠よ」

 女医さんは青年の両手取って、その手を青年の両脇に置いた。

 まるで子供を宥めるように、ポンポンと優しくお腹を叩いて、着物の合わせを左右に開いた。ペッタンコの白いお腹が露わになった。

 青年の全身は、まるで金縛りに掛かったように硬直した。喉仏が勝手に動いて、ゴックンと大きな音を立てた。


「怖がらなくても大丈夫よ。痛いことは何もしないから」

 女医さんは、内臓の形を一つ一つ確かめるように、指と掌を使って触診しながら、その手を胃袋から下腹部に向かって、ゆっくりと移動させていった。




     【僕がこの病院を訪ねてまいりましたのは】

 

 

 青年は着物を着ると、カルテを仕上げている女医さんの横に真顔で立った。

「あの、実は、僕が今日訪ねてまいりましたのは、この病院で、どうしてもお尋ねしたいことがありまして……」

「あらでも、私の方からあなたに告げる事は何もないわ。どこに出しても問題なしの、完璧な診断証出してあげるわ」

「ありがとうございます。だけど、僕がお尋ねしたいのは、僕の健康状態ではなくて、僕の出生に関する事なのです」と、病院を訪ねてきた理由を説明した。


「そうだったの。それは、こんなに遠くまで、お母さんを捜してねえ……」

 

 青年は、袂に入れて持ってきた木箱を出して、女医さんに手渡した。

「これは、確かにあなたがこの病院で生まれた証拠ね。生年月日と母親の名前があるから、当時のカルテが見つかるはずよ。今調べてあげるから、ちょっとここで待っていてね」

 

 磨りガラスの少し開いた窓から、木が生い茂る中庭が見えた。芽吹き始めた木の枝が西陽を反射して、小さな炎を発火しているみたいに光っている。


 窓から診察室に吹き込んできた風と一緒に、大型船の長く尾を引く汽笛が聞こえた。青年は目を閉じて、汽笛の音に耳を澄ました。

 

 夢で彷徨っていた見知らぬ街の風景が、汽笛の音と共に蘇ってきた。

 長い間見ていなかった夢なのに、ありありとその風景が思い出された。

 

 曇りの日の夕暮時れのような、夜明け前のような薄暗い街の中に、

 探し人には出会えないまま、青年はたった一人で立っていた。

 



     【それじゃあその子はいったい何処へ?】


「お待たせして、ごめんなさいね」 

 女医さんの声に、青年はハッとして振り返った。

「捜している人は、確かにここで、あなたと思える男の子を出産していたわ」

 カルテを手にした女医さんは、抑揚のない声で言った。

「それで、僕のお母さんの事は、何かわかりましたか?」

「その、坊やを産んだお母さんは、十八年前に帝王切開で出産したその時に、亡くなっていたわ」

「なくなっていたって、僕を産んだ時に死んでしまったという事ですか?」

「気の毒だけど、そう言うことになるわね」

「そんなはずは、ありません……」

「そう思いたい気持ちはわかるけど、大変な手術だったのよ。子供の命が助かったでけでも奇跡だったと思うわ。何しろ、背中合わせいくっ付いていたから」

「僕の背中は、お母さんとくっ付いていたのですか?」

「え? くっ付いていたのは赤ちゃんだけよ。あなたと双子で生まれてきた」

「え? 僕は双子だったのですか?」

「え? 知らなかったの?」

「ええ、今知りました……」

 青年は焦点の定まらない目で、女医さんを見つめた。

「もしかして、坊やが双子だったって言うことは、知らせない方が良かったのかしら?」

 女医さんは、すまなそうに青年の顔を覗き込んだ。

「そんな事はありません。背中の傷がどうしてできたのかその本当の理由を、僕はずっと知りたかったのです」

 青年は、断言するようにキッパリと答えた。

「それなら、傷痕ができた理由が今分かって、それはそれで良かったという事かしらね」

「はい。夢の中で、誰とも分からずに探していたのは、お母さんじゃなくて、双子の兄弟の事だったのだと思います。僕の双子の兄弟の背中にも、やはり僕と同じように、桃の形をした傷痕があるのでしょうか」

「そうね、その傷痕は、二人を切り離した手術の時のものに違いないから、生きていれば、あなたと同じような痕があるでしょうね」

「生きていればって、その子もやはりお母さんと一緒に!」

「お母さんの事は本当に残念だったけど、双子の切断手術は成功しているわ。カルテを見る限りでは、手術後の経過も順調よ」

「それじゃあその子はいったい何処へ、僕の双子の片割れは?」

「そこまでは、ここには書かれていないから……」

 女医さん、手にしたカルテをもう一度捲って目を通した後で机に置いた。

「そんなあ……」

 青年は、すがるように女医さんを見つめた。

 女医さんは、白衣のポケットから木箱を出して、青年の片手を取った。

「ごめんなさいね」と、青年の掌に木箱を乗せて、そっと包み込んでから、その手を離した。

 男はうなだれて、木箱を持つ手をじっと見つめた。

 「そうだ、それとこれ」

 女医さんは、反対のポケットから折り畳まれた半紙を出した。


「それは?」


 青年は、木箱を着物の袂に入れて、四つ折りの半紙を受け取り広げてみた。

 半紙には、大きく男の子と女の子の名前が書かれてあった。


「カルテの間に挟んであったの。カルテの名前と一緒だから、亡くなったお母さんが出産前に命名して持っていたのかもしれないわね」

「では、黒く塗りつぶされている僕の名前が……」

「たぶん」

「もう一人の名前は?」

「もう一人は、名前も性別も書かれていないの。

きっとお母さんは双子だって知らずに亡くなられて、カルテに同じ名前を書くわけにはいかなかったのかもしれないわね」

「そのカルテ、見せてもらってもいいですか?」

「あなたのカルテだし、それは構わないけど、ドイツ語読める?」 

「ドイツ語?」

 女医さんがカルテに手を伸ばそうとした時に、窓から風が吹き込んで、机の上のカルテが捲れ上がった。バンと威勢のいい音を立て、カルテが宙に舞うのを片手で抑えると、「そうよ!」と、反対の手で軽快に指を鳴らした。

「手術したのは院長だから、院長に聞けばきっと何か分かるはずよ」

「本当ですか! その院長先生は今何処に?」

 青年は半紙を握りしめてた。

「慌てなくても今頃は、向こうの離れの縁側で、ゆっくりくつろいでいる頃よ」

 


 縁側に座ってお茶を飲み、西陽を受けながら二人は話す。


「いやはやまったくあん時の、あんたが双子の片割れかい」

「はい先生。それで、双子のもう一人は、一体どなたが引き取って?」

「いやはやまったく二人とも、背中合わせにくっ付いて」

「それで先生、双子の手術のその後で、もう一人はいったい何処へ?」

「いやはやまったく二人とも、うんともすんとも動かない」


 沈む夕陽を浴びながら、二人の会話がループする。


「ですから、僕の片割れは、いったい何処にいるのでしょう?」

「いやはやまったく二人とも、同時にオギャーと泣き出した」

「いやはやまったく二人とも、オギャーと泣いたその後で、もう一人の僕の片割れは、何処の、どなたが、引き取って?」

「いやはやまったくもう一人は、呉服屋の夫婦が連れてった」

 

  旅の疲れを充分癒し、男は病院を後にした。

  手を振る女に見送られ、男は一人電車に乗る

   



     【街道沿いの呉服屋へ】

 

 

 電車に一本揺られただけで、難なく目的の駅に立つ。

 駅前から細い路地を抜け、中山道に突き当たる。

 宿場町の面影残す街道を、番地を確かめながら歩いていく。


   『呉服太物商』

 

 入り口横に掛けられた、分厚い板の看板に目が止まる。

 店の番地はあっているのに、入り口に掛かる暖簾の屋号が違っていた。


(住所はこの呉服屋のはずなのに……)

 

 格子戸に嵌められた波ガラスから、中の様子を伺った。

 波ガラスの向こうの店内は、水槽の中を覗き込むように、歪んでぼやけてはっきり見えない。奥の座敷に誰か座っているようだが、動く気配はまるでない。

 男は取っ手に手を掛けた。ソロリと引き戸を動かしたはずが、ガラリと大きな音がして、ミュアーと足元で白猫が鳴き、「いらっしゃいませえ」と、店の奥から甲高い声が響いた。


「ごめんください」

 男は、暖簾の下から店内に向かって会釈した。

「まあ、お若いお兄さん、どうぞ中にお入りください」

 座敷の上の帳場机の向こうから、女将が手招きして言った。

「あの、実は、こちらでお尋ねしたいことがありまして」

「まあなんでしょう。なんでも聞いてくださいな。そんなところに立っていないで、どうぞこちらにお掛けくださいな」

 女将は帳面を閉じると、板張りの上がり框に座布団を用意した。

 ガラガラと扉を閉めて、男は店先の土間に立った。

 女将は板張りの上に正座して、さあさどうぞと座布団を勧めた。

「お邪魔します。実は……」

 男が座敷に近づくと、「まあ!」と、女将がいきなり声を上げた。

「いったい何処のどなた様でいらっしゃいますか。まさかとは思いきや、そのまさかの本場本物の泥染に献上柄の帯。お国もそちらの方とお見受けしますが」

「え? どうして、私の出身地がわかるのですか?」

「方言こそ使ってなくても、話し方の抑揚で、そのなんとなく」

「そうなのですね。標準語を話すのは難しですね。おっしゃる通り、私は数日前に、故郷の家を出て来たばかりなのです」

「それはそれは、お坊ちゃま、いえ若旦那とお呼びするべきでしたね。せっかくご来店いただいても、うちみたいな太物中心の大衆店じゃ、とてもですが若旦那のお目当ての品は見つかりませんよ」

「いえ私はもう、お坊っちゃまでも若旦那でもありません。確かに育った家ではそのような呼ばれ方もされていましたが、色々とあって、家を出て一人で上京して来たのです」

「一人で? それで、東京の大学にでも行かれるのですか?」

「いえ、何処かで仕事を探すつもりでいます」

「何処かでって、何処かお仕事の当てでもおありになるのですか?」

「いえ、これと言った当てもないし、知り合いもいませんが、書き物と計算は得意な方なので、私にもできる仕事が見つかればと思っています」

「そうでしたかあ。それなら心配なさらなくても、読み書き算盤ができるなら、この街道沿いの商家でも仕事はすぐに見つかりますよ」

「本当ですか? 推薦状は持っていませんが、お医者さんが出してくれた完璧な健康診断証なら持ってます」

「それは素晴らしい。体は資本ですからね。だけど、いくら健康でも、そんな高価なお着物めされていたら、何処のお店でも雇いかねますよ」

「そうなんですか? 知りませんでした。長旅は初めてのことだったので、あえて外出着ではなく、一番体に馴染んだ着物を選んだのですが」

「つまりそれは、いつもの普段着?」

「はい。着物はこれと、揃いの羽織以外は持って出てきませんでした」

「そう言うことでしたら、私にお任せください。お仕事探すにも、仕事着にも打ってつけな太物だったら、よりどりみどり揃えてありますよ。お代の事は心配しなくても、お勤め先が決まってからでも大丈夫ですから」

「ありがとうございます。十三歳の時からお小遣いを貯め続けていたので、多少のお金なら持っていますが、足りない時はよろしくお願いします」

「まあ、そんなに若い時から家を出る決心をされていたのですねえ。そうと決まったら、そのまま座敷の方にお上がりください。若旦那に、ではなく、今のお兄さんに必要なお着物を、私が見立てて差し上げますよ」

「よろしくお願いします」

 男は、上り框のに荷物を置いて雪駄を脱いだ。

 板敷から奥の座敷に入ると、床の間に飾られた百合のむせるような香りと、ツン鼻をつく樟脳の匂い、それに加えて、部屋の隅で焚かれている香の煙が混ざり合った、なんとも独特な強い香りが立ち込めていた。




     【話をするのは寸法を取った後で】

 

 女将は、棚からテキパキと反物を抜き取って、一反づつ説明を加えては、畳の上に布を転がして広げていった。


「安くて丈夫なのはなんと言っても木綿になるね。

 仕事探しには、紺の無地を勧めるけど、この唐桟なら問題ないよ。

 木綿よりは多少値段が張るけれど、今時の若人にはセルが人気だよ。

 銘仙ならクズ繭から作った糸だから紬よりずっと安価だけど、生憎と無地の銘仙は扱ってないんだよ。ああでもこの細かい縞なら、色も渋いし大丈夫かな」

 

 男は、畳に両手を付き、正座した腰を少し浮かせ、身を乗り出して、目の前に広げられていく布を見つめた。

 

 畳の上に布が敷き詰められると、女将は棚から反物を出す手を止めた。


「値段も手頃だし丈夫で手入れも楽な、この紺色のセルをあたしは勧めるけどね。どれか気に入ったはあったかい?」

「触ってみてもいいでしょうか?」

「もちろんだよ」

 

 男は、幾つかの布に触ってみた。

 触りながら、戸惑うように首を傾ける男の様子を見て、女将はすっと立ち上がり、棚からもう一反抜き取った。


「セルと比べたら値段は張るし実用性にも劣るけどね。この御召なら、そこまで上等な品じゃないから、これで面接に行っても、煙たがられたりはしないよ。

 これくらいの品の方が、お兄さんには自然と馴染んで、かえって誠実に見えるのかもしれないねえ」

 

 女将は手にした反物を、他の布の上に転がし広げた。

 

 紺碧の海に墨を流したように、サーッと一本の線が描かれた。

 

 黒とも青とも呼べない色のその布は、障子から刺す光を受けて、鈍く深い光沢を、静かに放っていた。

 

 男は殆ど声にならない感嘆の声を漏らして、手を伸ばした。

 小さく頷きながら、愛しい猫を撫でるように、布に置いた手を動かした。


「気に入ったみたいだね」

「はい」

「そこの鏡に当ててみるかい。少し地味だけど、似合うと思うよ」

 座敷の隅に置いてある姿見を指して女将が言った。

「大丈夫です。この布でお願いします」

「さすがだねえ。この反物で仕立てたら、若くたって、できる男にしか見えないよ。早速寸法取ってあげるから、真っ直ぐと立ってくださいな」

 女将は広がった布を寄せて、二人が立てる程の場所を作った。

「あの、その前に、お尋ねしたい事があるのですが」

「そうだったね。なんだか興奮しちゃって、大切な事言うの忘れちゃったよ」

 女将は台帳を開いて代金を告げた。

「あの、私は」

「言っただろ、足りない分は仕事が決まってからで大丈夫だって」と、女将は話を遮って、男の膝をポンと叩いた。

「ありがとうございます。その金額なら、持ち合わせでお支払いできます。だけど、お尋ねしたい事は他にもあるのです」

「他に? あんた、悪い事は言わないよ。幾ら持ってるのか知らないけど、独立して一人で暮らすって言うのは、そう簡単な事じゃないんだよ。もう一着仕立てるのは、仕事が決まってからにしといた方がいいよ」

「はい。ご忠告ありがとうございます。だけど、私がお尋ねしたいのは、着物の事ではなくて、双子の兄弟の事なのです」

「は? 双子の兄弟?」

「実は私は、生まれてすぐに生き別れになった、血と背中を分けた双子の兄弟がおりまして、その兄弟を探して、このお店を訪ねて来たのです。

 私の双子の兄弟を、ご存知ないですか?」

「さてそれは……ご存知ないねえ」

「そうですか、私の兄弟が引き取られた呉服屋さんの住所はここに間違いないのですが、暖簾の屋号が違うので、変だなあとは思ったのです」

「ああ、そう言うことならこの店はね、十年程前にあたしの父親が、前の主人の親戚から、建物ごと店を買い取ったんだよ」

「本当ですか! それでは、その前のご主人は今何処に?」

「さあねえ……」

「ご存知ないのですか?」

「まあ、全く知らないって言うわけでもないんだけどね」

「どんなことでもいいです。何か前のご主人の御家族の事で知っている事があったら教えてください。お願いします」

「なんだか複雑そうだねえ。お兄さん若いのに、色々と苦労があったんだろうねえ。まあ十年も経ってる事だし、あたしが知っている事でいいなら話してあげるよ。だけど、この部屋をこのままにはしておけないから、話をするのは、寸法を取った後で、ここを片付けてからでもいいかい?」

「はい。もちろんです」

 男は、反物の海の中に迫り出した埠頭のような、畳の上に立ち上がった。

 つもりが、くらっと立ちくらみ、片手をついて姿勢を直した。


「あら、足が痺れちゃったのかい?」

「いえ、大丈夫です」

 大きく息を吐いて、もう一度ゆっくりと立ち上がった。

 

 女将は細長い物差しを手に、手際よく寸法を取り始めた。


「はい、背筋を伸ばして真っ直ぐ立って。

 二十歳過ぎても背が伸びる人はいるから、一寸ばかり揚げは深くしとくね。

 袖丈取るから、手を少し横に上げて。

 前幅と襟の感じ見るから、今度は前から失礼するよ」と、女将が男の背後から斜め前に回ったその時、男の身体が女将に向かって崩れかかった。


「お兄さんちょっと、大丈夫かい!?」

 

 女将は咄嗟に物差しを放り投げ、倒れそうになった男の身体を支えた。

 力及ばず、二人の体が畳の上で重なった。

 



     【その子が何処にいるかは分からない】

 


 明るい日差しが部屋に差し込み、開いた障子から、こじんまりと整えられた中庭が見える。

 

 女が表廊下に座って、庭を眺めながらキセルを吹かしていた。

 その横で、白猫が丸くなって眠っている。

 部屋の反対側の、土間へと続く障子が、ピタリと閉められていた。

 障子の前の帳場代の横に、男の黒い鞄が置かれてあった。

 

(そうだ、僕は呉服屋さんを訪ねてきて、それで……)

 

 白猫が大きく伸びをして、ミャアと短く鳴いて中庭に飛び降りた。

 コンッと小気味良い音を立て、女がキセルの雁首で煙草盆を打った。


「やっと目を覚ましたようだね」と、男の方に振り返った。

 

 男は、畳から半分身体を起こした。


「僕は、いえ私は、寸法を取っていただいている途中で……」

「そうだよ、寸法どりしてる最中に倒れちゃったんだよ。完璧な健康診断書の持ち主が、急にどうしちまったんだい?」

「こんなことは初めてですが、私は強い花の香りやお香の煙を嗅ぐと、頭がぼんやりしたり、くらっとする事があるのです。多分、百合とお香の香りを同時に嗅いで、それで……」

「そりゃ気がつかなくて悪かったねえ。商売がら樟脳の匂いがきついだろ。それで香を炊くんだよ。色んな匂いが重なって、いい具合に飛んじゃったのかねえ。大丈夫かい?」

「はい、もう大丈夫です」

 

 男は、はだけていた着物の前を慌てて直し、上掛けを軽く畳んで横に置き、その場にきちんと座り直して、丁寧に頭を下げた。


「ご迷惑おかけして、すみませんでした」

「そんなにかしこまらなくても、迷惑なんて掛かってないよ。必要な寸法は取れてるから、急ぎに回して、着物は三日で仕立ててあげるよ」

「ありがとうございます。あの、それで」

「お腹空いたでしょう? じきにお昼だから、鰻重の出前頼んどいたよ。それ食べてゆっくり休んで体力回復したらいいよ」

「ありがとうございます。ここの呉服屋さんを教えてくれた病院の院長先生に、この辺は鰻が美味しいから是非食べていきなさいと勧められました」

 

 男は枕がわりに置かれていた座布団を女に勧めて言った。

「でもその前に、私の双子の兄弟の事について知っている事を話してください」

「双子の兄弟?」と、女は座布団を横によけて、男の前に座りよった。

「はい。ここの前のお店の御主人の親戚から、お父様がこのお店を買い取る前に、ここに住んでいた御主人の養子となった、私の双子の兄弟の事です」

「ああ、そんな話しをしたよね。あんた人がサラッと言ったことを、随分と細かく覚えてるんだね」

「私にとっては、大切な話なので」

「そう言えば、生きていれば、丁度あんたと同い年くらいじゃないかい」

「はい、私とは双子なので……え? 生きていればって」

「それが、言いにくいんだけどね、実は死んじまったんだよ」

「しんじまったって、その子はもう、死んでしまったという事ですか?」

「違うよ。死んだのは母親だけだよ。子供の方は助かったって話だよ」

「助かった? つまり前のご主人の奥様と子供が一緒に事故か何かに遭われて、奥様が亡くなられて、助かった子供とご主人は一緒に、何処かに引越されたという事ですか?」

「いや、そういう話では、ないんだけどね」

「それでは、どういう話なのですか?」

「どう言う話って、私に聞かれてもねえ……」

「ご存知ないという事ですか?」

「全く知らないっていうわけでも、ないんだけどね」

「どんなことでも結構です。知っている事を話してくださいませんか?」

「そんなに言うなら、話してあげてもいいけど、だからって、あんたが捜しているその子が何処にいるかは分からないよ。それでもいいのかい」

 女はそう言いながら、煙草盆をそばに引き寄せた。

 指先を器用に使って、丸めた刻みタバコをキセルの火皿に詰めると、シュッと勢いよくマッチを擦った。

「はい、それでも何かの手掛かりになるかもしれません。お願いします」




      【それではその子はいったい何処に?】

 

 

 女将は、天井に向かってゆっくりと二回煙吐き出した。

 コンコンと、軽く乾いた音を立てて、灰吹に灰を落として話し始めた。


「あんたが捜している、この呉服屋の前の主人はね、三代目だったんだよ。

 

 あたしのおばあちゃんの幼馴染っていうか親友が、反物の行商人と一緒になってね、それで頑張ってここに店出したんだよ。

 

 宿場町の時代から続く老舗の呉服屋が沢山ある中で、新参者が店出して商いしていくのは、なかなか大変だったみたいだけどね、それでも二代目の頃には、時代の景気もあって結構繁盛していたみたいだよ。

  

 あたしの母親はね、末っ子のお嬢気質で、立派な店構えの高級店でちやほやされながら着物仕立てるのが好みだったから、あたしの記憶ではここで着物作る事はほとんどなかったけど、あたしは小さい頃からおばあちゃんに連れられて、よくこの店に来てたからね。一代目のじいちゃん、ばあちゃんも、二代目と三代目の家族の事も覚えてるよ。

  

 三代目はね、結構男前で、子供にも年寄りにも誰にでも優しいくて、奥さん静かな人だったけど料理が上手で、子供の目にも仲のいい夫婦に見えたよ。

 でも今思うと、二人揃って商売には向いていなかったのかもしれないね。

 

 忘れもしない、十三参りの晴着を作ってもらうんで、久しぶりにおばあちゃんとこの店に来た時の事だよ。

 

 夕飯ご馳走になったその帰り道、いくら夫婦仲が良くても、あの歳じゃもう子供は難しねえって。おばあちゃんが心配してそんな事言ってたのも覚えてるよ。

 

 それが驚いたことに、仕立て上がった着物を受け取りに行った時には、こんなにかわいい子を授かりましたって、奥さんが赤ん坊抱いてるじゃないか。

 十三の私だって、変だなとは思ったよ。

 だって、その十日前にこの部屋で寸法取ってもらった時には、奥さんのお腹はぺったんこだったし、夕飯ご馳走になった時だって、赤ん坊なんて何処にもいなかったんだから。でも私は何も聞かなかったけどね……」


 女は、キセルを取って刻み煙草を火皿に詰めた。

 男が、煙草盆の上のマッチ箱に手を伸ばす。

 女は、半ば驚いた顔で男を見た。

 男が、腰を浮かしてマッチを擦ると、

 女は、キセルを咥えて男に雁首を差し向けた。

 男が、火皿の上に火を移し、

 女は、フーッと煙を吐いて、トンッ小気味良い音を立て灰を落とした。

 

「元々奥さんは、体が丈夫な方じゃなかったみたいだね。店には出ていたけど、四十も超えていたんじゃないか、赤ん坊の世話と両方は無理ってもんだよ。

 それで雇っていた乳母と旦那がねえ……まあ、二人でここから出て行っちゃったんだね。どうやらその乳母、身重だったらしいよ。

 残された奥さんは子供を道連れに、川に飛び込んじゃったってとか、足を滑らせて橋から落ちそうになった子供助けようとして一緒に落ちちゃったとか、世界中不景気真っ只中だったからねえ、商売柄大変だったんだろうって、両親が話してたど……」

 

 音もなく座敷に入ってきた白猫が、女の膝に頭を擦り付けてから丸くなった。

 

 「できちゃったもんはしょうがないにせよ。

 乳兄弟って言葉もあるじゃないか。

 一緒に仲良く暮らすって事はできなかったのかねえ。

 みんなで力を合わせれば、不景気だって乗り越えられただろうに……」 

 

  女は猫を撫でながら、猫に話しかけるように言った。

  男は女を見つめて、黙って話お聞いていた。

  猫がミュアーと大きな伸びをして、表廊下に移動した。


「それでその、助かった子供は、その後どうなったのですか?」

「どうなったって、そんな事聞かれてもねえ」

「ご存知ないということですか?」

「全く知らないっていうわけでも、ないけどね」

「では何か、ご存知なのですね?」

「十年前にはもうおばあちゃんもいなかったし、詳しいことはわからないけど、身内らしき人が来て、葬式は挙げたらしいよ。でも、子供の面倒を見てくれる人は、いなかったんだねえ」

「それではその子は、いったい何処に?」

「残された子は、通りすがりの女衒に手を引かれて行っちゃったっていう、そういう話だよ」

「ぜげんさん? その方のお住まいを、どなたかご存知ないでしょうか?」

「ご存知もご存知じゃないも、ぜげんさんじゃなくて、女衒だよ。年端もいかない子供でも容赦なく遊郭に売り飛ばす、人買いの事だよ」

「遊郭? その子というのは、まさか女の子だったのですか?」

「そうだよ。知らなかったのかい?」

「そ、そんなはずはありません!」

「ごめんよ。どう言う事情か知らないけど、あんたとは血を分けた双子の姉妹の事だものね。その気持ちはわかるよ。でもこれが、私の知ってる話なんだよ」

「でもそれは、きっと何かの間違いです。僕と一緒に生まれてきた背中合わせの双子の一人が、女の子のわけはありません」

 男は困惑しながらも、キッパリとそう言った。

「でもあんた、その子があんたと同じような、男の子だったとも限らないんじゃないかい?」



     【是非ともあの人をお願いします】

 

 これでいったい幾つ目の花街巡ってきたのやら。

 着物も体もよれよれで、それでもその子を捜している。

 背中に同じ傷を持つ、僕に似た子は何処にいる。


「そこのお兄さん、いい娘が揃っているよ。

 寄って行っておくんなさい」

 

 客引きが男の袖を引く。

 

 きらびやかな着物を纏った女が、格子の中に並んでいる。

 男は一人ずつその顔を、丁寧に眺めていく。

 遊女達は声を出さずに手招きして、妖艶な眼差しを送り返す。

 

 赤い格子の奥のほう、女がポツリと座っている。

 うつむいたまま座っている。

 手招きしないで座っている。

 男はその子をじっと見る。

 暖簾をくぐって店に入る。


「いらっしゃあい。旦那、初めてのお客さんだね。

 さあさ、こっちでゆっくりしてくださいな。

 今宵旦那のお目に留まった幸せ者は、さあてどの娘だろうねえ」

 

 優しい声と笑顔とは裏腹に、鋭い視線を男に浴びせる。


「はい、あそこの部屋の片隅に座っている、あの娘さんをお願いします」

「座ってるあの娘って、あの娘の事かい?」

 

 やり手は娘を、指さして言った。


「はい」

「何もあれにしなくたって、今ならいい娘がよりどりみどりじゃないか」

「はい。ですからあの娘さんを、お願いします」

「さては旦那、あの噂を聞いて、肝試しにここに来たね」

「肝試し? いったいどんな噂でしょうか?」

「知らないのかい?」

「私は何も知りません」

「だったら先に言っとくよ。後で文句つけれても困るからね。

 実はあの娘の背中にはね、古い火傷のような傷痕があってね」

「それは、桃のような形をした傷痕ですか?」

「その通りだよ。やっぱり知っているじゃないか。とぼけちゃって、後で文句つけて揚げ代踏み倒すつもりだったんじゃないだろうね」

「決してそんなつもりはありません。泊まりのお代を、先にお払いします」

 

 男は料金を確かめて、告げられた全額をやり手に渡した。

 「足りない分があったら、後でお支払いします」

  やり手は満足げにお金を受け取って言った。

「いや別にあたしはね、旦那の事を疑ったわけじゃないんだよ。

 思う存分楽しんでいってもらいたいって、ただそれだけだよ」

「それで、その噂とは、どんな噂か教えていただけますか?」

「何、大した噂じゃないから、気にしないでおくれよ。

 いやね、その桃の形の傷痕が、ここぞって言う時になると、人魂みたいにメラメラって赤く光り始めて、怖ろしくてそれどころじゃなくなるって、まあそんな事言う嫌味な客がいるっていう、そんな話だよ」

「傷痕が、赤く光るのですか?」

「特にあの娘は色白だからね。高揚したら傷痕に血が集まって、行灯の光に照らされて、そんな風に見えるだけだよ。それが怖いんなら、灯り消して、背中見なきゃそれですむって話じゃないか。

 やることやっといて、祟りだなんだって後から文句つけられたら、こっちだってたまったもんじゃないよ。うんともすんとも声出さない無愛想な上に、そんなんだから、一時は表に出さないでいたこともあったんだけどね。でも、商売何が幸いするかわかったもんじゃないねえ。その噂を確かめるために、あの娘を指名する旦那もいるんだよ」

「是非ともあの人を、お願いします」

「旦那も可愛い顔して、物好きだねえ」と、やり手は男の顔を覗き込むと、首を傾げて言った。

「もしかして旦那とは、前にどっかで会った事ないかい?」

「いいえ、初めてお会いします」

「だよねえ。じゃあまあ、今日の所は、初めての泊まりってことで、特別いい部屋に案内させるよ」

「ありがとうございます」


 店の若い衆が、男の鞄を抱えて、二階の部屋へと向かった。

 男は大きく深呼吸して、その後について階段を上り始めた。




     【向かい合った双子の二人】

 

 男は、朱塗りの座卓から、真っ白な陶磁器の盃を取った。

 娘は、銚子を持った手を、男の盃に傾けた。

 男は、一時盃を見つめ、何も言わずに一礼した。

 唇を盃の縁に付け、飲む真似だけして、座卓に返した。


 男は、銚子を手に取って、震える手で、娘の盃に酒を注いだ。

 

 娘は男の酌を受け、盃の中を見て微かに笑った。

 男の真似をして一礼し、酒は飲まずに盃を置いた。

 

 男は立ち上がって、窓際に立った。

 張り出した窓の高欄に手を置いて、

 身を乗り出して、空を見上げた。


「ずいぶん大きな月ですね」


 ポッカリ浮かんだ丸い月。

 妙に赤みを帯びている。


「背中を見せてもらえませんか?」

 男は月に向かって、独り言のようにそう言った。

 

「失礼します」と、中居が部屋に入ってきた。

 男は中居に促されるままに、着物を脱いだ。

 

 中居は、着物を手際よく畳み、隅に置かれた衣桁に掛けた。

 

 衣桁の前に布団を敷くと、枕元の行灯にマッチを擦って火を点けた。

 

 中居が立ち上がって、天井の真ん中に吊るされた、電灯の紐が引くと、

 電気が消えた座敷の中が、行灯の炎に照らし出された。


「どうぞごゆっくり」と、三つ指をついて、中居は座敷から去っていった。

 

 

 男は、行灯の揺れる灯の前に立った。


「私の背中を、見てもらえませんか?」


 娘は不思議そうに小首を傾げた。


 男は娘に背中を向けて、腰紐を解いて長襦袢を腰まで下ろした。

 丁度腰紐を回す辺りに、大きさ、形、色共に、桃のような傷痕がある。

 

 背中を見上げる娘の顔が、鏡台の鏡に写って見える。

 行灯の揺れる灯りの中で、娘は、広い背中に刻まれたその傷跡を、

 月でも眺めるように見つめている。


 男は長襦袢を着付け直して、女の前に正座した。

「あなたの背中も、見せてもらえませんか?」

 

 娘は、こっくりとうなずくと、帯を解いて着物を脱いだ。

 長方形に畳んだ着物を、男の着物の上に重ねて掛けた。

 

 男に背中を向けて、赤い襦袢の腰紐を解いた。

 

 腰紐を回す下辺りに、火傷の痕のような、赤い傷痕があった。

 色も形も男と同じその傷痕は、桃のようには見えなかった。


 肌の色すら感じさせない、白い小さな背中の中で、

 行灯の明かりに照らし出されたその傷は、

 色濃く、艶かしく、痛々しく、まるで人魂のようだった。

 

 男の目から、涙が流れた。両手を膝に強く押し付けた。

 

「どうもありがとう。もう十分です。着物を着てください」


 娘は振り返り、不思議そうに男を見下ろした。


 「僕と貴方は、背中を分かち合って生まれてきた双子です」

 

 娘は、パッと目を見開いて、鏡に自分の顔を写して見た。

 男の顔をまんじりと覗き込むと、怪訝そうにうなずいた。


「僕は今晩泊まります」


 男は先に床に入ると、真っ直ぐ天井を見て、目を瞑った。

 娘は行灯の火を、吹き消した。

 

 娘は、床に入って男の身体に身を寄せた。

 すると男が、娘に背を向け寝返って、すぐに寝息を立て始めた。

 

 男の背中を撫でてみた。うんともすんとも動かない。

 娘も男に背中を向けた。触れた背中が暖かい。

 

 部屋が一瞬照らされて、遠くで雷の音がした。

 

 黒い雲が月を隠し、部屋の中が真っ暗になった。

 

 ポツン、ポツンと落ち始めた雨粒が、

 瓦を連打し始めた。

 

 ザンザン、ザンザン、

 雨はたちまち激しくなった。

 

 暗闇がピカっと照らし出され、近くで雷が轟いた。

 女が体を寝返って、男の背中に抱きついた。

 

「助けて……」

 震える声を絞り出す。


 男も体を寝返って、娘の肩を抱き寄せた。

 

 耳をつんざく落雷に、周りの部屋から悲鳴があがる。

 

 悲鳴も、足跡もかき消すほどに、 

 雨は激しく降り続く。

 

 男は、両腕に、力を込めた。

 娘も、必死に、しがみつく。

 

 向かい合った双子の二人、

 くっ付くほどに抱き合った。

 

 ゴロゴロガッシャーンと雷が、二人の間に落下した。


 丸焦げになった双子の二人、うんともすんとも動かない。






 



 



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