その27 一人になる選択
夜の闇に紛れて神の前で誓い、命を繋いでから季節が一つ過ぎた。灰色の空から白い雪が舞い落ちる光景を見上げるアイデクセの背を、背後から近寄ったレイトールの拳が叩く。
「いったいどうした」
「なにがだ?」
「日に日に落ち込んでいるだろう?」
舞い散る雪の中で物思いに耽る姿が寒々しい。何があったと心配そうに問うレイトールに、アイデクセは戸惑いながらも口を開いた。
「ユアが……彼女を叱らないでやって欲しい」
「だから何だ、ユアが何かやらかしたようには見えないが」
レイトールが記憶を失って以来、アイデクセはユアに関しては何か吹っ切れたように堂々と接するようになっていたというのに。今は名実ともに正式な妻として生活しているのに何を悩んでいるのか。
レイトールにはユアが叱られるようなことをしているとは思えない。案じていたアイデクセの嫉妬がもたらす惨事も、実害がなければ不安がないと分かっているので今のところは大丈夫だ。しかもユアから率先して男に寄って行くようなことにならないのは確実である。
それなら何を叱るのか。グラハムの所を辞めて新しい働き口を探している風にも見えない。
「薬を飲んでいるんだ」
「どこか悪いのか?」
思わぬ言葉にレイトールは、自分は相談されていないと不安になり詰め寄ると、そうじゃないがとアイデクセが首を振った。
「では何だ?」
はっきりしないアイデクセの様子にレイトールは声を低くした。
さっさと言えと、命令を孕んだ声は王子として生まれた特徴だが、ユアに関しての事柄を自分だけが知らないという苛立ちも含んでいる。
アイデクセは再度ユアを叱るなと念押しして、しぶしぶと言った感じで先を続けた。
「避妊薬だ」
「なんだと?」
レイトールの碧眼は見開かれ、アイデクセの黄緑色の眼球に囲まれた黒い瞳孔が悲しそうに地面に落ちた。
レイトールの「事実か?」との問いに、アイデクセはゆっくりとだが深く頷く。
「種族が違う、ユアが俺の子を宿す可能性などないだろう。だが確実ではないからな。ユアは俺のような姿をした子が生まれるのを恐れているんだ」
アイデクセが異質な匂いを感じたのは、結婚後暫く時をおいた後に三人で初夜を迎えた翌朝からだ。
それから交わりを持った翌朝に必ず感じるようになった匂いが何なのかを知るために、大きな黒い体をユアに悟られないよう気持ちだけ小さくしながら密かに調べ、何であるかを知って驚愕したのだ。
けれどすぐに納得して深い闇に沈んでいた。
結局一人で抱えきれずに話してしまったのは、避妊薬が体によい薬ではないと知ってユアの身を案じていたせいもある。
「ユアは腹からお前と同じものが生まれても愛すると思うが?」
レイトールは驚きながらも冷静に答えた。決してアイデクセのような姿をした子を厭う妻ではないと確信がある。
なのにアイデクセは絶対にそうだとレイトールの意見を否定し、悲しそうに体を震わせ鱗を縮めた。アイデクセから鱗の軋む音が鳴る。
「一生のことだぞ。我が子のことだ」
「だが……いや、そうだな」
特殊な姿をしているとしても、ユアがアイデクセの子を生みたくないと思うような女でないことをレイトールは確信している。
絶対にないと言いかけたが、ふとある事に思い至ったレイトールは腕を組んで白い息を吐いた。
「避妊薬が事実なら子を持ちたくないというのがユアの考えだろう。だがお前に似た子を生みたくないと思ってのことじゃない。ユアが恐れているのは我が子がどのような姿で生まれてくるかではない。恐らく子供よりも、私とお前を優先しての結果だろうな」
「俺とお前を?」
訝し気に眉間に鱗を寄せたアイデクセに、今度はレイトールが深くゆっくりと頷いた。
「私がこの口で言うのもなんだが、心の傷も深いのだろうな。今夜にでも話をしてみよう」
「待て。ユアが望むならこのまま――」
自分のせいだと思っているアイデクセはユアの望むままでいいと止めようとしたが、レイトールは首を振って否定した。
「そうはいくまい。どんな薬であろうと無害ではないのだからな」
子供が欲しくないのなら仕方ないが、レイトールはそうでないと確信している。
プリシラがアイデクセの尻尾で遊んでいると楽しそうに話して聞かせてくれたのは何時のことだったか。輝いていた瞳に陰りを宿したのを不自然に感じたが、そういうことかと思い至ったレイトールは胸を痛めた。
この日、後は寝るだけとなってレイトールはユアを引きとめた。アイデクセの様子がおかしいことにユアも気付いたので、そのことだろうかと腰を落ち着ける。
近頃は好物だった饅頭を目にしてもあまり嬉しくなさそうなのだ。味覚が変わったのかもしれないが、濃い色の野菜は相変わらず好物そうなのでよく分からない。
静かに言葉を待つユアに向かって、レイトールは単刀直入に自分の希望を口にした。
「お前に俺たちの子供を産んでもらいたい」
「それは……授かりものですから」
唐突な言葉に驚いたユアは息を詰めた。
だがすぐに何でもない風を装うも、誰の目にも挙動不審になったユアにアイデクセが悲しい表情を向ける。
「無理はするな、嫌ならもう抱かない」
「アイデクセさん?」
抱かなければ万一という危険も無くなり薬を飲む必要もない。テーブルの上に両腕をついて項垂れたアイデクセの様子にユアは慌てた。アイデクセは涙を流さない種族だが、俯いた姿は悲嘆に暮れ静かに涙を流しているように見えたのだ。
「だからもう避妊の為に薬なんか飲むな」
苦しそうにアイデクセが言葉を絞り出した。ユアはようやく事の重大さに思い至る。
鼻の利くアイデクセのことなので薬を飲んでいるのを悟られるのは覚悟していたが、その時は滋養の為と嘘をつくつもりだった。
まさか何の薬なのかまで言い当てられるとは露にも思わず、二人の様子に誤魔化せないと気付いたユアは、体の力を抜いて椅子に座り直す。
「違うんです、二人の子供が欲しくない訳じゃない。わたしは……子を持つことが怖いんです」
ユアが子を持つのを恐れ薬を飲んでいるのは事実だ。それも二人の夫に内証で。夫婦として話し合いもせず、勝手な判断で薬を飲んで誤魔化すつもりでいた。
そのせいでアイデクセは悲しみに暮れ苦しい思いをしてしまったと、ユアは自分の浅はかさに深く後悔する。
「アイデクセさん、ごめんなさい。本当にごめんなさい。この世界に無理矢理連れて来られて、辛い思いをしたアイデクセさんの為にも沢山の家族を作ってあげたい。わたしだって本当は二人の子を生みたいって気持ちはあります。でも……」
怖いのだと、俯いたユアは囁くように心の声を絞り出した。
下を向いてしまった二人にレイトールの碧い視線が静かに注がれる。それは決して咎める物ではなく、冷静で穏やかな眼差しだった。
「アイデクセ、ユアは子を残して死ぬことを恐れている。この世界では親を失う子供は少なくはない。ユア、お前は自分の子供に悲しい思いをさせたくないのだろう?」
誰か一人でも残ればまだいいが、レイトール達は三人で同じ時を生きる魔法をかけている。それを解かない限り、誰か一人に万一のことが起きれば、その時に子供がいたとしたらその子はたった一人で厳しい世界に残されるのだ。
ユアの生い立ちと、生まれる前に父親を亡くし、生まれて間もなく母親も亡くしてしまった幼いプリシラの存在が子を成すことを躊躇させたのだろう。違うかと問うレイトールに俯いたままのユアは静かに頷いた。
「わたしは自分が一人残されるのは嫌です、一人になるのが怖いの。だから命の繋がりを解くなんて勇気はありません。こんな状態で子供が生まれて三人一緒に死んでしまうようなことがあったら、残された子供はどうやって生きて行けばいいのでしょうか」
頼れる祖父はもういない。アイデクセは異界の存在で、レイトールの血縁である兄はこの国の王になる人だ。
一般人に交じりこんな所で生活していてもレイトールが王族であることに変わりなく、その血を引いた子がいったいどう扱われるのかなど平民であるユアには到底想像できなかった。
「正直言ってアイデクセさんやレイトール様の子供は欲しいです。だけど宿ってもいない子供の為に今を捨てる勇気が持てません」
「俺の血を引く子供が哀れだからというのではないのか。黒い鱗にまみれた異形を体から産み落とすのだぞ、恐ろしくないのか?」
そんなことは少しも恐ろしくないとユアが必死に首を振って否定すれば、アイデクセはようやく信じて安堵したのか縮んでしまっていた鱗をゆるめた。
「欲しくないわけではないの。鱗にまみれた子でも、真っ白な子でも授かるならとても嬉しいです。でも……二人と離れるのは嫌。置いて逝かれるのも嫌なんです。不安で考えても答えが出せないの。だから薬を。夫婦なのに相談もせず勝手に飲んでごめんなさい」
子供の問題は夫婦としてとても重要な問題なのに、ユア一人の決断で可能性を潰してしまった。薬を飲んでいなければもしかしたら既にどちらか一方の子を妊娠していたかもしれない。
特にアイデクセは種族の違いから子を望むのは無理だろうと思われているが、奇跡は何処で起きるか分からないのだ。
その可能性を失くしてしまう行動にユアは深く反省する。
アイデクセはユアを優先して求めないが、同じ鱗を持った子供が生まれたらさぞ喜ぶに違いないのだ。例えそうでなくてもユアから生まれた子供は自分の子供と認識してくれるはずなのである。
家族を欲しがっているのはアイデクセだけでなくユアとて同じなのに、子供を一人残してしまうあるかないかの可能性を恐れてアイデクセを不安にさせてしまった。
本当にごめんなさいと何度も謝罪するユアに、アイデクセは鋭く並んだ牙を覗かせる。
「俺の子を宿すのが嫌でないなら良かった。いや、良くはないな。薬を飲むのはやめてくれ」
害になるからと懇願され、不安なままではあるがユアは何とか頷いた。
避妊薬を飲んだ後は丸一日調子が悪いのは確かなので実害もある。飲み続けると子供ができにくくなると教えられていたので、子供を持つことを捨てきれていないのもあり納得するしかなかった。
プリシラと遊んでいる姿を見ると特にアイデクセには子を抱かせてやりたいとの気持ちにもなる。それでも親を亡くした経験のあるユアから不安は消えない。
「あの……子供を持つ勇気が持てるまで夜は、待ってもらえますか?」
「俺はお前を抱きしめて眠れればそれでいい」
何事もユアを優先にするアイデクセは即答だったがレイトールからの返事はなかった。レイトールは不満なのだと思ったユアは、背を丸めて「ごめんなさい」と謝罪する。
「ナハトさんに相談してみます」
「避妊に使う魔法はない、あるのは生殖機能をなくす魔法位だな。ナハトなら作れるかも知れんが、あいつの場合は副作用で何が出るか極めて不安だ」
命を繋げる魔法を開発した時には対象者と命を繋げてしまう弊害を出し、レイトールの命を救った時には記憶障害をもたらした。
その両方とも弊害を実用に変える能力はもっているが、何しろ最初は不安しかないのだ。既に確立されている魔法なら文句はないが、新たに開発された魔法を初出しで妻に使わせるのだけは許可できない。
記憶を失くした経験があるせいでレイトール自身が実験台になるのも嫌だった。
特に避妊の魔法は望まれる声が強いのに生命にかかわる問題のせいなのか、今まで幾度となく挑んだ魔法使いがことごとく失敗しているのだ。
「それにこの問題は避妊云々で解決するようなものではないだろう?」
避妊の前に子供を授かりたいのか授かりたくないのかだ。夫婦でもあるし愛する人と夜の生活を禁止されるのも辛いが、どうしてもなら仕方がないので受け入れる。
それでもいずれ子が欲しいという望みはレイトールにもあった。その為に自分ができることがなんであるかをレイトールは知っている。
「ユア、アイデクセ。私は命の繋がりを解く」
時間の流れが一瞬止まった。
珍しく瞬きをしたアイデクセがぐるりと首を回す。
「約束はどうする、反故にするのは許さないぞ」
地を這うような声色にユアは驚き二人を交互に見やった。
いつも穏やかなアイデクセがレイトールを責めるような口調で鋭く突き刺す。
約束とは何なのか。ユアと共に逝くと言ったことなのか、それとも夫婦の誓いか。
心変わりするのかと、手に入れたものが零れ落ちる不安にアイデクセの感情はどす黒い色を纏い、初めて経験するユアにとっては震えそうになるほどのピリピリした感覚だ。
比喩ではなく本当の意味で、アイデクセから発せられる気迫が空気を震わせていた。
「アイデクセ、ここはお前の生まれた世界ではない。状況が変わればやり方を変えなければならいこともあると知れ」
「変えるのと逃げるのは違うだろう!」
命の繋がりを解くとの言葉は、アイデクセにとって捨てられるも同然の言葉だった。
誰かに奪われるのとは異なりレイトール自身の意志を持って発せられた言葉に、絶対に手放さないという独占欲がアイデクセを支配する。
ユアを奪われた時に仕方なく繋がりを解いた時とは異なるのだ。今のアイデクセは一人残される不安などではなく、愛する者に去られる不安で怒りが全身を支配していた。
すぐ側でアイデクセの本気の怒りを見せられたユアは声も出せないというのに、直接怒りの感情を突きつけられているレイトールは平然としている。
「ならばアイデクセ、お前はユアが生んでくれた私達の子供を、たった一人この世界に残して逝けるのか。私は無理だ。ならば誰かが残らねばならない」
経験がなくともどのような人生を歩むかくらい想像は容易い。
レイトールの子である以上、無下には扱われないだろうが政治利用される危険もある。馬鹿な心無い輩に目を付けられ、もし万一にも王位を狙うような事態に巻き込まれれば命はないだろう。子供には保護する大人が必要だ。
アイデクセの血を引く子は更に危険が伴う。何しろたった一人だけの人知を超えた異能を引き継ぐのだ。王家の血どころの問題ではない。
「私とて一生とは言わない。子が成人し、一人になっても安心できると分かるまでだ。そうしたらまた二人と命を繋げる。人はそう簡単には死なないがお前のように強靭な訳でもない。それまでは私が一人抜け万一に備えよう。その代り私に何かあればアイデクセ、お前とユアの二人で子を守って欲しい」
頑丈なアイデクセを軸として繋がるわけにはいかない。そうなれば成長が止まり限りなく続く命を知られる危険があるからだ。
となればアイデクセはレイトールとユアのどちらかと命を繋げる必要があり、組み合わせるならユアとになるだろう。
レイトールは一人になっても利用できるものは多くあるが、ユアが一人になった場合はとても危険だ。何かしら理由をつけて子を奪われることになるかもしれない。
万一にもレイトールが命を落としてもアイデクセがいるならユアと子を守ることができる。アイデクセに不足している常識はユアが補ってくれるだろう。
「私が一人になろう。再び繋がれる未来を信じて」
レイトールが自分を選択するのは一つの償いでもあった。




