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その20 思い出せない苛立ち



 彼女への特別な感情なんて抱くはずがない。何故ならレイトールがウィスタリアの王子であるから。

 比較的自由を与えられていようと、王子として成すべきことへの自覚がある。だから貴族でもないただの娘に心を開くなんて……まして弱い素の部分を曝け出すなんてあるはずがないのだ。

 だがしかし、どんなにレイトールが否定しようとも、ユアと言う娘がレイトールにとって特別だった期間が存在するのは確かなようだ。


 何故ユアに関する感情だけがすっぽり抜けているのかは分からないが、ナハトに魔力が枯渇するまで魔法を使わせた結果かもそれない。

 過去にアイデクセの言葉を理解するための魔法を使ったときは、命がつながってしまう副反応が起きた。今回もレイトールの命を助けるための副反応だったのから仕方がないことだ。人の死は自然の摂理として当たり前のことだが、アイデクセを一人残して死んでしまうようなことになるのは避けたい。


 繋がりを解いている現在、アイデクセの寿命は人の命と比べると無限ともいえた。

 強靭な肉体を持つアイデクセがこの世界で果てしなく長い寿命を全うするとしたら、彼はいったいどれほどの孤独を味わうことになるのか。とても心配でならなかったが、再び命を繋げられるのかどうかはナハトの回復を待って試すしかなかった。


 同時にレイトールは命の約束について悩んでいた。

 アイデクセとレイトールの命が繋がっていた時に、レイトールは妻にしたユアに約束したらしいのだ。一人残して逝くことはしない、その時は必ずユアも連れて行くと。


 一人残される恐怖に曝すくらいなら殺して連れて行く。そう約束したのだとアイデクセから教えられたが、少し考えればとてつもなく深い愛の告白だと実感してしまった。

 アイデクセは嘘をつかないと分かっているが、自分が本当にそんな過激な告白をしたのかと疑ってしまう。


 アイデクセと繋がだていたために、彼の感情に引き込まれていたのだとしてもだ。レイトールは一人になる妻の心情をおもんぱかり共に逝こうと約束しているのだ。

 普通なら有り得ない。それが口だけの一時凌ぎならいいが、本気で言っていたとしたらどうなのか。

 夫が死んだとしても、愛しい妻には生き続けて幸せになってもらいたいというのが普通だろう。その普通を通り越して殺して連れて行くとは、アイデクセの背に隠れ俯いてばかりのユアにレイトールは何を思いそんな言葉を発したのだろう。

 レイトールは一人の小娘に執着するような男ではなかった筈だが、まるで見知らぬもう一人の自分がいるようで混乱してしまう。

 

 ユアは天涯孤独だ。

 祖父であるロアークを無くしてからたった一人になり、それがきっかけとなって三人で住まうようになった。その提案をしたのがレイトールだという。

 種族の違いもあり奥手なアイデクセが言い出せないのを手伝ったのか、レイトール自身の感情でそうしたのかは分からない。

 以来何事も率先して話を進めているのはレイトールで、三人で眠るように導いたのもレイトールらしかった。

 今はレイトールだけ別の部屋で眠りアイデクセとユアが二人で寝台を使っているが、それについて嫉妬心などまるで湧かない。

 だからこそレイトールは自分自身がユアを愛していないのは確実だと結論付けながらも、そう思う度に何かしらの引っ掛かりを覚え、伝えるために言葉にしたい感情が湧くのだが、伝えたいのが何なのかを口に出すことができない。

 ユアが攫われ娼館に売り払われたことで、アイデクセが心配してユアから離れたがらないので、ここ暫くは仕事に向かうのも止めて家に縛られている。

 お陰でレイトールはユアを一日中観察するはめになっていた。


 彼女の一日は家事とアイデクセの庭造りを手伝う位で、時々買い物に出る他は完全に引き籠っている。

 二階には作りかけの花嫁衣装があるが、戻って以来手付かずのままだ。

 行動範囲の狭い根暗な感じのする娘だが、姿形で恐れられるアイデクセに対する嫌悪感は皆無で、そこだけは認めてやれることだと受け止めていた。


「彼女を頼む」

「安心しろ。お前ほどではないが女一人守れる程度の力はある」


 力仕事で人手が足りないからと、近所の建具屋の主人に頼まれたアイデクセが出かけていく。

 ユアが狙われるのを心配するアイデクセだが、レイトールが一緒ならと僅かな時間なら離れることができるようだ。

 レイトールはこれを機会にと書類仕事の手を止めて庭に出ると、洗ったシーツを干しているユアの元へと向かった。


 無表情でシーツを干していたユアだが、レイトールに気付いて顔を強張らせる。王子という立場や見た目のせいで女性には人気の高いレイトールが、このような反応を向けられるのは極めて珍しい。

 そんな態度を向けられると、何かしら後ろめたいことがあるのかと疑いつつ、僅かな苛立ちを覚えるが、ユアのように顔に出すことなく穏やかに口を開いた。


「君を知らなければと思う」


 優しく、探る様を悟られないよう注意深く声を出せば、濡れたシーツを握りしめたユアは瞳を瞬かせた後に緊張を解いたようだ。それでも俯いて小さく首を振ると、濡れたシーツを胸に抱き締めて守りの姿勢を取ったままレイトールと向き合っている。


「いいんですよ、レイトール様は王子様なんですから。わたしのことを忘れられて良かったんだと思います」


 聞きようによっては嫌味に取れるが、小さな声ながら告げられた言葉はあきらめを含んでいた。そしてユアの言葉は正しいが、それではいけないと心の奥に湧き起る思いに従い首を横に振った。


「そういう訳にはいかない。私が君を愛したのかどうか、その事実を私自身が知りたいのだから」


 アイデクセのせいだったのかも知れないが、自分が死ぬ時には殺して連れて逝くと約束したらしい娘を目の前にしている。

 その事実が全て偽りの感情から来たものだとの決定的な確証が欲しくて、同時に別の物であるという想いが心の奥底に渦巻ていた。

 レイトールはもやもやした感覚に胸のあたりをそっと押さえる。それを目にしたユアはレイトールが罪悪感を感じているのだと思ったらしく、愛らしくも困ったように眉を寄せた。


「忘れる程度の感情だったんです、どうか気に病まないで下さい。この前はわたしも感情的になって申し訳ありませんでした。レイトール様にとってはこのままでいいのだと思います」


 そう言ってユアは逃げるように背を向けて、盾にするように握りしめていたシーツを物干し竿にかけて皺を伸ばしながら続けた。


「レイトール様には王子としての役目もあります。命の繋がりが解けたのならアイデクセさんの監視を止めて、お役目を大切にされてはいかがでしょうか。そうしたら不仲と言われる王様との関係も修復されるかもしれませんよ。親はいつまでもいてくれません。悔いが残らないようにして欲しいです」


 こういう話し方も二人の関係が深かったことを連想させる。

 ユアは両親や祖父母を亡くして天涯孤独だ。レイトールを気遣っての言葉だと分かり、お前には関係のないことだと拒絶することができなかった。


「アイデクセを置いてはいけない」


 代わりに言い訳のようにアイデクセの名前を出してしまう。


「寿命のことなら聞きました。アイデクセさんが望んでくれるならですが、今度はわたしと繋がって欲しいと伝えてみます」

「私に王族としての役目を全うさせたいのなら逆だろう。アイデクセに対する責任は国としても大きい。勿論責任だけで共にいるのではないが。正直覚えていないが……君への責任もあると理解している」


 アイデクセの後ろに隠れてばかりいるユアに苛立つことはあったが、それでもレイトールは身に覚えのないユアへの責任を感じていた。

 妻とした事実がある以上は、気に入らない娘が相手でもそれなりに対応するべきだ。同時にレイトールは、素の自分自身を見せていたという状況に興味を持っている。一緒にいるのが仕方のないことなら、そこまで惹きつけられた原因を突き止めたいのだ。

 結果、何もなければすべてはアイデクセとの繋がりから起きたことと納得できるに違いない。俯いてばかりのユアに興味はないはずだが、それでも知りたいのだと興味を示すレイトールに、ユアは顔色を窺いながら、レイトールですら思いもしなかった言葉を口にした。


「わたしとは、離婚できないわけではありませんよね?」


 ユアの言葉に衝撃を受け、レイトールの息が止まった。


「レイトール様がわたしと結婚した事実を知っているのは極わずかです。離婚しても見捨てたなんて悪い噂は立ちません。もともと寂しさから縋ってしまって、仕方なく受け止めてくださったのだと思います。だから――」


 シーツの皺を伸ばしていたユアが振り返って息を呑んだ。はっとして驚いたように目を見開いた後、怯えるように瞳を揺らした。


「離婚、だと?」


 自分でも気付いていないことだったが、レイトールは凍てつくような目をユアに向けていた。


 ユアはレイトールの王子としての立場を考えて発言したに他ならない。しかしレイトールはどういう訳か怒りが湧いたのだ。


 婚姻届けに記入し籍を入れてはいるが、庶民の娘と王子の結婚なんて本来なら許されない夢物語だ。

 離れることは良い判断だと理解できるのに、何故なのかその言葉をユアから告げられ、悲しい気持ちと同時に怒りが込み上げてしまったのだ。

 しかしユアの怯える様子に気付いて、また自分が怒っているという事実に驚かされ、射貫くようにユアへと向けていた視線をさっと逸らした。


「お前は私と離婚したいのか?」


 身を硬くしたユアをこれ以上委縮させないよう、レイトールは注意深く穏やかに言葉を紡ごうとする。すると視線を彷徨わせていたユアは恐れながらも、レイトールの様子を窺いながら口を開いた。


「それが一番の解決になると思います」

「何故だ?」

「何故って……」


 ユアは勇気をふり絞るようにして顔を上げると、真っ直ぐにレイトールを見上げた。白いエプロンを両手でぎゅっと握りしめている様にレイトールの心が揺れてしまう。


「レイトール様は、祖父を亡くして落ち込んでいるわたしに同情してくれたんです」

「同情? 私は同情で結婚してしまうような男ではない」


 損得のある契約ならまだしも、同情で一般人と入籍する王族なんているものか。そんなのがいたら余程の馬鹿で無能な役立たずだ。


「レイトール様は祖父を友人だとおっしゃいました。その友人の孫娘が一人残されて、寂しさに押し潰されていた所に手を差し伸べてくれたんです。レイトール様とアイデクセさん、二人の気持ちを利用すればいいといって、一緒に住むことを提案してくれました。籍を入れたのもその流れです。アシュケードの王女様との結婚話が持ち上がって、わたしを一人にしてしまわないようにとレイトール様は王子としての責務を放棄されました。それは全てレイトール様の優しさからでした」


 感謝していると深々と頭を下げられて、どうしてだかレイトールの心は焦りを覚えた。


「同情からの行動と言うなら共寝までしていたのは何故だ。同情だけで毎夜女を隣に置くほど警戒心はゆるくないのだが」


 いつ寝首を掻かれるのか分からない立場にあるのだ。いくら信用していてもアイデクセ以外の人間を側において眠れるわけがない。それを許した理由が何なのか問うレイトールに、ユアは僅かに首を傾げながら答えた。


「それはわたしを好きだというアイデクセさんの為だと思います。それにレイトール様は時々わたしを揶揄って反応を楽しんでいるような節がありましたし。一緒に寝ていてもわたしとレイトール様は男女の関係にはなっていません」

「私だけではなくアイデクセともだな。二人だけで共寝しても未だになっていないだろう?」


 抱くと言ってもそれは揶揄いの言葉で現実にはなっていないらしい。引き籠もりの根暗な娘を自分が揶揄ったことも衝撃だ。嫌味ならともかく、揶揄うなんて気のおけない相手にしかできないことだ。


「正式に結婚するまでと、思ってくれているからじゃないでしょうか。アイデクセさんはわたしに触れて傷をつけるのを怖がっているんです」

「その割にはよく抱き寄せているぞ」

「慰めてくれているんです」

「お前は私を好いていたか?」

「それは――」


 問われたユアは口籠ってそのまま暫く無言になる。泣きそうな顔をしていたが、まるで思いを断ち切るように首を振って無理やり作った笑顔を向けた。

 

「好きでした。正直に言うと、世間一般の女性たちがレイトール様に恋をするように、わたしの初恋もレイトール様でした。でもそれだけです。ただの初恋というだけ。自国の王子様と夫婦になれるなんて夢、そんなものが叶わないことが理解できる程度には常識があります」

「だが私とお前は現実に結婚している」

「だからそれが間違いだったんですよ」

「お前は私の心を開かせていたはずだ。私はその事実が、忘れてしまっているそれがなんだったのかが知りたい」

「錯覚です。レイトール様自身が仰ったように、ナハトさんの魔法が凄かっただけです」

「錯覚だと? 錯覚で私がお前を受け入れていたと言うのか?」

「そうですよ。下さった言葉も感情も優しさも、そして触れる手も。全てが錯覚だったんです。そうじゃないと駄目なんです!」


 苦しそうに吐き出したユアにレイトールが距離を詰めると、まるで恐れるように後ずさられる。その行動が何故か辛くて胸が苦しくなり、逃さないよう思わずユアの細い手首を掴んだ。

 

「お前は何故それほど私を否定するんだ。アイデクセが言うには私はお前を好いていたと言う。私が心を開いてもいない女の前で酒を呷るわけがない。恐らく本当に私はお前に好意を向けていたのだろう。私に好意を向けられ、お前が受け入れていたとするなら、アイデクセの後ろに隠れ俯いてばかりのお前の行動は落ち込んでいるせいだと説明がつく。だがそうでないなら、いくら魔法のせいとはいえ根暗な魅力のない女に私が惹かれる意味が分からない」


 失礼極まりない責めるような言い方だと自覚していたが、逃げられそうになって止まらなかった。しかしユアは最後の言葉に反応して「根暗?」と呟くように漏らすと、ゆっくりともう一度繰り返した。


「根暗……ですか?」


 しまったと思ったが引けなかった。ユアから手を離したが、自分は間違ってないとばかりに「そうだろう?」と続けた。


「お前からは活力が感じられない。私のせいだというならそうなのかもしれないが、お前自身がもともとそうなのではないのか。ロアークだけでなく、お前の母親は有力な魔法使いだったし、父親は私の剣の師であった。だがお前はそのどちらも能力も継いでいない。劣等感を覚え育つのも頷ける。私がそのような娘に興味を持った、惹かれた理由を知りたいのだ」


 冷静な分析だ。王に盾突き役目を解かれたが、ロアークは間違いなくウィスタリア一の魔法使いであったし、早世したがユアの母親も女性ながら戦場に立つだけの実力があった。そして種類は異なるが、ユアの父親は軍事大国として名を馳せたアシュケードの将軍たちにも引けを取らない実力を有していたのだ。

 王侯貴族ではないが優れた家系に産まれたユアが、剣と魔法のどちらかの才能を引き継いでもおかしくない。

 多くの期待があったのは容易く想像できると、最後まで言葉にした所で、レイトールは自身の心に大きな衝撃が走りはっとした。


「残念だったと――」


 レイトールの口から無意識に漏れた言葉は誰に告げたものだったか。

 確認するように声にすれば、全身から血の気が引き、冷やりとしたものが背を伝った。

 言葉にしたのはレイトール自身なのに、その言葉に驚き、後悔が怒涛のように押し寄せる。この言葉を向けてしまった相手を見下ろせば、顔色をなくして口元だけに笑みを浮かべていた。

 とても冷たくて、悲しみに満ちた微笑みだった。


「それはレイトール様だけじゃない。わたしが魔法を使えないことで、誰もが残念だったと落胆したんです。そう思ったのはあなただけじゃありません」


 何度目だ、同じことを繰り返している。全身を凍りつかせそう感じたレイトールの横をユアがふらりとすり抜けた。

 はっとしたレイトールが慌てて振り返ると既にユアの姿はなく、レイトールは頭を抱えその場に蹲る。


「なんだこれは……」


 顔色をなくしたまま微笑んだユアの姿が脳裏に焼き付いた。過去にも同じ言葉があったと感じる。その時は慰めるつもりで発した言葉ではなかっただろうか。


「誰に向けてだ? そう、これは師に向けて……いや、ユアに?」


 生まれた子供に魔力がなく残念であったと、祝福の言葉もなく何気に発したのはいったい何時のことだったのか。

 知らないではすませられない事柄と、己を呪い後悔した過去が渦巻き怒涛のように押し寄せた。


 いつロアークを訪問しても必ず二人はここにいた。

 祖父と孫娘の二人で身を寄せていたのは何故だったのか。

 深夜になっても眠い目ひとつこすらずに、化け物と罵られるアイデクセに満面の笑みを向けてくれた娘が思い出された先で、砕けた硝子の広がる光景が浮かび上がった。


「笑う娘だった。望む前に受け入れてくれる、温かい心の娘だった。だからそんなことがあるなど露にも思い至らなかったのだ――」


 蹲ったまま顔を上げる。唖然と向けた視線の先には何もない。その何もない光景にいいようのない強い恐怖を感じると同時に、レイトールの脇腹から真っ赤な血が滴り始めた。






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