電気羊の夢は買えない
真正院の最上階。エレンに与えられた工房は、かつての地下のそれとは比較にならないほど清潔で、静寂に満ちていた。
ここには錆びた配管も、ノイズを吐く空調もない。壁一面の大きな窓からは、沈みゆく太陽が、街を黄金色に染め上げる様がよく見えた。
エレンは、作業台の端に置かれた端末に目を落とした。
一通のメッセージが届いている。リアムからだった。
『エレン、ありがとう。おかげで、演算契約を正式に結び直すことができた。僕は、僕のままでいられる。人間を辞めずに済んだよ』
その言葉の末尾では、AIが選んだ笑顔の犬が、無邪気に踊っていた。
リアムは救われた。ハドソンの支払った真正性への対価によって。だが、彼は二度とエレンに会いに来ることはないだろう。彼の人間としての尊厳を買い戻したのが、エレンのついた嘘であったという事実は、彼の最適化されたプライドを永遠に苛み続けるに違いない。
「おや、まだ仕事をしているのかい?」
背後から、穏やかな声がした。ハドソンだった。
彼はエレンの肩に優しく手を置いた。その手の重さは、彼女の肩をこの工房の静寂に縫い付けているように、じっと動かなかった。
「世界は君を愛しているよ、ミラーさん。君があのステージで叫んだ真実は、今や真正性という名の神話の一部になった。君が一針縫うたびに、人々は救われるんだ」
エレンは、窓の外を眺めた。
太陽が沈み、街に夜が訪れる。
だが、あちら側の街灯は、今日もまた昨日より少なくなっていた。
「……リアム」
エレンは小さく呟き、針を取った。
彼女にはもう、AIの指示など必要なかった。
自分の指先が、どこで躊躇し、どこで血を流せば、この世界が人間らしさとして喝采を送るのか。針が迷う。その迷いが本物なのか、あるいは学習済みの迷いなのか、もはやエレン自身にも判別できなかった。
エレンは、真っ白な革に針を刺した。
かつてのように指を刺すことも、血を流すこともない。彼女の動きは淀みなく、ただひたすらに、完璧に不完全な針目を刻んでいく。
窓の外で、街の光がまた一つ、静かに消えた。
エレンは、自分を照らすスポットライトの眩しさの中で、ただ暗闇を縫い留めるように、針を動かし続けた。
その部屋には、彼女以外に、生身の人間は誰もいないはずだった。
だが、エレンの耳には、あの青白いノイズが、微かに響き続けていた。
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