静寂の夜明け
光の奔流が収まった峡谷の底には、かつての澱みも、バルバトスの断末魔も残っていなかった。
ただ、静寂だけがあった。
空を見上げると、厚く垂れ込めていた灰色の雲が完全に消え去り、そこには地上の誰もが忘れていた、透き通るような紺碧の空が広がっていた。
そして、地平線の彼方から、温かな陽光が差し込んでくる。荒野の砂利に反射し、それはダイヤモンドのように眩い輝きを放っていた。
オリビアは、ルカに支えられながら岩場に座り込んだ。
彼女の掌には、先ほどまで刺さっていた短剣の傷跡が残っているが、不思議と痛みはなかった。代わりに、身体の奥からポカポカとした温かな熱が全身を駆け巡っている。
「……終わったんだな」
ルカが呟き、自分の手を見た。影の侵食は消え、かつて自分が持っていた「死神」の冷たさも、どこかへ霧散していた。彼が腰の鞘に短剣を納めると、カチリという音が静かな峡谷に響いた。
「ええ。……見なさい、ルカ」
オリビアが指さした先には、峡谷の岩肌の裂け目から、小さな若草が芽を出していた。
それは、世界樹の根が再び大地の鼓動と同期した証拠だった。世界は終わっていなかった。ただ、長い冬眠から覚めたのだ。
「手間賃にもならん……か」
ルカは自嘲気味に笑った。
かつては金貨の一枚、あるいは生き残るための糧がすべてだった。だが今、目の前に広がるこの光景は、何ものにも代えがたい「明日」そのものだった。
「これからは、どうする?」
オリビアが尋ねると、ルカは立ち上がり、彼女に向けて手を差し伸べた。その手つきには、もう迷いも殺気もない。
「まずは、カエルムへ戻って『ただいま』を言わねばなるまいな。……街の連中が、この朝日を見てどんな顔をしているか見届けたい」
「そうね。それから……この銀霧が大地に満ちるまで、世界樹の根を巡りながら歩き続けるわ」
「ああ。……二人で、だな」
オリビアはルカの手を握り返し、立ち上がった。
二人の影が、朝日に照らされて長く伸びる。
荒野を吹き抜ける風には、もう瘴気の臭いはしない。かすかに湿った土の香りと、これから芽吹く命の息吹が混じっていた。
彼らは「死神」と「守護者」という肩書きを、この峡谷の底に置いてきた。
今はただ、新しく始まる世界を歩む、二人の旅人として。
朝日を背に受けて、二人は歩き出した。
その背中は、かつてのような孤独なシルエットではなく、確かな調和を奏でる調べのように、優しく揺れていた。
――世界の再調律は、まだ始まったばかりである。




