怯える心臓
「……嬢ちゃん……嬢ちゃん……」
沙樹の耳に、低い男の声が弱く響く。時刻は5時15分。
眠い目を擦って声のする方を向くと、そこには彼女が殺したはずの青年が立っていた。
彼は首と胸から血を流しており、悲しそうな目でこちらを見ている。
「なんで俺を刺した……」
感情と共に傷口から鮮血が溢れ、彼の肌が赤く染まる。
沙樹はナイフを手に持って青年の喉笛を掻き切ろうとしたが、刃が彼の首をすり抜けて全く刺さらない。
「あら……?」
「無駄だよ。俺は既に死んでるから」
青年は沙樹の首元に手を置き、脈に指を添えた。
その手は雪のように冷たく、沙樹の鼓動が強く早くなった。
「な、何するのよ」
「お前を……地獄へ送ってやる」
彼の手に力が入り、沙樹の首が締め付けられていく。
彼女の喉からは声にならない声が漏れ、苦痛のあまり脳には「首を絞められている」以外の情報が入ってこない。
助けを求めようにも気道を塞がれて叫べない。
「あ゛……がっ……」
「これで俺の気持ちが分かっただろ」
口角を上げて薄気味悪く嗤う青年。
沙樹の舌は石のように固まり、目からは涙が頬を伝って流れた。
肺には酸素が一切届かなくなり、窒息死するのも時間の問題だ。
「お前の嫁が悲しむだろうな。寝こけてる間にあの世へ逝っちまってさぁ」
もはや沙樹の耳には、彼の言葉はまともに入っていないだろう。
抵抗する体力すら奪われ、ただ心の中で死を覚悟するしかなかった。
「っは!」
急に視界が反転し、辺りを見回すと青年の姿はどこにも無かった。
自身の額には京子の掌が宛てがわれ、左胸には鼓動がドクドクと響いている。
「岩下さん、何か悪い夢でも見たの?」
「ええ、ちょっとね」
「さっきの岩下さんの様子を見るに、ちょっとどころじゃなかったと思うんだけど」
パジャマと額には汗が滲んでいて、呼吸が乱れている上に顔色が良くない。
どんなに勘が鈍い人が見ても、悪夢にうなされた直後である事が火を見るよりも明らかだった。
「京子には隠せないわね……昨夜殺した男の霊に絞殺される夢を見たのよ」
「そうなの……そういえば日本にいた頃、あたしも似たような夢を見たわ」
「え、奇遇ね」
それでも所詮は夢だと割り切った2人だが、夢にしては妙にリアルだと思う自分が彼女達の中にいた。
いつか現実になるのではという不安が少なからず脳内を過り、各々の背筋に何ともいえない冷たいものが走ったのだった。




